第5話

少し前から、両親の仲が悪いということは、子供ながらに分かってはいた。それでも父は、目一杯の愛情を私に注いでくれたし、愛しているよと度々言ってくれた。だから、両親の離婚が秒読みになった時も、私は父に引き取られるのだろうと、そう思っていた。だって、父は私を愛しているから。大事な私を、ヒステリックな母の元に置いていくはずがないと、そう信じていたのだ。

七月の半ばくらいだったと思う。蝉が朝からけたたましく鳴いていて、それが煩いと、母がヒステリックに怒鳴っていた。父は、そんな母にあきれたような視線をやり、私ににっこり笑って言った。

「夏南、お父さんと海に行こうか」

私は勿論二つ返事でOKし、急いで水着と着替えをビニールバッグにつめた。その間中、母は父にヒステリックな声で罵声をあびせていた。海なんて危ない、貴方には危機感が足りない。日焼けしたらどうするの、夏南は女の子なのよ。貴方にそんな気配りが出来るの、等々。

私は一方的に父を責める母の声をこれ以上聞いていたくなくて、勢いよく二人のいる部屋に飛び込んだ。必要以上に明るく、早く早くと父を急かして車に乗り込む。やっと母から解放されて、私達はそろってため息をついた。

父はにっこりと笑って、「夏南は優しいな」と、頭を撫でてくれた。ああ、父はやはり私を愛してくれているんだと、そう感じてとても嬉しかった。

車は渋滞につかまることもなく、スムーズに人気のまばらな海岸へとたどり着いた。車から降りて一目散に海に向かって駆けていく私の背に、転けるなよー!と父の笑い声がかけられ、はあいと元気よく返事をしながら砂地につくと、私は腕を広げて潮の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。

追いついてきた父に手を引かれ、岩影で水着に着替える。スクール水着で泳ぐのは女の子として嫌だったけど、これしか持っていないから仕方ない。

一回だけ母に淡いピンクの花柄のワンピース水着をねだったことがあったけど、下品だ派手だと却下された。その事を父に話すと、きっと夏南に似合っただろうにと残念がってくれた。

やっぱりお父さんは、私の一番の理解者だ。私を一番大好きでいてくれる。着替え終わり、うふふ、と思いだし笑いをする私に、お父さんも笑い返してくれた。

準備運動をきっちり済ませ、寄せては返す白波に突撃していく。足元をさらう砂の感触と、熱をもった肌に心地いい水温に、自然と目が細まる。大きく息を吸い込み、思い切り吐き出すと同時に海原目指して駆け出す私を、あんまり深いとこ行くんじゃないぞー!と父の声が追いかける。

返事をせずに笑いながらそのまま深い方へと泳ぎ出す。その当時から泳ぎに自信があった私は、父に誘われた嬉しさもあり、ぐんぐんと沖へ沖へと進んでいった。途中、流石に疲れて点々と顔を出している岩のひとつに掴まって体を休める。

「夏南ー、そろそろ戻ろう。…随分遠くまで来たなあ」

息を切らせながら追いついてきた父が、疲れたように笑って言った。待っててくれても良かったのに。そう言うと、父はダメダメと首を振り、

「大事な一人娘に何かあったら大変だからな。追いかけるのは当然だよ」

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