第19話 にせ海の男転倒する

岩戸小は、2学期に秋の遠足(鍛錬遠足)を行っていた。低・中・高学年3つのコースに分かれて、学年相応の距離を歩くものだ。私はその年、3年生担任をしていたので、中学年コースに行くことになっていた。歓迎遠足と同じとなり町の海水浴場コースだ。歩く距離は、5キロメートル弱、お弁当を食べるところも十分に確保され、トイレ設備が整い、子どもたちは、砂浜を多様な遊び場に変えて時間いっぱい楽しむことができる所だ。

その日は快晴で絶好の遠足日和。晩秋の風も心地よく、海を渡ってくる浜風が、潮のかおりを運んでいた。1時間ほど歩いて3、4年生150名弱が広場に並ぶ。引率は担任と管理職。校長が距離の短い低学年コースに行くので、教頭が中学年、教務が高学年の場所に割り当てられていた。楽しい遠足と教頭のお守りという複雑な気持ちの入り混じるイベントだった。低・高の先生方からは、1日頼むね〜などと励まされ、まぁ、屋外だし子どもたちの安全確保に努めることに徹していれば1日なんてあっという間に過ぎるだろうと思っていた。それが、時間の過ぎるのがこんなにも早くドタバタした遠足になるとは、誰が思っていただろう。

中学年の担任構成は、3年が私と私より数歳若い女性、4年担任が、物腰柔らかい先輩女性教諭と今年度1学期から教頭の嫌がらせを受けている一倉教諭。私以外の先生方は、紳士淑女の雰囲気あふれるソフト系のパーソナリティな方々。それこそ、子どもへの言葉かけも優しく丁寧で、大声を荒立てない、じっくり諭すタイプだ。職員室でも滅多に語気を荒げず嫌な顔もしない、ひっそりと呟く方たちであった。

なので、野外での活動でターザンのように声を届けられるのは私の役目で、子どもたちへの連絡や指示は私が声を発することになっていた。季節は秋なので、海の中に入っていく子どもはいなさそうだったが、砂遊びの果てについ入水する子もいるかもしれず、水に入らないこと、行動範囲の確認、岩場は滑るので十分気をつけるようなどと諸注意を行い、しばし自由時間を取ることにした。

担任が、子どもたちを整列させたり人員を確認したり指示を出したりしている間、﨑田教頭は、防波堤の際まで行って、腰に手を当て遠くの海を眺めていた。それはまるで海の男が壮大な景色を独り占めしているかのような堂々たる風格だった。子どもたちが各々散らばって、防波堤に向かう子がいたり砂浜を走る子がいたり、座って休憩する子がいたりと様子は様々だったが、干き始めた潮の流れに姿を現した岩場で、石を動かしたりめくったりしている子どもたちがいた。

ひとしきり景色を堪能し、海の男のポーズに酔いしれた教頭は、向きを変えてひと足岩場に降りた。と、その瞬間、教頭は、石に付いた海苔で足を滑らせてステンとひっくり返った。腰と頭を同時に打つようにして倒れた教頭。事の一部始終を見ていた私は、

「あっ」

と叫び、急いで走った。遠いところにいた一倉教諭も、目撃していてすぐに走ってきた。その後、4年主任の先生も来た。同学年の先生に、子どもたち全体を見ていてもらうよう頼んで、3人が教頭の元へ。行ってみると、教頭は頭を押さえながら、倒れた状態から頭を持ち上げ、足を投げ出して座っていた。教頭の背後に回って頭部を見てみると、頭が切れて血が出ていた。

一倉教諭がハンカチを差し出す。教頭は、自分の手のひらに血液が付いていたので、不安げな口調で、

「血がでてますね」

と言う。

「ちょっと、そのままにしていてください」

私は、傷口がどうなっているのか確かめることにした。

一倉教諭のハンカチをめくって見てみると、2センチくらいの長さの傷があり血がゆっくり浸み出し続けていた。教頭は、自分から見えない部位を怪我しているので、とにかくおとなしくしおらしく私たちの言うことを素直に聞いた。あんなに従順な態度は見たことがない。

「傷は深くないと思いますが、出血は止まりそうにないので、病院に行かれた方がいいかと思います」

と言うと、教頭は、

「うんうん」

とうなずいて辺りをゆっくり見渡していた。

「どうしましょうか」

「タクシー呼びましょう」

「だれか付き添いましょうね」

「いやいや、一人で大丈夫ですよ」

「一人じゃダメですよ」

「最年長の私が…」

4年主任の先生が付き添うことになった。

手分けして、それぞれの携帯電話で、学校で仕事をされている事務官に連絡をし、タクシーを手配してもらい、校長にも一報入れ、状況を説明したり、様子を知らせたりした。

救急セットの中から消毒液を取り傷口を消毒し、ガーゼを当て、その上からさらにハンカチで止血しながらゆっくり歩いてベンチまで移動した。程なくしてタクシーが来た。

浜について30分もしないうちに、教頭は、タクシーに乗って病院へと向かうことになった。

事務官と校長への連絡により、他の場所にいた低学年と高学年にも情報が届いた。

いろいろな方々から携帯にメールが届いた。

「怪我したんだって?」

「何しててそうなったの?」

「自分で転んだの?」

「ひどいの?」

「お天道様は見てるんだよ」

「天罰が下ったんだな」

……………。それはもう、心配というよりも敵討ちや仕返しの勝利のような、悲しみよりも喜びがにじみ出ているコメントだった。私も、口では、

「大丈夫ですか」

とか、

「心配要りませんよ、大丈夫ですよ」

「落ち着いてください。ゆっくり動きましょう」

などと声をかけながら、「このまま病院から長く出てこられないくらいになればいいのに」「死んでしまっちゃえ。もしそうなったらどうなんだろう」などと思う自分がいた。

不謹慎かもしれないが、介添えしながら、頭の中で、もっと痛めつけたい、もっと苦しんでほしいと願う悪魔な自分がいたことは確かだ。

1時間ほど過ぎただろうか、教頭に付き添って行った先生から電話があった。大事には至っておらず、学校に近い整形外科でとりあえずの処置をしてもらい、その足で町中の大きな病院に向かっていると…。これから長くかかりそうだから、遠足の方をよろしく頼むと言われた。

「よかったですね。こちらは心配要りません」

と言いながら、子どもたちの安全確保を十分に行い、怪我が怪我を呼ばないようにしようと気を引き締めた。

教頭と担任一名が抜けて、管理的には手薄になったが、とにかく、岩場で足を滑らさないように、泳いで溺れるなんて事の無いようにと、これまで以上に気を遣って子どもたちとの時間を過ごした。到着後の慌ただしい救急劇が嘘みたいに、子どもたちはルールを守り充実した遠足を自分たちで作り出していた。羽目を外す子もいなければ友達間でトラブルを起こすこともなく、夏とは一味違う海の色、優しい光、心地よい風に包まれて、有意義な時間をつくることができた。午前の騒動など忘れてしまいそうなくらいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る