第15話 さきたる(﨑田る)

9話で、わざと現状を混乱させる撹拌上司のことをサイクロンから活用させて、『サキタクロン』と名付けた。この話の中でなら新語を作ってもよいだろうか、今までに出会った人物で、こんなにも病的に意地悪で腹立たしく滑稽な人はいないので、苗字を動詞化する。『﨑田る(サキタル)』意味:①権力者の傘下で弱者を痛めつける。②虚偽なのにさも現実であったかのように吹聴する。③嫉妬や恨感を抱くとすぐに奇行に走る。例文:①新年度の布陣にさきたる人物がいて、仲間に心を開けない。②彼のさきたる発言に惑わされ、仲間間でトラブルが絶えない。③タイヤがパンクした。誰かにさきたられたか?


「知らぬ存ぜぬ」の章で、貴本教諭が貶められたことを記録した。貴本教諭は、あの水泳指導をしていた6月末から転勤の辞令が出る3月までの約9ヶ月、教頭とは極力口をきかず、ここぞとばかりに独自の教育論を展開して思い通りの学級経営を行った。﨑田教頭も、心にどこか後ろめたさを持っていたのか、貴本氏に直接物事を頼んだり積極的に会話を交わしたりしなくなった。そして、貴本氏は3月末で転勤した。通勤は5倍も長くなる距離になったのに、送別会の時、貴本氏は非常に晴れやかな顔をしていた。毎日の通勤が、たとえ渋滞に引っかかって辛いものになろうとも、﨑田教頭から逃れられる幸せは何物にも代え難い価値を示していた。

新語で言えば、貴本氏も春乃さんも私も、何度も「さきたられた」存在だ。私は、2人が安堵と希望を携えて新天地に赴くのを、惜別の思い以上に孤独な気持ちで見送った。

そして、人事異動によって職員の入れ替わりがあり、貴本教諭と年齢や性別が重なる一倉教諭が赴任してきた。以前、けやき小学校で一緒に勤めたことがあったので、心強かった。一倉教諭は、貴本氏とはタイプの違う男性だったが、真面目で気のいい性格が、﨑田教頭にとっては、都合よく「さきたる」ことのできる存在となった。


一倉教諭は4年生の担任になった。彼のクラスに、急性白血病の男児がいて、疲れさせてはいけない、できる限りのことはさせたい、保護者と綿密に連絡を取り合ってと、4月当初から配慮を重ねている様子が見えた。

運動会の練習や本番での取組について、﨑田教頭に、学校としての見解を保護者へアプローチするよう指示が出ていた。一倉教諭は、「学校としての見解」が分からなくて、﨑田教頭に相談を持ちかけた。

「あのう、すみません。桐谷君の運動会への参加の仕方について相談したいことがあるのですが…」

「あっ、その件ね、じゃあ校長室で話そうか」

得意の「鬼の居ぬ間に鎮座する作戦」だ。この日も校長は不在だった。彼はきっと、校長の椅子に腰掛けて蘊蓄を語る。

「どんな相談かな?」

言い終えると同時に案の定椅子に座ったそうだ。

「えっ?あのぅ、桐谷君の体調がここのところ不安定で、参加できるプログラムが限られてくるだろう、その選択をどうするかということと、そもそも運動会当日の気候を考えると、本人のコンディションは参加どころか、応援・見学さえも難しくなるのではないかと思われます」

「今学期は普通に登校できてるのかな?」

「半分出席していて、半分は体調不良で欠席です。うち、2週間は検査入院です」

「大学病院の先生から、指示書がでているはずだよね」

「はい、ほぼすべての運動が制限されているのですが、運動会は、種目や演技内容によって参加可能なものもあると言われています」

「学校としては、指示書通りにすべきです」

「本人が、体を動かせるものですから、短距離走とリレーに出たがっているんですよねぇ」

「保護者は何と?」

「お父さんとお母さんの意見が食い違ってまして。離れてお住いのお父さんは、息子のしたいことはさせたい、出場したからといってすぐに命にどうのこうのとはならないとのご意見、お母さんは、直接のひきがねにはならないだろうけど、疲労を蓄積することが体力を奪い、免疫力も低下させると参加を全面的に拒んでいます。それを息子は納得しておらず、練習に参加しようとするのです」

「んー、このこと、校長先生には話してるの?」

「いいえ、まだ。校長先生にお話する前に教頭先生に相談をと思いまして」

「いやいや、一倉先生、こんな時はNo. 1であられる校長先生にまず、相談ですよ」

「分かりました。校長先生は今日お戻りになられますか?」

「いや、終わったら直帰だろうね。明日ね、明日。明日また今日私に話した内容を校長先生にお伝えして、学校としての方針を出してもらうといい」

一見、もっともらしいポーズが取れていて、素晴らしい決断をしたようなシルエットだが、中身のない、時間だけを無駄にした相談になってしまった。おまけに、決断力の乏しい校長に丸投げしたことは、何の解決にもならず、一倉教諭に徒労感だけを残しただけだった。ふだん、「根本は」とか「重要なことは」と基本理念を語るのが好きな教頭だが、自己の範疇を超える事態にぶつかると、割と早いうちに諦める。「諦めの早さ」と「責任転嫁」ではポイントの高い、うちのNo.2である。


上に期待するだけ無駄なのか、とにかく現在の岩戸ツートップは、何も決断しないし全く責任を取らない。ある時などは、むっちゃんが、支援員の先生に支えてもらって、職員室のある廊下を歩行訓練していた。30メートルくらいあるだろうか、その長い廊下の端から端までを何往復かしていて、もうすぐ折り返しというあたりで、「イチ、ニ、イチ、ニ…」と歩を進めていると、ちょうど、校長先生がお手洗いを済ませて手を拭きながら角を曲がった。支援員さんが咄嗟にむっちゃんの重心を右に寄せてすれ違いやすくしようとした瞬間、本当に角を曲がってお互いが目に入った瞬間に、校長は踵を返して再びトイレに入っていったらしい。会ってはならないものに会って都合が悪くなったかのような反応だったという。校長は、教頭みたいにあからさまな悪さ、嫌がらせはしないけれど、真似をしたいと思うこともしない。

時々、「えっ!そこですか?」と思うところでエキサイトしてギャンギャン吠える。目を白黒させて、甲高い声で、ボールペンをカチカチいわせて。

話をしていて目が合ったことはない。大事なことを話す時は遠くを見つめて目を細める。一倉教諭が、桐谷君のことを相談してもおそらく「困ったねぇ〜」としか言わないだろう。きっと、何の決断もできないまま、この件は教頭、担任へと降ろされるだろう。


結局、学校の見解は二転三転し、ドクターの指示書通り、運動はさせないことにした。では、見学についてはどうするかというと、気温や体調を見ながら決して無理をさせないという約束で練習も本番もテント下で見学することになった。


岩田小は、6月になると高学年(4、5、6年生)が、総合的な学習としてペーロン体験をする。地元にペーロンのチームがあり、夏になると練習に練習を重ねて、みなと祭りで大会に出たり体験学習などをお世話してくださったりする。ペーロンとは、船漕ぎ競走のことで、細長い船に20名以上の漕ぎ手が乗り、太鼓や鐘の音に合わせて一斉に櫂を動かし、海上でその速さを競う夏の風物詩である。見ていると、勇ましい掛け声と櫂飛沫、洋上を滑るように進む艇が気持ちいい。しかし、漕ぎ手は全身を使って一糸乱れぬ櫂さばきを見せる。これが、かなり体力を消耗するハードな競技で、体験活動では3〜4レース行うので、もうへとへとになる学習だ。

そこで再び、桐谷君がどうするかという課題が浮上した。管理職は参加させなくて良いのではと言った。しかし、本人と保護者は、船に乗りたいという意向を示し、無理のない役でみんなと一緒に体験することになった。

さて、ペーロン体験当日、港まで保護者が連れてくることになっており、朝から時刻を問い合わせる電話がかかった。教頭が対応したのだが、何を思っていたのか、乗船予定時刻を間違えて伝えてしまい、桐谷君親子が港に着いた時にはペーロンはすでに沖へ漕ぎ出していた。桐谷親子は怒って家に帰った。その日、3レースして教師も子どももへとへとで学校に帰ってきた。給食を食べ、午後の授業をこなし、子どもたちを帰宅させてから一倉教諭は、桐谷宅へ電話をかけた。

いきなり母親の立腹した声が一倉教諭に浴びせられた。

「息子は楽しみにしていて、体調も整えて今日は時間を待って家を出たのに、行ってみたら始まってしまっている、知らされた時刻よりも早めに向かったのに、置いてきぼりとはどういうことですか!」

「えっ?今日の出槽は予定時刻通りでしたよ。私も、桐谷君来るって言ってたけど来ないなぁとぎりぎりまで待ったのですが…。すみません」

「息子は悔しいのと悲しいのとで泣いています」

「すみませんでした」

謝るしかない一倉教諭。教頭が朝の電話で間違った時刻を伝えていたことを知らないので、一倉教諭は、単に桐谷親子が寝坊か何かして遅れたのかと思っていた。悔しさを主張する母親の公務員批判に、紳士的で温厚な一倉氏も「ここまで立腹なのは変だな」と思い、問うてみた。

「いや、ちょっとすみません。私、状況がいまいち掴めてないのですが、間に合わなかったのは、家を出られるのが遅れたからではないのですか?お家で何かあったからとかではないのですか?」

「違います!朝から電話したら10時ですよ

とおっしゃるから、その時刻よりも少し前に来てみたら、もう始まって彼方の海に鐘の音が聞こえるではありませんか!」

「えっ!」

「えっ?じゃありませんよ。嫌がらせとしか思えません。先生と教頭先生の間で何もやり取りされなかったのですか?」

「はい、いや、今日私は何も…」

「岩戸小のあり方が問われますよ!」

電話を傍で聞いていた教頭は、最初、しめしめという余裕のある表情をしていたが、一倉教諭の言葉から自分にも批判が及んでいる様子を察知すると席を立った。鍵束を取り校舎の見回りをするポーズを取って職員室を出て行った。

思わぬとばっちりを食らって、気の毒なのが一倉教諭。保護者の言い分を全て受け止めてサンドバッグ状態。ふだんから口が上手い方ではないので、あたふたと言い訳でも弁解でもない言葉を挟むが、相手が聞く耳を持ってない状況であることは、一倉教諭のすべてから見て伺えた。

「もういいです。息子はこんな学校へは通わせません」

「桐谷君と話がしたいのですが、替わっていただ…」

ガチャ!プープープー

しばらくして教頭が戻って来た。

「教頭先生、今朝桐谷さんから電話があった時、10時から出槽とおっしゃったのですか?」

「私はそんなことは言ってませんよ」

「でも、桐谷母は、10時と言われたから少し前に着くように向かったと言ってましたが」

「あのね、一倉先生、ここね、黒板にちゃんと時間書いてあるのに私が間違えてお知らせするわけないでしょう。お母様の聞き間違えですよ」

「……」

「先生は確認の電話を入れたり、前もってプリントでお知らせしたりしなかったのですか?」

教頭の論点のすり替え、逆襲が始まった。

「私も連絡はしていましたが、彼の体調優先なので、当日最終確認するはずでした」

「じゃあ、なぜ、今朝電話しなかったの」

「いやいや、健康観察の後降りて来た時、教頭先生のメモで、『桐谷さん連絡済み』ってあったから、もうかけなくていいかなと思ったんです」

「そんな、私のせいにされては困ります」

「もう!何でこうなるんや」

一倉教諭は、エキサイトした時たまに関西弁になる。

「あちらのお母さんが、聞き間違えたことを、学校がどうのとか、先生たちがどうのとか言われる筋合いはないですから」

一倉教諭と保護者を仲たがいさせようと、わざと時間を間違えて伝言したのは明らかなのだが、証拠がない。教頭の「さきたりんぐ」を受けた一倉教諭の悔しさは、被害者の会の一員としてよく分かった。

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