第13話 お医者さまぁ〜
子どもの頃、同じクラスに、ものすごく自分勝手で、わがままで、乱暴な男子がいた。ある日、珍しく学校を休んだ。担任の先生の話によると、『風疹』とのことだった。『3日ばしか』とも呼ばれていた病気、しかもうつるので、単に休むのでなく、学校に出てきてはいけないらしいから、長く休むぞ、しばらく意地悪されなくて済むと安心したことがあった。彼が教室にいないだけで、クラスは平和な楽園だった。3日ばしか、3日間の平穏を味わいたい。小学3年か4年生で、あそこまで存在感を示し、憎まれていた子どもも稀有な存在だと思う。
その彼が、3日休まず2日で出てきた時は、かなりがっかりした。恐怖すら覚えた。幸福感を味わおうとピークを調整しているところを、いきなり地面に叩きつけられる感覚。ふわふわした綿菓子が割り箸から落ちて靴で踏まれた無惨さと言っても過言でない。あの日のショックは、40数年経った今でも胸をざわつかせる。まったく無防備無邪気に教室に入ったら、空席なはずの椅子に彼が座っている。ランドセルを開けっ放して椅子を舟こぎしている。
「えーっ!うそー!」
泣きそうな声で信じられない風を表現しながら、思いを共有してくれる友達を探した。ぐるり扇型の視線で…。私より大人な感覚を持ち、大人な対応のできるクラスメートは、上手に彼との距離を保ち、みんな素知らぬ顔をしていた。
すぐに次の叫びが心を満タンにした。
「いいの?3日休まなくていいの?うつるんじゃないの?出てきちゃダメなんじゃないの?なんで来たの?菌を負かしたの?本人もだけど親適当なんじゃないの?」
疑問と文句と抗議の思いが吹き出していた。でも、どの言葉も空気を震わせることはなかった。みんな胸に閉じ込めた。唯一口から漏れたのが、
「お医者様は、3日間は学校行っちゃダメって言わなかったの?」
「いいや。すぐ治ったもん。おい、行くぞ!」
周囲の落胆と失意を感じる様子もなく、彼は仲間を引き連れて運動場に遊びに行った。そして、早速始業に間に合わず先生に叱られていた。お医者さま〜、お願いです。彼のパワーを吸収するお薬を処方してください。
岩戸小で嫌な思いをする度に、子どもの頃のこの出来事が蘇る。お医者さまに、意地悪で狂気じみた人の心を激変させる薬を処方してもらいたいと願う日々である。
﨑田教頭は、時折、体調を崩す。鼻をグスグス鳴らしたりこめかみを指で押さえたりして、放課後の職員室で激務に立ち向かう戦士を演じる。職員が、
「風邪ですか?」
とか、
「具合悪いのですか」
と声を掛けると、必ずといっていいほど、
「医者の友人に抗生物質もらってるから大丈夫」
と言う。友達にドクターがいることが自慢なのだ。医者の友人が…、知り合いの医者が…ホームドクターの友人が…友人が医者でね…医者様を友達に持つと、友達が医者様だとそんなにすごいことなのだろうか。おそらく、一般的に、お医者様は高い地位にある人だと思う。能力・財力・社会的信用…などなど備えた力は大きいのだと理解している。しかし、そのお医者様と友人関係にある人のパーソナリティは、お医者様の存在によって高められるものとは言い難い。友人は友人、自分は自分なのだから。よく、『類は友を呼ぶ』というから、友達の様子が自分と重なるということはあるだろう。しかし、友達が医者であることを盾にするような人を、その医者様は友人だと思っているのだろうか。甚だ疑問だ。
1月のある日、2月に控えた研究発表会に向けて、棟が離れた部屋で環境整備班が話し合いをしていたら、教務がドアを優しくノックして入って来た。心なしかにやけている。でも、深刻そうな表情も見せた。テーブルの近くまでゆっくり歩いて来ながら、我慢も限界になったか、口元が急にほころんだ。すかさず、後田劇団の座長後田教諭が、
「何かいいことがありましたか?もしかして、教頭先生ネタ?」
と言った。教務は、口元を手で隠していたものの、目尻のシワが朗報であることを物語っていた。
「ビッグニュース、ビッグニュース」
「なになに?」
「教頭先生がね、網膜剥離で1ヶ月入院するんだって」
「うっそー!それ、本当にホント?」
「来週から休むって言ったよ」
「やあー、信じられん。嬉しい」
「明日話があると思う。まだ知らないフリしててね。そいじゃあ」
「網膜剥離ってねぇ」
「1ヶ月休むって、そんなに大変なんですかね」
「1ヶ月休むと1ヶ月入院ってちょっと違うよね。どっちなんだろう」
「1ヶ月入院して、さらに1ヶ月自宅療養とかにならんとかな」
「どちらにしても、ちゃんと、しっかり1ヶ月は休んでほしいね」
(4、5日で出てくるなんてことないよなぁ。風疹の彼みたいに…。1ヶ月といっても20日間くらいって思っとこう)
「あんまり長く休んだら、来年度の人事異動に関わってくるから、長くても3月内には戻って来てもらわないと、いつまでも岩戸に居られたら困るよね」
「異動ねぇ。微妙だね」
「まっ、鬼の居ぬ間に洗濯だ」
「こんな日が来るとは…」
どんなにお医者様仲間がいても、網膜の剥離には抗生物質は無力だった。さすがの教頭も眼科医の友達はいなかったのだろう。いたとしても剥離は止められない。学校に1番近い眼科を受診して診断が下りたようだ。どんな手術をするのか分からないが、お医者様の指示をよく聞いてゆっくりゆっくり治してほしい。
神様が与えてくれたやすらぎの時間、大切に過ごそうと心に決めた。
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