第12話 トップの椅子

 1年の中で、﨑田教頭が上機嫌になる時がある。7月の終わりから8月の初めにかけて、『管理職採用試験』が終わった直後から十日余りの期間である。夏休み中であることで、職員にも余裕があり、教室の暑さに耐えかねて教頭がいても職員室で結構な時間業務を行う。その際、世間話や家族の話が弾んで室内が明るい雰囲気になることも関係しているとは思うが、きっと、毎年、試験の手応えが良く単に機嫌が良いのだと思う。しかし、8月末には不合格が分かり、夢破れた落胆顔は、上昇志向など微塵もなく、昇格の動きなどに全く無頓着な職員でも「落ちたのですね」と察するほど無様な様子があからさまになる。校長(トップ)の椅子の遠いこと。結果がこんなに分かりやすい受験者は早々いないのではないか。みんな、あの仕事ぶりあの性格、あの日常では何度挑戦しても無駄だということを確信しているのに、なぜ消化試合をしていることに本人が気付かないのかと思う。

 君はブラックリストのレギュラーなんだよ、試験に費やす時間やエネルギーをもっと任務に注ぎたまえ。夢を見るのは自由だが、その夢が現実となっては、本県の教育が悪路の一途を辿ると囁いてあげる人もいないのだ。

彼は、きっと相当孤独なのだと思う。なぜそう思うのか。誰も彼に敬意を表していないし、頼ってもいないからだ。無関与・無信頼ほど寂しいものはない。無視はしていない。仕事上、言葉を交わしたり情報を共有したりしなければならないので、立場の上だけでやり取りはあるが、情は交わしたくない。業務内容の共有はあるが彼への共感はない。

私たちと彼の間には、近くて遠い、果てしなく遠い距離があることは、彼と校長の椅子との距離くらいに相当の乖離がある。彼が何度となく夢を見てシュミレーションしたトップ君臨の絵図は、冷静に見ると、幼児の『ままごと』でしかない。その『おままごと劇場』の一旦を記しておく。

ある日の放課後、校長が外勤で留守した際、たいした用でもないのに教頭が私を校長室に呼んだことがある。

「松田先生、ちょっと校長室にいい?」

「はい」

教頭の後に付いて校長室に入室した。

「先生、これなんだけど、もう見た?」

回覧文書を閉じているバインダーを示しながら、ある書類の事実を知っていたかと問うてくる。

「いいえ、私はまだ見ていない文書です」

学校に届く文書は、事務官が受付処理をし、教務・教頭・校長の確認を得て、該当職員や該当部署にアナウンスされる。その流れを十分知っているはずの教頭が、まだ、校長に上がっている段階の文書、平の職員に知らされていないことは分かっているはずなのに、何を今この書類を見たか、このことを知ってるかと尋ねなければならないのか。私はすぐに、書類の内容はたいしたことではなく、こうして校長室に呼んで指導をしている様こそを彼がセッティングしているのだと理解できた。彼は、腕組みをして、にこやかで余裕のある表情を見せながら、

「ちょっとね、ここ、ここのところを見てみて」

と、文書の一部を丁寧に指でなぞってみせた。そして、すぐさま、校長の机の角を回っておもむろに椅子に腰掛け、再び腕組みをして椅子を後ろにのけぞらせた。さらに、時折書類を指で叩きながら、良き理解者のような声色で、

「困ったねぇ、保護者から何も連絡がなかったの?」

さも、上司として部下の不始末をフォローしているかのような絵をつくっている。私は、文書の内容を見て、何の問題もないただの住民異動の知らせであることを確認した時点で、彼の魂胆を見抜いてしまった。そして、校長の椅子に座り、部下に指示を出す自分の姿に酔いしれている彼を見て面白くなり、しばらくこの2人芝居の相手役になることにした。

校長椅子を右に左にくるくると回しながら、だから君、僕が何を問題視してるのか分かってるの?教えてあげるから、聞いておきなさい。わざとらしい演出が前面に出る。続けて肘置きに両腕を落ち着かせて、しかし、声のトーンはやや上げて、

「なぜ今なのだろうね。そのへんの事情は聞いてないの?」

私と児童・保護者との意思の疎通を確認する。

「はい。卒業前に引越する話は聞いていましたが、手続きをいつ行うかということは聞いていませんでした。お相手やその方のお仕事との絡みもあるらしく、単に学校のスケジュールと合うようにはいかないとのことは相談を受けていました。年度内に早く手続きを済ませ、転校や進学、新生活をスムーズにしたかったのだと思います」

「ははぁ、なるほどね。知らない間に、先生に相談もなく勝手にっていうことではないんだね」

「はい。こんなに早くされるとは思っていませんでしたが、おそらく、ご夫婦間、親子間でよく話し合われてされたことだと思います」

「なぁるほど。はい、分かりました。そしたらね、卒業生台帳を修正しないといけないからさ、そこを注意しておいて」

「はい、分かりました」

「よしっ。よく分かりました。忙しいのにごめんね、分かった分かった、はい、ご苦労様」

前述したが、書類の内容は、単に保護者が転居の手続きを行った知らせのプリントで、何も問題のない、それこそ、後ででも机上に載せておけば済むもの、何も教頭がわざわざ確認をしなければならないようなものではない事案だった。しかも、校長室で。それを何がしたくて私をわざわざ校長室に招き入れ、わざわざナンバー1の椅子に座り、会社ドラマのシナリオのような台詞を口にして私を芝居に引き込まなければならなかったのか。さも、重要深刻なことが発生して、困難を打開するには自分のアドバイスしかないような演出をし、困ったねと言いながら、目は全く困った様子ではなかった。ただ、校長の椅子に座り、辣腕を振う頼れるリーダーを自作自演したかったのだ。トップの椅子に座って部下とそれらしいやり取りがしたかったのだ。今日、この時間に、何としてでも…。

それはどうしてか。なぜならば、今、まさに、この部屋のテーブル席で、育友会執行部役員による会計監査があっていたからだ。育友会会長・副会長2名・会計2名・監査2名の計7名が大きな会議デスクを囲んで書類を広げて年度末の仕事をしていたのである。その作業の空間に敢えて侵入し、何事かと思わせて、育友会役員の方々が、私たちの会話を全部聞き取る場面を演出したかったのである。校長不在の折には、自分がその業務を請け負い、部下に信頼され、部下を正しく導く様を保護者に対して知らせたかったのだ。自分の優位性、万能性を間近に見せつけたかったのだ。私を出汁にして…。単に、監査事務作業の邪魔をしただけということに気付かず、﨑田氏は、見事に校長役を演じ切った。正味3分足らず、観客7人、演者はたった2人の小劇場だった。

そういえば、もう一つ、3ヶ月前にも校長不在の間に、校内放送で呼び出された事案を思い出す。1、2時間目の間は5分のトイレ休憩しかないというのに、そのたった5分の中で、

「6年生の担任、今すぐ校長室へ」

のアナウンスが入る。慌てて降りていくと、金庫を開けて、中学校進学についての大切な書類が来たから、今すぐ仕分けして配る手筈を整えよという。

「えっ!今からですか」

「そうそう、今からできるでしょう?」

校長のいない間に、校長ぶって指図しようとする。隣の担任の先生共々、2校時の授業時刻に入っていたので、

「昼休みに整理するでいいですか?」

と確認すると、

「大事な書類だから、漏らさず配付してほしいから」と言う。

「ですから、時間のある昼休みに2人でちゃんとしますので」

と言うと、

「分かりました。昼休みね。だったら、それまで金庫に保管しておいてください」

と言って、広げた文書をいそいそと片付け始めた。

なぜ、2、3分しか余裕のない時間帯に呼び出して作業をさせようとしたのだろう。授業を軽く見てるのか?いや、全校児童・職員に対して、自分が牛耳っているアピールをするために、校内放送で知らしめたかったのだ。今日は校長がいない、市教委から文書が届いた、チャンスだ!6年担任を呼びつけて仕事を割り振っている絵を見せつけよう!私は偉いのだ!そうだ!私には権力があるのだ!

聞くところによると、この時私たちが

「何故に今?」

と首を傾げながら教室に上がっている最中、校長室からガタガタした音が聞こえてきたらしく、教務が覗いてみると、教頭が足で金庫を蹴っていたそうだ。トップでもないのに、トップぶったって、メッキは剥がれるというもの。鬼の居ぬ間に威張ってみたかったのだろうが、あえなく失敗。このような徒労を繰り返している限り、そこにあるトップの椅子は、﨑田教頭には果てしなく遠いものにしかならないのである。

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