第3話 好意に甘える

 新しく受け持つクラスに、脳性麻痺の子がいた。学習はもとより、歩くこと・食べること・話すこと・排泄すること・意志を表示することのできない子だった。校内に特別支援学級はあったが、保護者の意向が、普通学級の児童として在籍し、みんなと一緒に過ごしたいというものだった。

 登校は母親が車椅子を押して通学し、校舎4階まで抱えて上り、席に着かせる。下校はデイサービスの人が車で迎えに来て連れて帰る。校内では、支援員と呼ばれる市の職員が付き添い、介助した。その市の職員の勤務が、教員と一致しない点があり、6年生なので、午後4時まで授業があるのに最後まで支援できなかったり、週に1日、月曜日に誰も付けない日があったりと、実は今年の6の1には、大きな課題が潜んでいた。学級の児童名簿を渡されてそのことが明らかにされる。いやいや、今までいた職員は周知の事実だし、一番引っかかる事案だろう。それを知らない者に押し付けて素知らぬ振りをしているとはどういうことなのか。いきなりの騙し討ちである。知り合いが多くいた分、誰もそのことに触れず、むしろ無かったことのようにしていたことに、﨑田教頭への不安以上に全職員への不信感として私の心に影が貼りついた。


 さて、支援員が出勤しない月曜日、授業中に奇声を発しながら唾を吐き、コミュニケーションが全く取れない彼女と34名の子どもたちとの学習や生活をどのようにすればよいのか、昨年度からの案件として議題に上がってはいたものの、何の手も打たず、策も講じずそのまま4月を迎えた岩戸小。

 職員室に呼ばれて教頭がこう切り出す。

「むっちゃんのことなんですけどね、支援員さんの勤務に制限があって、月曜日に誰も付けないんですよ」

「はい。それで?」

「私たちは、年度末からこの案件に対して策を練っていたのですけどね、聞いてくださいね。週に1日、支援員さんは学校に出てこられないのです。分かりますね。それで、他の学校の支援員さんはだいたい金曜日にお休みを充てる方が多いのですけど、うちはお願いをして月曜日に休んでもらうようにしています。月曜日が1番少ないから影響を小さくするためです。1年間35週の中で月曜の課業日が27回くらいになります」

「はい」

「その27回の月曜日のむっちゃんのお世話を誰がするかという話で、岩戸小の職員の配置を見てもらうとお分かりかと思うのですが、どの人にも余裕が無いのです」

「つまり、私が見なければならないということですか?」

「見なければならないという義務ではありません。決して義務ではないのですよ。ただ、むっちゃんは、あくまでも6の1の在籍児童ですから、担任は松田さん、あなたということです」

「ですから、私がしなければならないということですね」

「いやいや、そんなに強く押し付けているのではなく…」

 はっきりと言えばいいのに、何の打開策も示さず、ただただ無い袖は振れぬと言う…。昨年度も支援員さんは同じ人だと聞いていた。ふと、昨年度はこの問題をどうしていたのだろうか?と思った。そこで、ちょっと尋ねてみた。

「去年はどうされていたのですか?」

待ってました!と言わんばかりに教頭が身振り手振りで説明を始める。

「昨年度はですね、学校サポーターの清田先生がご好意で支援してくださってたのですよ」

 学校サポーターとは、退職した教員(校長職が多い)が、子どもや保護者の悩みや相談に応える、豊富な経験を生かして学校全般のサポート業務を行う人のことで、週に3日ほど勤務される方のことだ。

「今年もその清田先生は来られるのですか」

「はい、うちは今年も清田先生が配属されます」

「月曜日に来られないのですか」

「お願いすれば来てくださると思いますが、鼻っから清田先生を充てると言うわけにはいかないのです」

「今年も、清田先生のご好意に甘えるというわけにはいかないのですか?」

 私が発したこの質問と考えで、﨑田教頭の表情は一変した。眉毛がキッと持ち上がり、口元は歪んで、ペンを持つ手も力が入ったのが分かった。そして、彼はいきなり激昂し、

「ご好意に甘えるとは何という言い方ですか!」

「いや、でも、昨年度は清田先生のご好意に…」

「だから、私たちは何も清田先生のご好意に甘えていたわけではなくてね、どうする術もなかったところへ、清田先生が自主的にむっちゃんへの関わりを持ってくださったわけで、僕たちが手をこまねいていたわけではないのですよ」

 何も昨年度の方々の批判をしたつもりはなかったが、教頭は痛いところを突かれたと思ったのか、仕方なく清田先生の手を借りたのだと言いたかったようだ。聞き苦しい言い訳が、強い口調で吐かれる。

「松田さんね、勘違いしないでくださいよ。私たちは甘えて人に力を借りてるのではないのですよ」

(いや、結果的に完全依存のオール甘えではないか!)

「そこを勘違いしないでください」

「はい、すみませんでした」

(なぜ、私が叱られなきゃならないのか。一体どうしたいというのだ!さっきから目を白黒させ、ボールペンをカチャカチャいわせるだけの校長。前任の校長から聞いてないとは言わせないよ。いや、申し送りなんてなかったかもしれない。だいたい、こんな重篤な障害を持った子どもを、「親の希望」という免罪符1つで押し切られ、普通学級に属させる。そして、学校へ預けたら一切ノータッチという親の主義だか主張だかを受け入れ、わがままにも目をつむり、むしろ関わらないようにしている雰囲気。親身になっているフリだけで、みんなで無視し厄介がっているのに、無い袖は振れぬ?やむなく手伝ってもらっている?考慮を重ねて?一体どこで誰が何回むっちゃんのことを話題にし、アイデアを練ったというのか!)

 私は、この数分間のやり取りで、これまで、むっちゃんのことを思って親御さんに掛け合った形跡がないことを察した。

 そして、あんなに清田先生に頼るのはイレギュラーだと言っていたのに、結局は、

「清田先生に、今年も月曜日に来てもらいましょうか」

 となった時点で、最初から清田先生に頭下げればいいじゃん!チンケなプライドだけは守って、恩を着せたような場面を演出して、振る袖はいくらでも持っているのに、「私たちが入りましょう」の一言を言わず、あえてむっちゃんから遠いところに身を置こうとしている管理職2人、揃いも揃って頼れない上司であることを確信して、4月3日の呼び出し事案は終わった。


 人様のご好意は「甘える」のではなく、「受ける」と表現しなければならないということを、甘えるを狂ったように否定した﨑田教頭から学んだ。まだまだ序章である。

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