第2話 僕の名はディルク=グリューネヴァルト
音も無く日が昇っている。小鳥が二羽、アクロバティックに宙を舞い、一本だけの庭木は鹿角のように枝を広げ、紅色の小さな果実を実らせている。家は黄色い煉瓦造りで、コルクの看板には「本日休業」とある。畑では薬草たちがぽつぽつと淡い七色の花を咲かせていた。
庭といってもこの周辺に民家は無いため、この家庭でその認識は曖昧である。少年は母親の昼食を伝える声が聞こえる範囲を「庭」として暮らしていた。友人はおらず、同年代の輩といえば稀にやってくるこの辺りの領主の使用人程度のものだった。自然に住む動物や、そこに宿る妖精たちと戯れながら、ぼんやり「友達」というものを理解した気になっていた。
彼がここでやることといえば、時期が来れば薬草の収穫を手伝って、あとは自室にこもって魔法の勉強に励むくらいである。今日は火曜日で、炎魔法の特訓をする日だ。
薬草畑を囲う柵の隣で、彼は父と共に、杖を振るっている。彼の名はディルク。そして隣が父親・シュターデンである。長閑な野原に、二人の声が交互に響いている。近くの切り株には、重厚な紅い魔導書が閉じて置いてあった。
「構え」
「はいっ」
左手の杖で雑な造形の藁人形を指す。
「唱え」
「目覚めよ炎」
口にしたのはある一点に炎を発生させる呪文。ディルクは炎魔法が得意だった。
「放て」
「はいっ」
数メートル離れた人形の胸部に、ポッとマッチほどの火が灯る。火は見る見る大きくなり、みるみる藁人形は炎に包まれ、崩れ落ちた。ディルクは、青くて大きな眼をぱちくりさせると「父さん」と父を見た。
「なんだ」
「威力低すぎ。最初から」
「え、あ、すんません」
「真面目にやってる?」
「やってます、すんません」
「じゃあいくね。開くべし」「はいっ」「唱えるべし」「目覚めよ炎」「放つべし」「はいっ」「駄目、もう一回」「はいっ」
しばらくするとシュターデンの眼鏡は曇り、顔もげっそりしてきた。千鳥足になって、詠唱も舌が回らなくなって「めらめお、おのお」という感じになっていった。ディルクはため息を吐き、何か言おうとしてやめた。
「あー……父さん、まだ休憩じゃないよ?」
「待って、ちょ、ちょっとパパ、疲れちゃった……」
「早いよ。父さんって炎魔法苦手だよね」
「あー疲れた……後は自主練、頑張ってネ、はあ……」
父は息子から逃げるようにして体を起こし、黄色いレンガ屋へ走った。ディルクは「走る体力はあるんだ」と、切り株に腰掛けて本に手をつける。キッチンから「お疲れ様です」と声がして、魔法を調合する際の黒衣装のまま、タオルを手にした妻が駆け寄った。脱力して壁にもたれ、石の冷たさを感じた。
「今日も絞られたみたいですね、うふふ」
「お前から言ってくれないか、父さんも若くないって」
「良いことじゃありませんか、近頃あなた運動不足でしょ? うふふ」
「呑気なこと言ってる場合じゃないよ……」
家の外で轟と音がして、その振動は小さな家を丸ごと揺す振った。棚から色とりどりの薬品がフローリングに転がり落ちる。
「なに、敵襲? こんなド田舎に?」
「あの子ですよ。敵襲だなんて、うふふ」
シュターデンはむしろあの爆音と衝撃の中平然と壺の中で沸騰する紫色の液体をかき混ぜ続ける妻に驚いたが、すぐ正気に戻ってさっき入ったドアから顔を出した。
「こらディルク、何をやってんだ! おわお」
彼の前では炎が鞭の音を立てて、空に黒煙を伸ばしていた。ディルクが慌てて杖を釣り竿のようにしならせると、炎はたちまち縮んでいき、最後にはポンっと消えた。野草の焦げた臭いと、微かな煙だけが残っている。
「ごめんなさい、さっきの魔法を使ったんだけど、強すぎちゃった」
「あー……その、そっか。ほどほどにな」
開いた窓から「十三歳でそれだもの。将来は良い魔法の薬屋になるわ、うふふ」と母の声がする。調合中で手が離せないようだ。シュターデンはふと静かに我が子の顔を見つめると、玄関前の石段に座り込む。
「すまん。お前を街に送り出して、めいっぱい魔法学を学ばせてやりたいが、そうするとうちの店がな……」
ディルクは父に優しく微笑み、父の隣に座った。平雲が空を流れていく。
「心配しないで、興味本位でやってるだけだから。この店はちゃんと僕が継ぐよ」
「本当に?」
「本当」
「だったらお前、こういう魔法の練習だけでなく、少しは母さんの手伝いとか、してあげなさいよ。父さんの攻撃魔法訓練は良いからさあ」
「手伝い?」
「薬の調合。うちは薬屋だぞ?」
「でもね父さん、こんな田舎の」
「ド田舎」
「ド田舎の薬屋には客もほとんど来ないし、そもそもあの薬は母さんの水魔法と父さんの土魔法で育てた薬草が基盤なんだから、僕の手伝いなんて要らないと思うんです。どうやっても二人みたいに上手くできないし」
「そうはいっても、調合は全部母さんがやってるんだぞ? もうお前も子どもじゃないんだし、いつまでも半人前だと困るだろ」
「僕、一通り出来るよ。こないだも父さんの湿布薬作ったじゃん。あれ効いてるでしょ?」
「すっごい効いてる。いやあもう全然腰、大丈夫だわ。次はミントの香りとかにしてみてよ。じゃなくてさあ、母さんに悪いだろって言ってんの」
窓から「私は好きでやってますから良いですよ~。うふふ」と声がする。シュターデンは少し薄くなったような気がしないでもない頭髪を掻き毟る。
「それにしても父さん、元気ならまた特訓しようよ」
「これはカラ元気」
「あのさあ、そうやって嘘ついてるとろくなことないよ? って、小さい時僕によく言ってたのは父さんでしょ」
「子どもが親に説教すな」
「さっき子どもじゃないんだしって言ったじゃん」
「あーもうそういうとこ本っ当母さんに似たよなお前。そういえばお前、どこでこんな魔導書を手に入れたんだ。父さんこんな本買ったことないぞ。つか、こんな高そうな本買う金がうちにはない」
丸い窓から「私は調合魔法しか教えてないのに、偉いわね~。うふふ」と声がする。
「お前はいい加減庭に出てこい! いちいち台詞の前後に状況説明文を挟むおかげで一文一文が長くなるだろ!」
去年ヒビが入ってからまだ交換できていない窓から「手が離せないの、うふふ」と声がした。
「で、どこで手に入れたんだこの本。まさか盗んだわけじゃないよな」
「違うよ。違うけど……」
「けどなんだ」
「……怒らない?」
「絶対怒らない」
「ほんと?」
「親を疑うんじゃない。ただし、どんな理由であれもし犯罪だったら怒るぞ」
「犯罪じゃない」
「うん、なら怒らない。怒る理由ない」
「ほんと?」
「本当」
「実はこれ、こないだお爺ちゃんにもらったんだ」
「それは怒る」
ディルクの祖父は、彼に薬の調合以外の魔法を教えてくれる唯一の存在で、今は山を越えた魔法老人ホームで暮らしている。魔法以外にも動植物の知識や、天気に星座なども祖父に教えられ、水で潤う土のように彼は知識を深めていった。しかし、そんな祖父のことを、どういうわけか父は嫌っていた。
「爺さんめ、またうちの子に勝手に魔法を教えようとしやがって。おいヘレナ、ちょっと用事ができたんで、お義父さんの老人ホームに行ってくる。止めてくれるなよ!」
「ま、待ってよパパ!」
「ディルク、こんな時だけパパって呼ぶな、パパ根負けしちゃうだろ!」
シュターデンは玄関に立てかけてあった箒を掴むと、真っ赤な顔のままそれに跨り、度が入ったゴーグルをギュッと目にひっつける。すると家からヘレナが珍しく慌てた様子で飛び出した。
「ちょ、ちょっと待ってください、あなた!」
「さっき止めるなよって言ったじゃん! 義理の父とはいえ、今日という今日は怒鳴りつけてやる! ヨボヨボだからって容赦せんぞ、じゃあ行ってくる!」
箒は宙に浮かんだと思えば、山向こうの老人ホームめがけて、流星のような速さで飛んでいった。
「今、お父さんが亡くなったって老人ホームから連絡が来たんです!」
流星は雑木林に落下した。
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