第16話好々爺
まるで川の流れのように、出来事というモノは次から次へと厄介な事を運んでくる。
せっかく俺が堂々としていようと思ったのに、真横から来るその人の姿を見てしまったことで、すっかりその気分は萎えていた。だが、反射的に挨拶はする。つい、社内で会った時のように。
「――友田部長。お疲れ様です!」
そもそも、俺はポーカーフェイスが得意じゃない。どちらかというと、努力してそうしているに過ぎない。ただ、この時ばかりは驚きと動揺が俺の心を支配していた。
案の定、それがそのまま声に出る。
若干声が上ずったのが分かったのだろう。俺の腕を持つ若菜ちゃんが、珍しくその体を固くした。
――まあ、それは仕方がない事だろう。俺が緊張した理由とは違うだろうけど……。
たしかに、友田部長は口調もやさしく、物腰は柔らかな人だ。第一印象はともかくとして、知っている人はみんな友田部長を慕っている。
だが、第一印象は最悪だ。
それは、部長の見た目がそうさせる。
友田部長の体格は日本人離れしすぎている。身長も俺よりはるかに高く、横幅も俺よりもある。いまでも、人波から頭一つ以上抜き出ている。
ただ、さすがに初老と言える年代だけあって、かつては黒かった髪も、全て白くなっていた。
だが、それだけでは第一印象は悪くはならない。友田部長の場合、その強面の顔がそうさせている。
何よりその顔は十代の少女にとっては恐ろしいものに違いない。正直言って、表の世界で部長している人じゃない。俺達とは違う世界で、何かをまとめている人に違いない。
それが迫ってくる感覚は、若菜ちゃんにとってはホラーだったに違いない。でも、彼女の視線が下を向いた時に、それは一気に和らいでいた。
その隣には、可愛らしい女の子が手を繋いで立っていた。精一杯、背伸びした感じで、かわいらしく。
「お孫さんですか? 可愛いですね。今日は水族館にいらしてたんですか?」
確か、友田部長のお嬢さんの所に、五歳の女の子がいるという話しだった。昔は厳しかった部長も、孫が出来てからはけっこう柔らかくなったと思う。
「そうなんだよ。娘夫婦が買い物に出掛けちゃってね。僕達夫婦が預かることになったんだよ。でも、妻とはぐれちゃってね。いや、ここは人が多くてまいっちゃったよ。でも、この年で水族館はないよね。ただ、明日香がイルカを見たいっていうからさ、きちゃったよ」
手を繋いでいない方の手で、真っ白になった頭をかく友田部長。
かつては鬼部長と呼ばれたこの人も、孫の前ではただの白熊だった。だが、その眼光は鋭い。その雰囲気を察しているのか、若菜ちゃんも俺から手を離して控えている。
「奥様は携帯をお持ちじゃないんですか? 探しましょうか?」
「いいよ、そのうち見つけてくれるからさ。昔から、妻は僕を探すのが得意でね」
――いや、それは俺でも出来ることだ。部長には内緒にしているけど、昔社員旅行で目印になっていたんだから。
ただ、それならじっとしている方がいいだろう。本当は早く切り上げて離れたいけど、あまり奥さんをウロウロさせるのも忍びない。
ちょっと前に、奥さんの膝が悪くなったとか聞いた気がする……。それを知っている以上、少しここに部長を留めておく方がいい。部長の事だ、たぶんこの明日香ちゃんの行きたいように歩いているに違いない。
――なら、俺がする事は決まっている。
「おじいちゃんと一緒で、よかったね。明日香ちゃん。イルカさんは見れたかな?」
「うん! おじいちゃんが見せてくれたよ!」
「そうか、よかったね。大好きなおじいちゃんとイルカさんが見れて」
「うん!」
「イルカさんはどのくらい大きかったのかな?」
「んっとねぇ。こーのくらいだよ!」
「すごいね。おっきいね。おじいちゃんよりもおっきいかな?」
「うん! でも、おじいちゃんもおっきいよ!」
「そうだね、おじいちゃんはとっても優しくて大きいよね。明日香ちゃんは、おじいちゃんが好きなんだね」
「うん!」
しゃがみこんで、明日香ちゃんと話をする。この子がよそに行かないようにする必要がある以上、話し相手は部長じゃない。好々爺の今の部長も、少し休憩する必要があるだろう。明日香ちゃんの手を引く以上、少し腰をかがめているに違いない。
――少なくとも今は……。でも、ちょっと周囲の人に同情する。多分、後ろに座った人は全く見えなかっただろう。周囲にいた人達は魚どころじゃなかっただろう。ひょっとして、魚たちが逃げていたかもしれない。
優しく明日香ちゃんの頭をなでていると、上から部長の声がした。
「
――いや、別に自慢しているつもりはないけど……。
ただ、その言葉に反応して、『あはは』と愛想笑いをしながら立ち上がってしまった。これでは、明日香ちゃんと話をしにくい。というより、友田部長の話に応えなければならない。それでは、当初の目的を遂行できない。
――いや、それだけじゃない。
それもあるけど、別の問題が気になってしまう。気付いていないと思っていたけど、やっぱり、友田部長は俺達が腕を組んで歩いていたことを見ていたのだろう。
もしかすると、警察官に職質をうけ、周りをやじ馬で囲まれていた時も知っているのかもしれない。あの時から、俺はサングラスを外している。
黙った俺。だか、友田部長は笑顔を崩しはしなかった。
――これは、たぶん一連の騒動を知っていると思っていた方がいいだろうな……。
ひょっとしたら、その前から見つけていたのかもしれない。何しろ、頭一つ飛び出ているからな……。潜水艦で言う、潜望鏡みたいなもんだろう。
「ご挨拶が遅れました――。お世話になっています」
俺の警戒する心に応えたように、若菜ちゃんが丁寧に挨拶をしていた。しかも、『父が』とは言わずに、適当にその雰囲気を出している。このタイミングで話しかけてきた若菜ちゃん。正直その胆力には恐れ入る。
でも、友田部長もそれに応えてますます笑顔になっていた。
「これは、よくできたお嬢さんだね。ほんと羨ましいよ。僕の娘は、君くらいの年の時が一番怖かったね。僕が視界に入っただけで、ちょっとした殺意を感じたよ。友達といる所で出会ったら、きっと刺し殺されてただろうね。はっはっは。それだけじゃないんだよ。間違って僕が先にお風呂に入ってしまったら、妻に風呂掃除させていたんだよね。あの時は、般若がいると思ったね。それから、『僕のお風呂は最後』って決まっちゃったよ。はっはっは。妻にも二回も風呂掃除するのは面倒だからって怒られてね。家では怒られっぱなしだったよ。はっはっは」
「――そう……、なんです……ね……」
ちょっとなんて言っていいかわからない。
御愁傷様?
いや、さすがにそれは違うな。
まあ、さすがに友田部長も笑っているから、それ以上の言葉はいらないだろう。そして、それが一般的なものだと思う。
この年代の父親と娘の関係は、思春期が一番厄介だと聞いている。たぶん、それは生物としての自然な忌避観念。近親交配を避けるうえで、もっとも重要な事なのだと思う。
「それだけじゃないよ? 娘の後に妻が入らないと、娘にお湯を全部抜かれるんだ。僕が風呂に入る時は溜め直すから、一番風呂みたいなものだね。はっはっは」
――いや、絶対それ一番風呂って言わない。でも、その事を部長には言えない。
それよりも、部長の娘さんだ……。その徹底ぶりは凄いといえる。
――それって、残り湯までつかったらいけないってことだろ?
それはさすがに可愛そうだ。第一、この友田部長が娘の残り湯で何かするわけがない。
「それはさすがに、悲しいですね」
「だよね。でも、今は平気みたいだよ? 人間、何かを気にしているとそればっかり気になるけど、気にしなくなればたいしたことないって気付くんだろうね。結局、気になる事しか気にしないのが人間なんだよね」
何か人生の深みのような話に聞こえるけど、要は娘さんに嫌われていたってことだよな? 何か友田部長に非があるのだろうか? それとも……。
「でもね、娘は僕の洗濯物を毛嫌いすることは無かったかな? 妻は京都型とか言ってたけどね」
――いや、部長。それは『着倒れ』てるんだと思います……。
もし、こんな状況でなかったら、俺はそう言ってたかもしれない。だが、同時に俺は思いだす。
今は友田部長と話をしている場合じゃなかった――と。
そう思って下を見ると、しゃがんだ若菜ちゃんが明日香ちゃんの相手をしてくれていた。
――さすが、若菜ちゃん。
俺が心の中で拍手を送る。その時、かすかに友田部長が何かを見つけたそぶりを見せた。
――たぶん、友田部長も見つけたんだ。たぶん奥さんも部長の事を見つけたのだろう。
なら、これ以上ここにいる必要もない。俺自身の問題は、今も絶賛進行中だ。
こうやって、人の行き来している中で立ち止まって話をすると、それだけで人の目を引いてしまう。しかも、若菜ちゃんがそばにいる。このままここにいると、また何かの出来事がやってくる可能性もある。
「友田部長、俺達そろそろ行きますね」
頭を下げて、挨拶する。そのまま若菜ちゃんの隣にしゃがみ、明日香ちゃんにもお別れする。
「明日香ちゃん、おじいちゃんとお話してごめんね。明日香ちゃんのおじいちゃんは優しいから、おじさんついお話しちゃった。ありがとう」
「うん!」
元気よく返事してくれる孫娘の明日香ちゃん。これでこの場を後に出来る。
俺が立ち上がるのに合わせるように、明日香ちゃんに笑顔で手を振りながら立ち上がる若菜ちゃん。もう一度友田部長に頭を下げると、若菜ちゃんも俺に合わせてくれていた。
「そうだね、じゃあ
去り際に、俺の肩に手を置いた友田部長。その時掴んだその手の力は、かなり強いものだった。
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