第12話道程とシード校

 球技場の門にたどり着いてすぐ、俺たち二人はその前に立ちつくしていた。

 

 俺達が今いる場所は、巨大な公園施設の入り口。その中には、実に様々な球技施設が存在している。


 だが、案内板を見るまでもない。俺達が目指す野球場は、門から目と鼻の先にあった。すでに戦いは始まっているのだろう。しかも、ある程度しっかりした応援も聞こえている。


 ――早くいこう。


 そう思った矢先の事。『おじ様……』と俺を呼んで指し示す、若菜ちゃんの震える指先が示すところを俺は見た。


 そこには、大きな立て看板が置いてあった。


 と同時に、俺は言葉を失い、立ち尽くす。ここまで来た道のりが、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。


 ――いったい、あの苦労は何だったんだ……。


 そこには、それぞれの場所で行われている事が書かれている。目指す野球場の所には、『新チーム発足戦』と書いてあった。だが、若菜ちゃんが示していたのはその下の文字。そこには、『本日の試合内容』と書かれており、貴志の学校もそこに書いてあった。


 その試合の予定時刻は十三時。まだ、開始まで、四時間以上も時間がある。


 ――なんてこった……。こんな事なら車でくればよかった。そうすれば、あんな苦労はしなくてよかったんだ……。


 空白の時間が過ぎ去って、まず頭に浮かんだ言葉はそれだった。ただ、口はそれを誰にも伝えるつもりはない。それを言ってはいけないと、俺の中で警告の鐘が鳴り響く。


 その鐘の音は、これまでの俺の行動を振り返らせていた。


***


 そもそも、車を使わないという判断をしたのは俺だった。


 なにしろ、ゴールデンウィークの車移動は時間がかかる。特に、移動距離がある場合や、娯楽施設の多い市に向かう場合はそうだろう。そして、何よりも試合時間――その時まではその時間と思っていたから仕方がない――が近いというのが最大の理由だった。


 多少不便でも、電車の方が確実で早い。朝の俺は、そう考えて行動した。


 幸いな事に、俺達は朝早くから行動している。若菜ちゃんが起こしてくれて、助かった。


 おかげで、その時乗った電車は、まったく混雑していなかった。停車までに見えた車両は、立っている人の方が少なかった。


 いつもの通勤時間なら、あの駅ではすでに満員電車になっている。しかし、その時に俺たちの前にとまった車両も、ポツリ、ポツリと立っている人が見えるだけだった。座っている人がほとんどで、その間にも空いている所がいくつも見える。


 そんな中、スッと若菜ちゃんが先に電車に乗る。俺はただその後からついて行く。


 ただ、若菜ちゃんの行動は、俺にかすかな違和感を抱かせる。


 普通、電車に乗る人の行動として、最初に自分達が座れる場所を探すだろう。その次に、安心して立てる所を探す。だが、そのどちらも、若菜ちゃんは選ばなかった。


 電車に乗り込んだ若菜ちゃんは、そのまま直進して反対側の扉の前に立っていた。


 まだ、席は空いているにもかかわらず。しかも、扉の真ん中に。


 ――まあ、若いからそう選んだのだろう。それほど長く乗るわけでもない。だから、立っていた方が『気が楽』という考えもある。でも、普通は扉の端に立つよな?


 その奇妙な若菜ちゃんの行動は、やはりいい結果を生まなかった。しかも、次の駅からどっと人が押し寄せてきた。


 次から次へと、駅に着く度に人が列車に乗ってくる。幸いな事に、この電車は片側しか開かないからいいようなものの、いつの間にか周りは人であふれていた。


 普段あれだけ空いていたにもかかわらず、徐々にそこは満員電車の様相を呈してきた。


 ――恐るべし、ゴールデンウィーク。ただ、このままでは若菜ちゃんを押し潰しかねない。


 もっとも、その時はまだ、毎日の通勤電車に比べてましだった。でも、それは俺の感覚であって、普段乗り慣れていない若菜ちゃんの場合は別の話に違いない。


 ――それにしても……。傍から見たら、俺が若菜ちゃんを襲ってるみたいだな……。


 両腕を扉について、押してくる人に抵抗している俺の腕の中で、若菜ちゃんはその身を小さくしていた。『大丈夫?』という俺の声に、小さく『大、丈夫……、です……』と、答えるだけ。

 だが、どう見てもそうじゃない。息は荒いし、顔は上気している。時折漏れ出る声には、妙な艶めかしさすら感じてしまう。


 ――なんだか、本当に俺が犯罪者みたいだな……。


 だが、身動き取れないこの状況では、これ以上はどうしようもなかった。


 ――それにしても、すごい人だ。普段の満員電車よりもすごくないか?


 次の駅に着いた時、さすがの俺も両腕だけで支える事が出来なくなる事態に陥っていた。体は、若菜ちゃんに押し付けるような感じになっている。度々『大丈夫?』っと、聞いてみるものの、若菜ちゃんは、その度に真っ赤な顔で、小さく頭を縦に振るだけだった。


 すっかり小さく、そして体を固くする若菜ちゃん。

 『大丈夫?』と聞いておきながら、何もできない俺。


 両腕では支えきれず、肘まで扉につくほどになる。当然、若菜ちゃんとの間にあったほんの少しあった隙間もなくなっていた。


 ――これではまるで、俺が若菜ちゃんを抱きしめているみたいだ……。


 こうなっては、若菜ちゃんに大丈夫か聞く余裕もない。上を向き、ひたすら腕に力を込める。だが、俺を襲う試練の波は、無情な暴力を振るってくる。


 「おじ様……」

 その小さな声に導かれ、思わず俺は下を向く。その時俺は、気付きと共に思い知る。


 涙目で必死に訴えかける若菜ちゃんが、俺を必死に見上げていた。


 ――守らなければならない。この俺が。今ここで。


 その顔に、何故かそう心で誓っていた。我ながらちょろいものだという声も聞こえてきたけど、そんな奴は無視していた。


 もともと、若菜ちゃんは乗り物に弱いとは言っていた。そして、このすし詰め状態だ。乗り物と人の両方に酔ってしまったのだろう。


 若菜ちゃんはすでにノックアウト寸前。


 そう言えば、昔お袋も初めてこの電車に乗った時には、人ごみに酔って大変だった。


 だが、彼女の場合はかなりひどい。俺に抱きしめられているようなものだったし……。しかも、俺の体にしがみついている感じもする。


 やっと降りる駅についても、呆けたような若菜ちゃんは、しばらくホームで休んでいた。降りてから、しばらくはいつもの雰囲気を無くしていたが、その顔には徐々にいつもの様子が戻ってくる。


 ただ、『もう少し休む?』と尋ねても、若菜ちゃんは首を横に振る。だが、何かを考えたのだろう。次の瞬間には。小さく『時間が惜しいです』といって、若菜ちゃんは頼りない足取りで前に進む。


 だが、しばらくしないうちによろめいて、俺に懇願の眼差しを送ってきた。


 「おじ様、腕を貸してもらえませんか?」


 そう言って、俺を見上げる若菜ちゃんの瞳には、うっすらと涙のあとが光っていた。


 ――さすがに、そのままにしてはいられない。


 衆目の中で、少し抵抗はあったものの、そんな事を気にしてられる状態ではない。このまま休むという選択肢も、若菜ちゃんにかたくなに拒否されている。


 そして、俺の腕を支えにすれば、若菜ちゃんはどうにか歩くことが出来るという。


 ――だったら、俺がすべきことは一つのみ。


 そうして、俺は若菜ちゃんと腕を組み、二人でそろそろと歩いていた。


 ただ、乗り物に弱い若菜ちゃんにとっての受難は続く。


 その場所に向かうには、電車に続いて、今度はバスに乗らなければならない。ただ、こちらはかなり空いていて、駅から球技場までは、座って移動できていた。


 ただ、いくらかマシになったように見える若菜ちゃんは、今度は困った子になっていた。


 ――まあ、この年代の子供を考えると、若菜ちゃんのわがままは無い方なのかもしれない。


 普段、聞き訳がいい分、むしろ可愛げがあるとも言えるかもしれない。


 ただ、今の俺にとっては、結構厳しいものだった。ただでさえ、また腕組みして公衆の面前を歩いている。しかも、誰もが振り返るような美少女。

 すれ違う人には必ず目で追われる。

 こんな事なら、おんぶしている方がマシじゃないかと思ってしまう。でも、それは若菜ちゃんにとって恥ずかしい事だろう。


 まあ、いざとなったらそうするけど、今は徐々に回復しているから大丈夫だろう。


 ――っていうか、上機嫌だな、若菜ちゃん……。


 バスに乗る時の若菜ちゃんは、すっかり回復しているように思えた。だからよけいに、若菜ちゃんの困った要求が、何か小悪魔的なものに思えていた。


 そう、若菜ちゃんは、俺も座れるように、後部の二人掛けの座席に座ると言って聞かなかった……。


 だが、バスの場合は降りる場所と混み具合によって、降りるときに苦労する。それに、バスの座席は案外狭い。

 だから、前に座っている方が安心できる。


 後ろに行こうとする若菜ちゃんの手を引いて、『俺は大丈夫だから』と言って前に進み、一人用の座席に座らせた。


 そして、蓋をするように俺が立つ。若菜ちゃんもそれ以上は何も言わなかった。


 ただ、ふと見下ろした若菜ちゃんの表情は、少し憮然とした表情を見せていた。


 ***



 改めて、今いる場所から球技場を眺めてみる。やはり、ここは中学生の大会。高校野球とは違うのは当たり前だろう。だが、それに負けていない青春の匂いが、そこから立ち上っているようだった。


 応援団の声や楽器の音が、まるで競い合うように鳴り響く。応援合戦も繰り広げられているのだろう。その音で、俺は今に引き戻されていた。


「まいったな、シード校だったのか……」


 さっき見たボードをもう一度よく見てみる。だが、いくら見直してもその事実が変わるわけはない。まちがいなく、貴志の試合は午後からだった。


 こんな事なら、家でのんびりしても間に合った。朝早くから出かける意味もなく、車でゆっくり来ても間に合った。


「――ごめんなさい……」

 消え入るように、小さくなる若菜ちゃん。その姿は、頼りなく儚げだった。


「いや、あんな早くに家出たのに、まさか午後からとは思わないよ。若菜ちゃんのせいじゃない」


 その責任を感じているのだろう。若菜ちゃんはそれでも黙って項垂れている。小さな体が小刻みに揺れているのは、ひょっとして泣いているのだろうか?


 ――おい、おい。しっかりしろよ、俺。せっかく若菜ちゃんが俺と貴志の為にこの機会をくれたんだ。その恩人を悲しませることがあっていいのか?


 消え入りそうな若菜ちゃんを見ていると、抱きしめて安心させたくなる。


 ――まあ、公衆の面前でそれをすれば、今度こそ俺は社会的に死ぬだろうな……。


「そんなに自分を責めなくていいよ。貴志の試合まで、どこかで時間を潰せばいい。幸いこの市は娯楽施設が多いから、たぶん行き先には困らないと思うよ。どこか行きたいところある? まあ、ゴールデンウィークだから、たぶん混んでるだろうけどね」


 そう、ただそれだけの事でしかない。ちょっと四時間くらい早く出て来ただけの事だ……。


「はい、おじ様。水族館に行きたいです」


 俺の話が終わるや否や、間髪入れずに元気よく返事する若菜ちゃん。


 さっきまでのしおれた感じはそこになく、とても華やいだ雰囲気を見せていた。

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