第三章 狩人は踊りだす

第11話父と子

 貴志の野球の試合がある。


 それを若菜ちゃんに聞いたのは、まさに今日。すなわち、五月三日の朝だった。『どうしても、五月三日はお休みにしてください』と、前々から若菜ちゃんには頼まれていた。その真剣な表情から、何かあるのだと思っていた。そして、休みが確定した時の若菜ちゃんは、本当にうれしそうだった。


 それが、こういう事だったとは……。


 俺はてっきり『どこかに連れて行ってほしい』という事だと思っていた。もともと、俺の家には、ゴールデンウィークに出かける習慣は無い。でも、若菜ちゃんにそれがあるのであれば、今年は『いつもと違うゴールデンウィークの過ごし方をしてもいいか』とも思っていた。


 だが、それは全く違っていた。でも、それと同時に『すごいな』と、感心する。


 ――自分の事じゃないのに、この子はこんなにも喜べるのか。


 本当にこの子はいい娘だと思う。アイツが自慢したがるのもよくわかる。


 ただ、少し驚いたことに、今朝はこんなにも早くに起こされている。しかも、すでに朝食の準備はできており、若菜ちゃんの身支度も整っていた。


 だから、さっき出かける音が聞こえたのか。確かに、微睡の中で『練習にしては早いな』とは思ったが、まさか試合だったとはな……。


 ――貴志の奴、昨日そんなこと、一言も言わなかったじゃないか……。


「ありがとう、若菜ちゃん。教えてくれて。『木綿』の時もそうだけど、貴志は学校の事、何も言わないから助かるよ。まあ、さすがに『木綿』は恥ずかしくて言えないか? 俺も、ちょっと言いにくかったし、『しっかりしろ』とだけアイツには言っておいたよ」


 そうは言ってみたものの、それは学校の事だけじゃない。


 ――基本的に、貴志は俺に何も言わない。


 まあ、それは無理もない事なのだろう。俺はいままで、貴志の事をすべて『俺以外の誰か』に任せてきたのだから……。


 ――まあ、確かに、いまさらだな。貴志にしてみれば、『どの面下げて』ということかもしれない。


 妻が亡くなるまでは、妻にまかせっきりだった。妻が亡くなってからは、お袋に来てもらって面倒を見てもらった。


 だが、貴志の中学入学の時に、お袋が腰を痛めた。


 その頃から、俺はたぶん自分に余裕が出来ていたのだろう。

 それがきっかけじゃないけど、俺もいい加減親としての責務を果たそう思った。


 もっとも、貴志に言わせればどうかわからない。俺も貴志も、この生活になってまだ一年と言ってもいい。


 ここで貴志に、『これからは何でも俺に話せよ』というのは、無理な話だろう。もっとも、話によっては、俺がうまく答えられるとも限らない。


 いわゆる、先人の知恵みたいなものは教えられる。ごくまれに、社会人の知恵なんかも貴志に話したことはある。数えるほどしかないけど……。


 だが、それだけだ。それなら、教師でもできることだ。俺が、親として出来る事ではない……。


 もっとも、息子と父親は思春期を境に反目するらしいから、それは、それで仕方がない事かもしれない。


 生物としての雄――というか本能?――が、おそらくそうさせるに違いない。学生時代にならった、何とかコンプレックスというやつだろう。


 ――あれは、ユングだったか? いや、フロイトか? まあ、いいか。もう忘れた。


 今ここで、学生時代の古い記憶をあさってみても仕方がない。俺と貴志がそういう時期に来ているという認識だけがあればいい。


 ――いや、たぶんそれだけじゃない。単に俺は、貴志とどう接していいのかわからないだけだ。


 これまで、ちゃんと正面から向き合ったことがなかったから……。


 たしかに、貴志が小さい時には、俺も少しは子育てをした。でも、妻に言わせると、『やってない』という評価しかもらっていない。だから、貴志がそれを覚えているとは思わない。


 ――でも、そうか……。あれから四年か……。


 正直、妻が死んでからは、特に貴志と向き合った記憶がない。貴志の成長していく様子を、俺はしっかりと思い出せない。

 

 妻を失い、俺はその大きな穴を、仕事で埋める事を選んだ。


 今から思えば、俺にはそれしかできなかったのだろう。仕事に没頭することで、俺は俺を保とうとした。


 我ながら、心の弱い人間だ。この年になっても、それは一向に改善されない。


 ただ、その時期にちょうど仕事が面白くなっていたことも一面としてはあるだろう。脂がのり始めたとは、あの頃を言うのかもしれない。


 妻が無くなる前から、俺は課長に抜擢されていた。他の会社は知らないが、この会社としては異例の人事で、当時は騒然となったものだ。そんな中で、俺は周囲のやっかみの視線を無視し続けながら、友田部長の期待に応えるのに必死だった。


 だから、貴志の事はお袋に託して、俺は仕事に打ち込んだ。


 そう言えば、若菜ちゃんと初めて会ったのもあの頃だったっけ。あれは出張先だったな。アイツともあの時久しぶりに会ったんだっけ……。


 ――そうか……。あれから、四年か……。


 月日の流れるのを感じると、俺はいつも疑問に思う。


 はたして俺は、貴志の父親なのだろうか? いや、貴志は俺を父親として見ているのだろうか……。


 今更だが、俺が貴志の事を理解するように努めたとしても、貴志が俺に何かを期待する事があるのだろうか……?





「おじ様? 大丈夫ですか? ひどくお疲れみたいですが……」

「ああ、大丈夫だよ、若菜ちゃん。ありがとう。で、貴志の試合は何時からか知ってる? 今更だけど、俺も父親らしい事をしてみるよ」


 そう、せっかく若菜ちゃんが取り持ってくれようとしているんだ。その好意は、素直に受け取っておくべきだろう。


 ――それにしても、うれしそうだ。他人の親子の仲を取り持つことでも、この子はこんなにも笑顔になれる。


 本当に、この子は心優しい女の子だ。多分、綺麗な心をもっているから、こんなにも可愛らしいんだろう。


「はい、おじ様。貴志君から聞きましたけど……。すみません、忘れちゃいました。でも、貴志君がこんな朝早くから出かけたんですもの。きっと高校野球と同じ、朝八時くらいだと思います」

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