第10話貴志の憂鬱【後編】

 ああ、やっちまった。せっかく若菜ちゃんが正解を書いてくれたのに……。


 あの日に戻れるなら、戻って俺を殴りたい。


 奇跡的にギリギリみえるように、あのメモを差し出してくれていたからよかったものの、下手をすれば鬼瓦に見つかる可能性もあった。


 それでも、俺の為にそうしてくれた。


 ――そう、俺の為に!


 その感激を、感謝の気持ちと共に伝えたい。そして、せっかくの好意を無駄にしてしまった事を謝りたい。何度も、何度も、そう思う。


 でも、俺はまだ何も言えていない……。


 ――いい加減、はやく謝らないとダメだよな……。いや、『ありがとう』が先なのか?


 ただ、言わせてもらえば、それには深いわけがある。

 それは、俺と若菜ちゃんの距離にあった。


 まあ、教室の俺と若菜ちゃんの席は離れているという事が大きい。いつでも、話しかける事の出来る距離じゃない。どっちにしても、そこに行って話しかける必要がある。


 ――とにかく行って、話しかける。でも、それが俺にとってはかなりの難問。


 あの日からずっと、そう思い続けている。そして、時間が過ぎていくことで、新しい深いわけが増えていた。


 仮に、勇気を振り絞ってそこに立ち、仮に全てを言えたとしよう。でも、あの出来事は、すでに一週間も前の出来事。こうなってくると、余計な事も考えてしまう。


 せっかく言えても、『今さら?』みたいに思われるんじゃないか?


 ――クソ! あの日に言えれば、こんな思いを引きずらなくてもよかったのに……。


 でも、あの日はそれが出来なかった。休み時間になって席を立ってみたものの、俺はすぐに男友達に囲まれてしまった。しかも、その後の休み時間の度に、『きわた』で男友達にはやされつづけた。


 次の日には、一年の時に仲が良かった奴等までも、それで俺をからかいに来た。


 アイツ等にとって俺の『きわた』は、ものの見事に『鬼綿』となって伝わっていた。

 色々と『俺達生徒にとって良い教師ではない』と噂されている鬼瓦に対して、『鬼綿』と言ってのけた俺は、それが勝手な解釈であったとしても、そうやって受け入れられていた。


 ――何がどうして、こうなるのか。本当にさっぱりわからない。


 ただ、あの日。つまり、二年の四月。クラスが新しくなり、一年の時には知らなかった奴も、顔が分かるようになってきた三回目の月曜日。


 俺はクラスの中で、妙な立ち位置を確立した。


 だから結局、あの日から若菜ちゃんと話せていない……。


 ――いいわけじゃないけど、話しかける雰囲気じゃないってのもあるんだよな……。


 俺とは違って、このクラスになってすぐに、女子の中で不動の地位を確立していた若菜ちゃん。

 そんな人気者の若菜ちゃんは、学校ではいつも女子の輪の中に居る。


 それは、一年の秋に転校してきた時から変わらない。


 そもそも、転校してきた時から若菜ちゃんは他の誰とも違っていた。すぐに、学校中に噂になって、人気者になっていた。

 特に、女子が囲む、囲む。その周囲に、二重三重の女子がいるかのように囲んでいた。

 そして、その周りを男子が遠巻きに眺めている。それが、しばらくは続いていた。


 でも、それがおさまり、規模は小さくなっても、若菜ちゃんは常に女子の輪の中心にいる。だから、男子が話しかけたくても、なかなか話しかけることができないのは変わりなかった。


 それは俺も例外じゃない。隣に住んでいても、親父同士が友達だとしても、俺と若菜ちゃんという関係に、特別なつながりは無いのだから……。


 ――まあ、接点があったからと言っても、俺の場合は役に立たない。そもそも、俺は女子と話した事なんて、ほとんど無かった……。一応、緊張しても話せる自信はあるけど……。


 だから結局、気持ちはあっても行動ができていない。あれから一週間たっているけど……。


 ――もうすぐ四月が終わるんだよな……。せめて、家にいる時に話すことが出来れば……。


 でも、家にいる時こそが最も難しいのだろう。気のせいかもしれないけど、親父といる時の若菜ちゃんから『今話しかけるな』という無言の圧を感じてしまう。


 昨日の日曜日も、親父と仲良く話しているから、正直話しかけるタイミングを逃してしまった……。


 ただ、親父も若菜ちゃんも、絶えず話をしているわけじゃない。話していない時の二人は、黙ってリビングで読書をしている。


 でも、だからこそ、ちょっと話しかけにくい。いや、それ以前に、親父がいる所では話しにくい。


 ――しっかし、親父もよく黙っていられるよな。俺だったら、何か話さないといけないのかと焦るんだろうな……。


 もしかすると、親父も若菜ちゃんも読書が趣味みたいだから、ずっと黙っていても平気なのかもしれない。確かに二人は、そんな気配を漂わせている。

 ほっといたら、ずっと二人で黙っているんじゃないかと思ってしまう事もあった。


 親父が飲むコーヒーの香りが、リビングに広がる中で。


 ただ、たまに若菜ちゃんが親父に声をかけて、親父がそれに返事をしているような時もある。その時の二人は、なんだかとっても仲がいい感じがした。


 ただ、最近は、親父も忙しいようだった。


 結局、昨日の日曜日も、親父は途中から仕事に出かけていた。以前は休日出勤をよくしていた親父も、若菜ちゃんの両親が海外に行ってからは、ほとんどそれをしていなかい。以前の親父を知ってるだけに、それだけでも意外だった。


 それだけでなく、平日は基本的に早く帰ってくる。そして、夜遅く帰った時以外は、若菜ちゃんの家に行って、顔を見てから帰ってくる。


 若菜ちゃんの家の玄関先で――。


 ただ、俺の部屋からそれは見えるが、若菜ちゃんが誘っても、親父は家に入ることは無かった。


 ――実際、婆ちゃんがこれを知ったら、驚くだろうな……。


 親父のこと、爺ちゃんと一緒で『仕事人間だ』って嘆いてたから……。俺も、あんな親父は見たことがない。


 ――俺の時は……。


 いや、そんなこと考えても仕方がない。ただ、昨日も休日出勤する親父。

 それを笑顔で、しかも手を振って送り出した若菜ちゃん。玄関の扉が閉まると、手早くエプロンを脱いで、そのまま何も言わずに自分の家に帰っていった。チラッと俺を見た後に。


 ――やっぱり、俺と二人っきりは若菜ちゃんでも照れるのかな?


 そういえば、チラッと見えた若菜ちゃんの横顔は、なんだか赤い顔だった。しかも、その後ろ姿は、ちょっといつもの感じと違っていた。


 よくよく思い出してみると、あれって赤面だよな。


 ――照れくさかったのか……。


 少なくとも、学校であんな若菜ちゃんを見たことがない。


 ――あれ? これってひょっとして? 俺に気があるってことか?

 ――落ち着け、俺。冷静にこれまでの事を考えてみろ。

 

 若菜ちゃんは、確かに俺と二人っきりになることを避けていた。そして、俺と若菜ちゃんがいる時、必ず親父を間に挟む。座る席も親父の横。しかも、俺と目をあわさない。


 そう言えば、ショッピングモールに行く前に、親父は『若菜ちゃんに嫌われるぞ』って言っていたっけ……。


 もしかして、あれは、親父が俺にその事を伝えてたのか!?


 ――いや、まて。まだあるぞ。あれは先週の土曜日の夜だ。


 あの時の親父は、めずらしく『しっかりしろよ』って真剣な顔で言ってきた。小さな声だったが、『若菜ちゃんを困らせるなよ』とも言っていたっけ……。

 

 何を『しっかりする』のかわからなかったが、あれはそういう意味なのか?


 ――そうか! 若菜ちゃんが俺に惚れているんだから、『しっかりしろ』と言ったんだ!


 ――いや、まだまだある! 鬼瓦にあてられて困った俺を、若菜ちゃんだけが救ってくれた!


 よくよく考えてみれば、どうでもいい相手にあんなことしないよな?


 ――でも、あれはちょっとカッコ悪かったけど……。 


 でも、よく考えてみれば……。俺は若菜ちゃんの前でかっこよく決めたことがない……。


 ――なんで、俺? いや、理由はもうどうだっていい。これはそういう事なんだ。


 こんな俺でも惚れてくれたんだ。大事にしないとダメだな。


 ――いや、ちがう。そうじゃない。このままじゃ、ダメだ。


 せっかく若菜ちゃんが惚れているのに、俺は全くいいとこなしの男になる。それどころか、ちゃんとお礼を言えてないぞ、俺は……。


 いや、それだけじゃない。このままだと、あのショッピングモールの時のように、ただ寝ているだけの男になってしまう……。


 ――困った……。せめて、若菜ちゃんに、俺のかっこいい姿を見てもらいたい。


 でも、本当に困ったな……。勉強は頑張っても、すぐに結果なんて出ないし……。そもそも、若菜ちゃんはかなり頭がいい。


 ――勉強方面では、ちょっときびしいかな……。


 それに……。俺は今、これでも結構忙しい。勉強している時間もあまりない。前よりはやるようになったけど、若菜ちゃんにすごいと思ってもらうには、かなり頑張らないとダメだろう。


 新チームでの練習は始まったばかりで、新入生も入ってきている。しかも、その新入生の基礎訓練は、俺が担当する事になってしまった。


 つまり、新入生の走り込みには、俺は毎回付き合う事になる。


 しかも、次のゴールデンウィークにある恒例の新チーム発足戦。それに向けての特別訓練もある。だから、正直言って、体がいくつあっても足りないくらいだ。


 だから、こうしていろんなことを考える時間が持てるのは、練習の間にあるちょっとした休憩時間だけしかない。


 体育館へと続く渡り廊下。ちょうど日陰になるここは、野球部にとっての憩いの場所。


 特に、俺だけの特別な場所は、校舎側の隅っこだ。忙しい俺は、ここでしか色々考えることができない。


 ――いや、まてよ。そうだ! 新チーム発足戦だ!


「あれは休日。それに若菜ちゃんを誘えば――」

「――私が、何?」


 思わず立ち上がって、心の声を漏らしてしまう。

 普通に考えれば、これは結構恥ずかしいことだろう。でも、その時丁度通りかかった若菜ちゃんが、その声を拾ってくれていた。


 俺にとっての最高の女神である若菜ちゃんは、やっぱり幸運を運んでくれている。


 ――いや、幸運が若菜ちゃんを運んでくれたのか? 


 まあ、そんな事はどっちだってかまわない。若菜ちゃんが女神であることには変わりない。


「えっと……」

「何? これでも私、急いでるんだけど?」


 ちょっと機嫌が悪いのだろうか? なんだか、若菜ちゃんが俺を睨んでいるような気がする。


 ――いや、急いでいるからなんだろう。しっかりしろ、俺。せっかく掴んだチャンスなんだ。ちょっと追い込まれたからと言って、飲まれたら自分のスイングなんてできないだろ!


 そうだ、今ツーアウトで満塁。俺のこの一打に、チームの勝利がかかっている。


「あっ、あのさ。今度のゴールデンウィークに、この地域の新チーム発足戦があるんだけど……。もし、よかったら……。よかったら、見に来てくれないかな!」


 ちょっと詰まってしまったけど、俺なりに精一杯言えたと思う。たぶん、俺の言いたかったことは伝わっただろう。若菜ちゃんの顔が、少し柔らかく感じていた。


「――それって、朝から? ゴールデンウィークって、いつの話?」


 少し何か考えて、若菜ちゃんは逆に俺に質問してきた。


 ――あれ? 何か用事とかあったっけ?


 親父はそんな事、一言も言ってなかった。いや、それ以前の問題だ。あの親父が、『ゴールデンウィークに出かける』計画をもっているとは思えない。


 ――じゃあ、何だろ……?


 もっとも、ちょっと考えてみたところで、その答えが出るわけがない。もともと、親父と話しする事なんてないのだから……。たぶん、新チーム発足戦の事も知らないだろう。

 俺がレギュラーで活躍している事。新チームのサードを守っている、三番打者だという事も知らないだろう。


 ――いや、そうじゃない。親父は関係ない。最近、日曜日の朝ご飯を、若菜ちゃんが作ってくれている。だから、その心配をしてくれてるんだ。


 早くも新妻のような若菜ちゃんのエプロン姿を思いだし、俺は顔が緩むのを必死に我慢した。


「さっ、最初の試合は、三日の日。俺達はシード枠だから、休憩をはさんで一時から。ちょっと遠いけど、隣の、その隣の市にある野球場で。ほら、近くに水族館があるところ。観覧車とかもある。聞いたことない? 毎年春にやる、伝統行事みたいだけど、知ってる? って、秋に引っ越して来た若菜ちゃんは知らないか? ただ、俺達は朝から練習がある。球場には、学校から全員で行くことになってる。だから、朝も早くいかないと……。悪いけど、その日は朝ごはんを一緒に食べれない……」


 この瞬間、俺は自分を褒めてやりたい。これだけの事を、つまらずに若菜ちゃんに説明できた。

 

 伝わったことは、若菜ちゃんを見ればわかる。ひとしきり俺の説明を聞いた後、何か考え込んでいた。


 ただ、何かひらめいたような表情を見せた後、満足そうに頷いて歩き出していた。


 何も言わずに歩き去る若菜ちゃん。

 それをただ茫然と見送る俺。


 ただ、しばらく歩いた後に立ち止まり、そのまま振り返って告げてきた。


「遅れると思うけど、頑張って」


 ただそれだけ言って、なんだかうれしそうに駆け出していく若菜ちゃん。『帰宅部の割に、けっこう足が速かったんだな』という感想のあと、『照れているんだ』という理解で落ち着く。


 その瞬間、湧き上がってくる満足感と幸福感。その信じられない勢いに、俺の心は壊れそうになっていた。


 ――『頑張ってね』だって……。何だろ? 何かこう、力がみなぎってくる!


 自分の両手で、しっかりと自分の体を抑え込む。そうするとなんだか落ち着く。たぶん、そうしないと、こぼれてしまうんじゃないかと思うからだろう。


 いつの間にか周囲に集まっていた一年の視線も気にならない。


 ただ、この天にも昇る感覚をかみしめる。

 身をよじりながら、俺はいつまでもそれを噛みしめていた。

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