第9話貴志の憂鬱【前編】

 親父と若菜ちゃんの様子がなんだか怪しい。


 俺がそう考えるようになったのも、若菜ちゃんの両親が海外出張に行ってからの事だった。

 いや、そうじゃない。あの日だ。

 四月に入って二回目の日曜日。若菜ちゃんが、親父をマッサージしていたその日からだ。


 その日はあのショッピングモールにも行っている。その後から、若菜ちゃんの様子が特に変わっていた。


 親父はどちらかというと、特に変わった様子はない。あの日だけは少し変だったけど、その次の日に仕事から帰ってきた時は、普段通りの親父だった。


 何がどう変なのかはうまく言葉にはできない。でも、次の日曜日に若菜ちゃんと過ごしていても、親父はいつも通りの親父だった。


 ただ、若菜ちゃんが変わったのは、俺でも十分わかっている。


 ――絶対、前よりも綺麗になった。


 それはクラスの女子がそう言っているから、俺もそう思う訳じゃない。ただ、俺も前は可愛いと思っていた。でも、今は可愛いだけじゃ物足りない気がする。


 何かこう、若菜ちゃんのまわりだけ、クラスの他の女子とは違う空気が包んでいるように感じてしまう。前から若菜ちゃんにはドキドキしていた俺だけど、最近はそれが激しい。


 こうやって、授業中に見える後ろ姿も、なんだかうっすらと光の幕で包まれているように感じてしまう。


 ――ああ、好きだ。大好きだ。特にその楽しそうに笑った顔が大好きだ。一年の秋に引っ越してきた若菜ちゃん。最初はよくわからなかったけど、今でははっきりそう言える。


 俺はもう君しか見えない。君の声しか聞こえない。


 でも、その笑顔が、何故か親父に向けている気がしてならない。家に来ても、若菜ちゃんはすぐ親父の隣に座っている。


「おい、貴志」

「なんでだろう……」


 後ろの席の中村から呼ばれて、思わず考えていたことを口走る。

 そして俺はその時になってようやく気付く。何故か教室中がしんと静まり返っていることに。


「あっ……」

「ようやく、別世界から帰ってきたか? なんでだろうな? 俺もそれが聞きたいぞ? それよりも阿亀あがめ、さっさと先生の質問に答えてみろ」


 その声に、教室がこうなっている事の意味を理解する。よりにもよって、『しつこい』で有名な歴史の鬼瓦に、授業中の質問を浴びていた。


「すみません。聞いてませんでした」


 こういう時は、素直に謝る方がいい。言い訳を重ねた所で、それは相手には伝わらない。何故だかわからないけど、誰かにそう言われた気がする。


 ――爺ちゃんに教えてもらったんだっけ?


「よし、今回はそれで済ましてやろう。だが、授業は聞くものだ。聞く気がないなら授業に出るな」

「ハイ!」


 張りつめていた糸が緩む感じが、教室の中に漂っていく。でも、それで終わるわけはなかった。噂される『しつこさ』は、やっぱり俺にねっとりと絡みつく。


「では、改めて聞くぞ、阿亀あがめ。中一の復習だから言えるよな? 安土桃山文化で、それまでの麻にかわり、庶民の衣料として広がりはじめたものは何だ? 答えてみろ」


 ――アサ? イリョウ? それってなんだっけ? アサって、昼とか夜とかじゃないよな? イリョウって医療? 庶民の医療? 昔の医療ってまじないだっけ?


 『はてなの記号』が限りなく頭の中を駆け巡る。そんな俺の姿を見て、歴史の鬼瓦はあからさまに俺を見下す顔を見せていた。


 ――クソ! コイツ、どうせ俺が答えられないと思ってるな。第一、何でいまさら、中一の問題なんだよ!


 しんと静まり返った教室で、鬼瓦がつま先で刻むリズムだけが響き渡る。これは秒読みか何かなのか? 焦らすなよ、鬼瓦。それだけで正解に辿りつけないだろ?


――いや、どっちにしても分からない。


 でも、そう素直に言えるわけがない。鬼瓦のしつこさは俺も聞いている。俺が答えられない事で、宿題とか色々しつこく言ってきそうだ。


 ――クソ、ヒントくらい、くれよな。


 そう思って鬼瓦の方を向いた時、視界の端で、若菜ちゃんがほんの少し体をずらしていた。俺に見えるよう、小さなメモ用紙を出してくれている。そのメモ用紙には、『木綿』という字が書いてあった。鬼瓦からは見えないように。


 ――ありがとう! 若菜ちゃん。やっぱり君は、俺の最高の女神だぜ!


「先生、何か勘違いをされているようですが、俺は答えがわからないから黙っていたわけじゃないですよ?」

「ほう? たいそうな物言いだな。よし、答えてみろ。大事な授業時間を削って、お前のために使ってやったんだ。勿体ぶるのもいいが、そろそろ答えろ」

「いいでしょう。答えましょう! 答えは『わた』ですよ! 『きわた』です!」


 自信をもって、答えた俺。

 その瞬間、静まり返る教室。

 その中で、若菜ちゃんの頭だけが、その支えを失っていた。


「おい、阿亀あがめ。お前のいう『きわた』の漢字は、これで合っているか?」

 

 黒板に、若菜ちゃんが書いた字と同じ漢字が書かれていく。それをかき終わった後に振り返った鬼瓦の顔は、ひどく楽しそうだった。


「もちろんです!」


 俺がそう答えたその瞬間、教室が爆笑の渦に飲み込まれる。何が何だかわからないが、若菜ちゃんが机に突っ伏していたのだけは見えていた。

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