第8話課長のお仕事

 それは彼女たちにとって必要な事。いつもの俺は、そう思って聞かないように立ち去っていた。仕事であれ何であれ、気晴らしや息抜きは必要な事だと思うから。特に上司に対する感情は、こういう場ではらしてくれている方がいい事がある。


 だが、聞こえてきたその言葉に、俺は扉のすぐそばで足を止めていた。


 俺が今ここにいる理由。


 それは、連続で会議があるにもかかわらず、ややこしくなるから次の会議で使う資料を持参しなかったから。

 会議が終わって、足早に移動すればいいと思っていた。だから、自分の机に置いたままにしていた。

 でも、前の会議が予想より長くなってしまった。そんなにかかるはずのない話が、延々と続いてしまっていた。


 だから、今すぐに資料をもって次の会議室のあるフロアに移動する必要がある。そうしなければ、次の会議のはじまりに間に合わなくなってしまうだろう。


 ――だから、今ここで時間を浪費している暇はない。


 そう頭で考えているものの、足がそこからまったく動いてくれなかった。


 聞こえてきたのは、あのショッピングモールの名前と俺の名前。


 ただそれだけが『意味ある単語』で、それ以上の言葉は聞こえてこない。でも、たったそれだけの単語が、俺の足をここに縫い付けている。


 ――扉を開けて聞いてみるか?


 いや、ここで詮索しても仕方がない。このタイミングで、直接聞くことは論外だ。


 それに、今は会議の方が重要だ。そもそも、時間だってもう無いのだから。


 ――いや、それでも……。


 給湯室の扉にあるスリガラスに映る影が濃くなって、そこから彼女たちが出てくる気配がするまで、俺の葛藤は続いていた。


 だが、最終的には会社人としての俺が優先する。


 しかし、次の会議室に向かうには、階段では時間がかかるし、間に合わない。そして、会議室の位置的にも、エレベーターを利用するしかなかった。


 資料を手早くとり、エレベーターに飛び込む。ちょうど降りる人間がいたのだろう。しかも、上昇ボタンに反応してくれたことは幸いだった。そして、目的階のボタンを押し、扉が閉まるのを待って一息つく。


 ただ、一人きりの狭い空間と気の緩みが、俺を思考の渦に引き込んでいく。


 ――見られていた!? いつだ? どこだ? どの場面だ?


 自分の部下を見た覚えはない。一応腕を組まれて色々な所をめぐった時に、それとなく周囲を観察していたから自信はある。


 ――でも、本当のそういいきれるか?


 その瞬間、心の声が俺を不安にかき立てる。普段から、問題解決の為に、自問自答をよくやっている。でも、こんな時にする必要はないはずだが、やっぱり俺はそうしていた。


 確かに、俺の課の人間はいなかった。でも、他所の課の人までは知らない。立場上、向こうが俺の事を知っていたとしても、俺が向こうを知らないというケースは存在する。


 その光景を奇異にとらえると、人間は確かめる行動をとるだろう。この場合、『俺の課の人間に聞く』という行動を……。


 いや、奇異にとらえない方がおかしい。俺だったら、若い女と営業三課の竹田課長が腕組みして歩いていたらどう思う?


 ――竹田課長かぁ……。あいつなら、絶対援交だな……。


 いや、今そんな事を考えている場合じゃない。


 ――娘。いや、腕組みだぞ? そもそも、俺は何故そうしていた?


 自問自答に拍車がかかる。だが、何故そうしていたかという問いには、俺は明確な答えをもっていない。


 そして、この場合どう見られたかが、鍵になる。娘という線は無いだろう。俺の子は息子だというのはこの課の人間なら知っている。


 親戚の娘を預かっている? そもそも、俺が息子を自分の母親に見てもらっていたことを知っている人間だってここにいる。そんな俺が預かるか?


 ――おかしいだろ? いや、どう考えても……。やっぱり俺も、援交の方だな……。


 会議に先立ち、そんな考えを抱いてしまう。他人の目というのは恐ろしい。


 そのまま会議に臨んだ俺は、たぶん普段とは違う姿に映った事だろう。会議の間ずっと、どこか心を置き忘れてきたような感覚が去来していた。


阿亀あがめ君、ひどく疲れているようだね。いい男が台無しだよ」

「すみません、友田部長。ちょっとあの件で考えることが多くて」

「なるほど、確かに君ならそうだろうな。僕はてっきり、夜遊びで忙しいんだと思ったよ。はっはっは。でも、余計なことかもしれないが、僕は君を信頼している。それに、もっと自分に自信を持った方がいいぞ」

「ありがとうございます、部長」


 会議の後、退室間際にそう肩を叩かれる。体は大きいが、ちょっと抜けているように見える友田部長。だが、この人のすごさは俺がよく知っている。この人に育てられたからこそ、今の俺があると言える。


 しかも、その恩人に推挙されて、俺は今の地位に昇ることが出来ていた。当時は、異例の抜擢ともよく言われた。


 この人の信頼を損なう訳にはいかないと、心の震えがこの身を震わす。


 見送りながら、下げた頭をあげられない。


 そして、そのまま友田部長に心の中で陳謝した。『実は違う事を考えていました。しかも、全く仕事には関係ありません』と――。


 ――そうだ、今は会社にいるんだ。余計な事に気を取られていたら、出来ることもできなくなる。切り替えよう。おっさんが色恋とか、ありえないだろ。


 それからも、一日会議と面会に忙殺される。

 だが、気持ちを切り替えた俺は、普段通りの俺だった。


 でも、ほとんど今日は、自分のデスクに座っていない。いない所に書類はつもる。


 その間に山積みになった書類が、俺の代わりにそこを我が物顔で占有していた。


 ため息もつきたくなるが、それをついても始まらない。少しずつ整理して片付けるしかないのだと、自分に言い聞かせて整理する。


 そして慌ただしかった一日が終わる頃、いつもおとなしい森下さんが、いつも通りにお茶を煎れてくれていた。


阿亀あがめ課長、お疲れ様です」

「ありがとう、森下さん。いつもおいしいお茶をありがとう」


 それは何の変哲もないお茶なのだが、茶道部出身という森下さんが煎れてくれるだけあって、とてもうまいものだった。


 ――まだ、仕事は残っているが、あとは家でも出来るだろう。一服して、明日の準備とスケジュールを確認するか……。


 「あの……」


 いつもなら、お茶を煎れてくれた後はそそくさと自分の席に戻る森下さん。控えめな彼女は、この営業一課では少し浮いた存在だった。


 ただ、浮いていると言っても、彼女は『営業に向いていない』という訳じゃない。

 ただ、『私が!』という人を押しのけてでも前に出る資質は無い。

 

 ――まあ、それは俺にもないけど……。


 だが、この営業一課の人間は、どいつもこいつも我の強い人間の集まりだと言えるだろう。そんな中でも、森下さんは誰とでもうまくやっている。


 そして、有能な彼女は、自分から希望してこの課に来た。だが、もう四年も配置換えをしていない。


 会社によって色々あるらしいが、有能な人材は他部門を経験させていくのがこの会社の方針。それも大体二年くらいで回すのだが、そこに人事部の強権は無い。


 それでも目安としてある以上、人事部からは対象としてあがってくる。だから、二年目の面談でも、配置換えの事を切り出してみた。


 だが、その時はかたくなに拒否された。それから何度か友田部長にも聞かれたので、本人にやんわりと聞いている。


 でも、その度に、彼女はそれを断り続けている。人事部長からは、俺が色々小言をもらう。


 ――この間の面談は、少し泣きそうになってたしな……。まあ、広報課はこの子には少し厳しいのも分かるけど……。


 人事部長には、『まだ教えることがありますので』と言ってごまかしているものの、それもそろそろ限界に近いだろう。まあ、営業一課でもトップクラスの成績を保っているから、まだ行けるのかもしれない。俺が必要だと言えば……。


 でも、彼女は総合職での入社だ。会社の利益を考えるなら、ここ営業一課に骨をうずめる必要はない。


 ――まっ、それが会社組織という物だろう。残念だが、このお茶とも、しばらくお別れかな……。


 ただ、そんな軽口を言えないのが、この森下さんだ。彼女の場合、俺が本当にそう見ていると思いかねない。


 ――ただ、やっぱりこの子の将来を考えると、絶対に配置換えをした方がいい。正直に言って、俺がこの子に教えるよりも、他部門で経験する方が絶対に役に立つ。


「あの……」


 再び、控えめに切り出してくる森下さん。そう言えば、何か言いたそうにしているのを、俺は自分の考えで遮ってしまっていた。


「ああ、ごめん、森下さん。ちょっと君の事を考えてたよ」


 ――あれ? ちょっと怒ったのか? まあ、それはそうか。でも、一応俺も課長だから、この程度の事は大目に見てもらおう。


「本当に、ごめん。それより、何か話があるのかい? 異動の決心はついたのかな?」

「違います!」


 涙目になって訴えかける森下さん。


 ――あれ? 俺は又、間違ったのか……?


「違います。違います……。あの……。少し、お聞きしたいことがあって……」


 さっきの勢いは露と消え、そこにはいつも以上に落ち着かない様子の森下さんが残っていた。俯いた顔からはその感情は読み取れない。


「何かな? 一応君の課長だから、出来る限り質問には答えるよ」


 だが、森下さんからの返事はなく、空白の時が流れていく。


「森下さん?」

「――さ」


 やっと来たその言葉は、線香花火の最後のようにポツリと落ちて消えていた。


「何? ごめん、ちょっとよく聞き取れ――」

「あの噂! 本当……、です……か……」


 俺の話を遮ってまで、自分の話を押し通す。そんな彼女らしからぬ行動は、最初の声だけで終わっていた。だが、声は小さくなっても、その顔は俺をまっすぐにとらえて離さない。


 そんな見覚えのある瞳が、俺をまっすぐに見つめていた。




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