第二章 取り巻く人々も動き出す

第7話ありふれた日常

 日曜日が終われば、月曜日がやってくる。そして、いつものように出社して、いつも通りの仕事をする。


 若干、睡眠不足の気もするが、そんな事は理由にならない。社会人として、『体調管理も重要な仕事』なのだから。少なくとも、俺達はそうやって教えられてきたものだ。でも、最近はそうでもないらしい。ただ、実際には生きている人間なのだから、体調の悪い日もあるだろう。何でもかんでも、精神論だけで片づけるのは好ましくない。


 だが、その精神論は重要な要素でもあるのも確かだ。


 目の前にある自分の仕事に集中する。そうすれば、多少の無理はきくものだ。


 ――もっとも、最近は疲れがなかなか取れないんだが……。


 これが、『年をとった』と感じる瞬間。だが、それでも、目の前の仕事を片づけるために、疲れた体に鞭を打つ。無理でも、無茶でも、やらなければならない事がそこにある。それが、会社で働くという事だろう。


 ただ、目の前の事をするだけでは、俺の仕事は終わらなかった。


 課全体の目標管理と運用。そして、営業一課の販売力強化と部下の教育。さらに、その中でも、幹部候補の育成がある。それら全てが、この俺の仕事と言われているものだ。それが日々、永遠に続いていく。


 何よりも、成果をあげなくてはならない。会社が第一に、俺に求める事がそれだった。


 毎日、部下の進捗を確認し、必要な事は上司に報告する。俺の決済で済むことはそれで済ますが、それでも上司には報告する事も多くある。そして、縦と横の会議に出る。会社にいる時の大部分は、俺は会社人としての俺でいる。


 特に今日は、朝から重要な会議がつまっていた。中にはどうでもいいものが入っていたが……。


 しかし、そんな当たり前の日常に、この異質な感情は突然やってきた。


 いや、それは遠い昔に存在し、俺にも確かにあった青い感情と言えるもの。気恥ずかしくももどかしいその想い。それは、どこか懐かしく心地よくもあった。


 ――いや、いや、いや。それはさすがにダメだろう。


 会議が終わって、課のあるフロアに戻る道すがら、そう思う。

 だが、すぐに打ち消してみたところで、それはたちどころに沸いていた。まるで泉のように湧き上がるその想い。それは、ひとときの心地よさを味あわせてくれていた。特にさっきのような会議というにはお粗末な、不毛な打ち合わせが終わったあとは――。


 ――そうだ、愛おしいんだ。


 この俺に、再びそんな感情が甦ってくるとは思いもしなかった。目を閉じれば、浮かんでくるあの笑顔。着替える前に見たそれが、俺に向かって華ひらく。


 それだけで頬に熱を感じ、鼓動が少し早くなるのを感じていた。


 だが同時に、『いい年をして』という思いがわいてくる。しかし、それでも今は、それを押し超えるだけの勢いがまだあった。


 昨夜、俺はなかなか寝付けず、その時の事を考えていた。


 あの後すぐ、寝起きで不機嫌な貴志と合流し、その後の買い物を手早く済ませる若菜ちゃん。


 結局、俺は若菜ちゃんがどの服を買ったのかはわからない。


 何故なら、貴志を迎えに駐車場に行き、待ち合わせの場所――それは貴志を迎えに行く時になって、とりあえず若菜ちゃんが決めた場所――でおち合った時には、若菜ちゃんはすでに買い物袋をいくつかその手に持っていた。その中に、さっきまでいた店の袋があった。


 ――いや、早すぎるだろう? その買い物。


 そう思って見たものの、それを言う事は躊躇われる。貴志が眠っている間ずっと、俺は若菜ちゃんとショッピングを楽しんでいた。その時に、若菜ちゃんは何も買っていなかった。


 ――いや、そうか。そうだ、確かに俺は楽しんでいた。


 こんな事は久しぶりだと言えるだろう。若菜ちゃんのペースにのまれていたことはあったとして、その後楽しいと思える時間を過ごしていたことを、俺は確かに認めている。


 まるで、若い時のデートに似た感覚……。


 それを意識した時、俺は確かにその単語を耳にする。

 普段移動に使っている非常階段。その脇にある、給湯室の扉の奥。


 階段から出て来た時に、俺がいつも通り過ぎるその扉。そこから聞こえてきたその言葉に、思わず足を止めていた。


 普段聞き流しているその会話。


 俺の名前に続いて、それが耳に飛び込んできた――。

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