第60話 暗雲ふたたび


 先日のふわりとした上品な『ダンケ・シェーン』はなんだったのか。


 土曜になり、ウチに遊びに来ていたママは昼間っから黒ビールシュヴァルツビアを飲み下す。


「もー!やってられないわよ!許せない!有給申請は当日は無理とかいう人事も!私が女ってだけで鼻の下伸ばす役員も!ウチの子をあんなにした犯人もー!!」

「まぁまぁ、ミラさん落ち着いて。おつまみにチーズでも出しましょうか?」

「気を使わなくていいのよ、さつき。でも、強いて言うならチーズより先日頂いたアレが欲しいわ。スモーキーなたくあん」

「いぶりがっこ?」

「それそれ。イブリガッコ」


(…………)


「すっかりウチの住人だな、ミラさん」

「うん。咲月がバーのお姉ちゃん状態。でも、ミラさんがああなるのも無理はない。生活が落ち着いてきて『さぁ復讐だ!』ってなったのに、犯人の手がかりゼロなんだもん」

「へー……」


(『さぁ復讐だ!』……って。ミラさん、結構パワフル美人?)

 さすが、雨の日も風の日も公園に通い続けるパワーの持ち主だ。


「でも、復讐するとは言っても、要は犯人逮捕が目的なわけだろ?相手が警察なのにそれは……」

「無理ゲーにも程がある」

「だよなぁ……?」


「「はぁ……」」


 揃ってため息をついていると、背後から咲月に声を掛けられる。


「お姉ちゃん、悪いんだけどお昼のそうめん、麵が二人分しかないの。買ってきてくれる?」

「いいよ。いくつ買えばいいの?」

「あと三人分!ミーナちゃんが食べきれない分は哲也君にでも食べてもらいましょ?」

「は~い」


「咲夜、ひとりで大丈夫か?」


 ぱたぱたと出かける準備を始める咲夜に尋ねると、いつも通りの笑顔が返ってくる。


「平気だって。子どもじゃないんだから。哲也君はミーナと遊んであげてよ?二人の相手は咲月が大変だ」

「それもそうか……」

「じゃあ、いってきます」

「気をつけてな~」


 俺は咲夜を見送るとミーナちゃんを呼び寄せる。招かれるままに膝に乗るミーナちゃんを抱きかかえ、一緒に撮りためたアニメを見た。だって、『続きが楽しみだね』と話していた手前、ひとりで見る気になれなかったからだ。


 そんな俺達を横目に、咲月はそうめんのお供に天ぷらを揚げていく。

 揚げたてをビールと共に満面の笑みでつまみ食いするミラさん。その表情に、やはり親子を感じる。


「はぁ、いい匂い。お腹空いたな……」

「な!」


 ミーナちゃんと顔を見合わせて食事を待つ、幸せ。

 しかし、その幸せは数十分と経たず崩れていくのだった――


      ◇


 おつかいに出てから一時間が経過したが、咲夜は帰ってこなかった。


「咲夜、遅くないか?」


 先日咲月が帰ってこなかったこともある。胸がざわついて仕方がない。

 それは咲月も同じようで、落ち着かずにそわそわすることでミーナちゃんまで不安にしてしまうと判断した俺達はミラさん一家には一旦帰っていただくことにした。

 『何か協力できることがあればなんでも言って』と、ミラさんはさっきまでお酒を飲んでいたとは思えない冷静さで帰っていった。


 俺達はその後、警察に捜索願を提出し、最寄りのスーパー付近を探し回った。

 咲夜のスマホは何回鳴らしても出ないし、一切の手がかりも無し。

 だが、俺にはひとつだけ心当たりがある。


「多分、典ちゃんだ……」

「えっ?」


 俺は家に帰り、咲月に典ちゃんと対峙したときのことを話した。咲月はその話を耳にすると、枯れ切ったと思っていた涙を再び零す。


「お姉ちゃん……!私の為にそんな!自分が捕まってどうするのよ!」

「俺も……あの時やっぱりついて行くべきだった。何が何でも……」

「どうする?乗り込むの?住所は知ってるんでしょ?」

「ああ。そうしたいのは山々なんだが、如何せん典ちゃんの情報が少なすぎる。ハイスペックだっていうのは知ってるが、それだけに返り討ちに合う可能性もある。咲月まで捕まって、俺は最悪死……なんてハメになったら……」


「私はともかく!哲也君が死ぬのはダメよ!そんなの、お姉ちゃんまで死んじゃう!」

「死ぬなって!生きてくれよ、俺の分まで!ふたりには幸せになってもらわないと困る!」

「な、なによソレ!」


 カッとなって赤面する咲月。俺も自分の発言の恥ずかしさに後から気が付いた。


「ごほんっ……!というか、咲月も『私はともかく』なんて考えは捨てろ!俺と咲夜が困るだろ!」

「う……わ、わかったわ……」


「「…………」」


「にしても、こんな強硬手段に出るなんて。典ちゃん、ちょっとヤバめではあるが、そんなバカなことまでする奴には見えなかったが……」

「それよ。私も、典ちゃんは良い協力者だと思っていたのに……」


 伏し目がちにため息を吐く咲月に問いかける。


「なぁ、咲月から見て典ちゃんはどういう奴だったんだ?」

「ええと……お姉ちゃんのことを妹みたいに可愛がってくれるお兄さん、かしら?」


「妹みたいに?」

「ええ。お姉ちゃんが小さい頃からお世話になっていた看護師さんよ。本当の兄妹みたいに仲良くしてくれて、身の回りのことだけでなく、勉強とかお話とか、それ以外のことでも、とても親身になってくれた人なの」


『それ以外』って、俺の誘拐のことか?とは思ったが、それはもう過ぎたこと。野暮なチャチャ入れはしない。


「それだけ聞くといい奴みたいだが、こないだは完全にアウトだったぞ?」

「良い人の皮をかぶるのをやめたのかしら?それとも、お姉ちゃんが隙だらけで魔が差しただけ?私も、典ちゃんがそんなことをするなんて、にわかには……」

「うーん、俺もよくわからない」


「とにかく、スタンガンを準備して、典ちゃんの家を偵察に行くくらいならできると思うわ」

「家は丘の上の豪邸だ。夜になると暗くて視界が悪くなる。今すぐ準備して――って……もう結構暗いな。腹くくるしかないか……」

「けど、万全じゃないのに返り討ちにあったら……」

「でも!咲夜をこのままで放っておけるわけないだろ!?」

「それはそうだけど!哲也君に何かあったら私、お姉ちゃんに顔向けできない!」

「――っ!」


 声を荒げた咲月は、悔しさのあまり血がにじむ勢いで拳を握りしめている。


「私だってお姉ちゃんが心配……!でも、哲也君に何かあったら……!」

「咲月……」


「それに、私の知る限り典ちゃんはお姉ちゃんを大事にしてる。だから、魔が差したとしてもそこまで酷いことはしないはず、と思いたい。だって、今まで十年以上もそういうこと無くお姉ちゃんを大切にしてきたのよ!?もし誘拐したとしても、初日から手ひどい目には――」

「そう、なのか?そう思っていいのか?」


 咲月の直感を、信じていいのか?問いかけるような眼差しに、咲月はぽつりと口を開く。


「私は監禁犯だった。対象を愛する監禁犯は一日目、『愛する者を手に入れた喜び』に満たされて、お腹がいっぱいになる……」

「それは、経験として?」

「経験として」


(……確かに、初日は何もされずに朝、目が覚めたっけ?)


「幸せでお腹がいっぱいで、『ああ、これからずっと一緒なんだ……』って。それ以外は考えられない。どうせ監禁してるんですもの。お楽しみはじっくり翌日以降に取っておくはずよ」

「それは――」

「経験として」


「…………」


 ツッコミたい俺の気持ちに反して、咲月の目は真剣そのものだ。


「明日、明るいうちに下見にでましょう。タクシーも呼んで、スタンガン以外も色々持って。何かあった時の為にミラさんに話をしてから……」

「わかった……咲月の、監禁犯としての直感を信じる」

「ありがとう、哲也君」


 俺達はその後、別々の部屋で眠った。

 眠ったといっても、俺は心配でどうしようもなくて眠れるわけもなく、咲月の部屋から聞こえてくる泣き声に耳を塞ぎたくなる気持ちを堪えて、咲月と同じように打ちひしがれた。


      ◇


 そして翌朝。結局一睡もできないまま日が昇り、辺りが白んできた頃。

 しん、とした部屋中にインターホンが響き渡る。


 ――ピーンポーン。


(こんな朝から……?誰だ?)


 不審に思いながらリビングに顔を出すと、そこには目の下にくまのできた咲月が青ざめた表情で立っていた。


「咲月、どうした?」

「哲也君、ちょっと、これ……!」


 指差されたインターホンの向こうから、カメラを覗く虚ろな目。

 すらりとした小綺麗な服装の襟元はぐしゃぐしゃで、やや長めに切り揃えられた黒髪はボサボサ。だが、そのボサつきも一周まわってお洒落か?と思えるような残念系イケメンが、そこに立っていた。


「えっ、ちょ……こいつ……!」

「典ちゃん!?」


「「どうしてここに!?」」

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