第8.5話 ふわふわの浴槽の中で
――パシャパシャ……
ふわふわと、泡がいっぱいの浴槽の中で、お姉ちゃんがぱしゃぱしゃと足を遊ばせている。
「ふふふ――」
お湯に浸かってリラックスし、
お姉ちゃんは揺れるたびに宙に舞う泡に向かって、ふーっと息を吹きかけていた。
「ご機嫌ね?お姉ちゃん」
「当たりでしょ?だって、今この家には哲也君がいるんだよ?今日は一緒に寝るんだから!」
「はいはい。でも、一応節度は守ってね?まだ初日なんだから」
「わかってるよー。哲也君の嫌がることして、嫌われたくないもん」
そういって、ふふん、と胸を張ると、水滴のついた大きな胸が水面で揺れて、お湯がちゃぷんと波を立てる。
こんなに楽しそうなお姉ちゃんは久しぶりに見た。
――ああ、哲也君を誘拐してよかった。
私は向かい合って湯船に浸かっているお姉ちゃんの幸せそうな表情を見て、心の底からそう思っていた。
私達がふたり暮らしを始める為にこの街に引っ越してきてすぐくらいの春。
私達は駅の改札からぼんやりとした表情で出てきた哲也君を見つけた。
あのときの、まるで時計の針が止まったみたいなお姉ちゃんの顔は、今でも忘れることができない。
それからというもの、お姉ちゃんの止まっていた時間はびっくりするくらいのスピードで動き始めた。
すぐに哲也君の後を追いかけて住んでいるアパートを特定し、所属している大学を突き止める。お爺様のコネで哲也君と同じ大学の二年生に編入して、周囲にバレない程度にその動向を観察した。
その、ちょっとした探偵ごっこみたいな生活も、それはそれで楽しかったのを思い出す。
今になって思えば、そうやってお姉ちゃんと一緒に哲也君を追いかけるうちに、いつしか私も哲也君に夢中になっていた。
だから、いざこうして哲也君と暮らし始めるとどこかそわそわしてしまうし、本当だったらお姉ちゃんみたいに哲也君と一緒に寝たい。
でも、シングルベッドに三人はさすがに無理がある。
「…………」
私は指で泡を遊ばせていたお姉ちゃんに問いかけた。
「ねぇ、お姉ちゃん。このあとどうするの?」
「どうって――」
お姉ちゃんは考えるようにしてお風呂場の天井を見上げる。
「――どうしようかな?」
その返答に、私はため息を吐いた。
「やっぱり。あんまり考えてなかったのね?」
「うん。追いかけることで、いっぱいいっぱいだったから……」
そういって、照れ臭そうにふふふ、と笑うお姉ちゃん。
「追いかけるって……もう逃がさないように?」
「ううん。もう見失わないように」
「そう……」
懐かしそうに目を細めるお姉ちゃんに、私は疑問を投げかける。
「じゃあ、ひとまずはこのまま暮らせばいいってこと?」
「うん。――幸せにね?」
「でも、大学を出るときになったらどうなるかわからないわよ?将来的には、どうするの?」
「うーん……」
お姉ちゃんは浴槽に肘をつきながら思考する。
そして、顎下まで深く湯につかると、恥ずかしそうに呟いた。
「家族になりたい、な……」
私はその言葉を聞いて、恐る恐る口を開く。
「ねぇ、お姉ちゃん……その『家族』って、私も一緒にいちゃダメかな……?」
私の自信が無さそうなのがわかったのか、お姉ちゃんは驚いたように目を丸くすると、私の肩を抱いてぎゅっーとした。
そして、優しい声で呟く。
「ダメなわけないでしょ?わたしにとって『家族』って言ったら、それは咲月もそうなんだから。でも、わたしは哲也君のことも大好き。だから、これからは――」
顔を上げて、にっこりと微笑むお姉ちゃん。
「家族三人、幸せに暮らそうね!」
「うん……!」
私は、その眩し過ぎるくらいの笑顔に誓いを立てた。
――これから、何があっても私達は『家族』になるのだと。
そして、お姉ちゃんを愛し、お姉ちゃんを幸せにしてくれる哲也君を愛する。
それこそが、私のすべてなのだと。
私はお姉ちゃんのきらきらした瞳を見据えると、自分に言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。
「――絶対に、楽しく笑って過ごそうね!」
「うん!」
私は元気な返事を聞くと湯船から立ち上がり、お姉ちゃんに手を差し伸べる。
「ほら、あんまり浸かり過ぎるとのぼせるよ?もうあがろう?哲也君が待ってる」
「は~い」
お姉ちゃんは満足そうに私の手を握ると、湯船からあがった。
白くて滑らかな肌の、左胸に残る手術痕が痛々しい。
(あの傷が、哲也君にもあるのかな……?)
私は浴室を出てお姉ちゃんからバスタオルを受け取る。
そして、身体を拭いてうきうきとした足取りでリビングへ向かうお姉ちゃんの背に、かつての哲也君の背を重ねた。
――今度こそ、今度こそ見失わないからね。哲也君……
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