第7話 『にゃんにゃん』なんてしたくてもできない

 ――ごくり……


 再び、俺の喉が嫌な音を立てる。


 脳裏をよぎる、これまでの咲月の言動。

 パンケーキを切る、手際のいいナイフ捌きに、『隙だらけね?』という甘い声……


「――っ……」


(ま、待て待て待て!何を考えてるんだ俺は……!咲月は、『身の安全は保障する』って言ったんだぞ?大丈夫、大丈夫だ……)


 言い聞かせるように、その言葉を反芻する。

 呼吸を落ち着けようと胸に手を当てると、心臓がドクドクと鼓動を響かせていた。

 今日一日、俺の心臓は過労死するんじゃないかってくらいにドキドキしていたが、このドキドキは、俺がこれまでに感じていたどのドキドキとも違う。


 ――張り詰めた空気。

 その沈黙に耐え兼ね、俺は口を開く。


「な、なんだ……?」

「あのね――」


 嫌ってくらいに落ち着いた、咲月の口調。

 しかし、そのあとの言葉は、俺の予想外のものだった。


「――お姉ちゃんのこと、どう思う?」

「――へ?」


 拍子抜けし、思わず声が裏返る。


(て、てっきり『お姉ちゃんを好きにならないと殺す』みたいなことを言われるのかとばっかり……)


 俺がぼんやりしていると、咲月が語気を強めた。


「ねぇ、どう思ってるの?あれだけ好き好きオーラ出してんのよ?善かれ悪しかれ、何にも思わないなんてことないわよね?」


(それはそうだが、急にいわれるとどうにも言葉にならないな……)

 俺は虚空に目を向け、今日の出来事を思い返す。

 ようやく思いついたのは、なんとも微妙な感想だった。


「いや、なんか……猫みたいだなって……思った……」


 ――その瞬間、咲月の目がカッと開く。

(な、なんか、こいつも別の意味で猫みたいだ……)


 しかし、何を思ったのか。咲月はテーブルにバンッと手をついて立ち上がった。


「ちょ……!な、なによそれ!?ひょっとして私がバイトに行ってる間に、もうお姉ちゃんとにゃんにゃんしたってわけ!?監禁初日よ!?ありえない!!」


 顔を真っ赤にして叫ぶ咲月。その表情が示すものは、驚き、焦り、心配、ドン引き、エトセトラ……そのほか、羞恥のせいか、泣きそうなくらいに瞳が潤んでいる。

 ――泣きたいのは、俺の方だ。


「ち、ちがう!にゃんにゃんなんてしてない!」


 俺は全身全霊、真っ向否定する。

 しかし悲しいかな。咲月につられて立ち上がった俺の顔は咲月以上に真っ赤で、その言葉にはまったく説得力が無かった。

 だって仕方ないだろ?さっきの一瞬で、つい『咲夜がにゃんにゃんしている映像』が頭をよぎっちまったんだから。


「その顔……!信じらんない!」


(……だろうな!でも信じてくれ!)


 俺は声を張った。


「してない!さっきは咲夜に言われて、ただ添い寝してただけで……!」


(俺は頭の中で猫を数えていただけだ!)


「うわ……ちょ、いくらお姉ちゃんが可愛いからって……哲也君好き好きだからって。ソッコーとか……ナイわぁ……」


 動揺した咲月の耳に、俺の言葉は届かない。俺は更に声を張る。


「にゃんにゃんしたくても出来ない!したことがない!」

「…………」


「そんな俺が!初対面の女子をどうこうできるわけがないだろうっ!?!?」

「…………」


「はぁ……はぁ……」


(言って、しまった……こんなカミングアウトを、よりにもよって、可愛い女子に……)


「…………」

「…………」

「…………」


 しばし呆然と俺を見つめていた咲月が、ようやく口を開く。


「あー……そう。哲也君、そうなんだ?」

「…………」


 気まずさで目を合わせられない俺に、あろうことか、咲月は微笑んだ。


「――安心したよ」


(全然嬉しくない……)


「いくらスタンガンを持たせたとはいえ、留守の間にお姉ちゃんに何かあったらどうしようって、少し心配だったの。いくらお姉ちゃんが哲也君を好きでも、ムリヤリはよくないでしょ?」

「――っ!?」


(スタンガン!?そんなモン持ってたのかよ、咲夜のやつ!)


「でも、帰ってみたら私の部屋にスタンガンがあったから、ちょっと気になってね?」


(なんだ……部屋にあったのか……)


 その言葉に俺は何故か胸を撫でおろした。


(そりゃあんな薄着のワンピース姿で持ってたら、昼寝中にすぐバレるもんな……)


 いよいよもって、俺の感覚は狂ってきている気がする。


「でも、哲也君なら大丈夫そうね?」

「…………」


 むしろ咲夜はウェルカムで、俺の方がスタンガンを持ちたいくらいだとは思ったが、ぐっとこらえて言葉を飲み込む。


 咲月は、敵に回したらヤバそうだ。


「――それで?俺が咲夜のことを好意的に思ってたとして、それがなんなんだ?」


 仮にもお姉ちゃん大好きっぽい咲月に向かって否定的に思っているなんて、口が裂けても言えない。

 だが、事実として俺は咲夜のことを好意的に思っていた。

 いくら監禁犯(おそらく主犯)とはいえ、悪い奴にはどうしても思えないのだ。


 俺が咲月に目を向けると、咲月はさっきの表情から一変、柔らかい笑みを浮かべる。なにかを慈しむような、それでいてどこか寂しい、そんな笑みを。


「ううん。ただ純粋にどうなのかな、って思っただけよ?でもね、好意的に思ってくれるなら、それは嬉しい。とっても」

「それは……」


 俺の言葉を遮るように、咲月は続ける。


「お姉ちゃんはね、花火みたいな人なの」

「花火?」

「そう。夜空にぱっと咲いて、一瞬で誰もが振り向くような、人目を引く綺麗なひと。見た目も、生き様も……」


(確かに、あの咲いたような笑顔を見れば納得の例えだが……生き様も……?)


「昔から、お姉ちゃんはあんまり何かに執着したりすることが無かった。小さい頃に色々あって、諸々諦めちゃったせいもあるかもしれないけど、そのあとも、『何かに興味を持って生きていこう』って気持ちが、人より乏しいのよ……多分、『いつ死んでもかまわない』って思ってる」


「それ、は……」


「死にたがり、ってやつかもね?最近多くない?そういう子」


 確かに、『来世でがんばる』的な表現はよく耳にするが、実際にそうだという人間を目の当たりにするのは初めてだ。

 しかも、聞くだけではにわかには信じられない。


(さっきは、あんなに幸せそうに寝てたのに……)


「お姉ちゃんは、熱しやすく冷めやすいっていうか……人と付き合ってもすぐ別れちゃうし、趣味も長くは続かない。私はお姉ちゃんを色んなところに連れて行ったりもしたし、今でもしてるけど、これが初めてなのよ」


 そういって、咲月は俺をしっかりと見据える。

 その瞳には、さっきまでのような恐ろしさはもう無かった。今朝も見せたような、ただただ澄んだ色をしている。


「これ、っていうのは……ひょっとして、俺……か……?」


「――そう。だから、心配だったの。もし哲也君がお姉ちゃんを全力で拒絶して、お姉ちゃんの恋が終わってしまったら、その恋の炎が消えてしまったら、どうなっちゃうんだろうって……」


「まさか、それで監禁に加担を……?」


 恐る恐るそう問いかけると、咲月は首を縦に振る。

 すると何を思ったか、席を離れて俺の傍へとやってきた。

 見上げる俺に、咲月の影がかかる。


「咲月……?」

「――――」


 不意に首筋を包む、あたたかい咲月の両腕。

 咲月は俺の頭を抱えるようにして、抱き締めた。


「――っ?」


 咲夜のものとはまた違う、しなやかな柔らかさに、握ると折れてしまいそうな細い腕。さらりと零れる黒髪からは、シャンプーのいい香りが漂ってくる。


「ねぇ……」


 ――ぎゅっ…………


 咲月の腕に、力がこもる。強くなく、弱くなく。とても優しい力だ。


「――ありがとう。哲也君」

「…………」


「ずっと、こわかったのよ。お姉ちゃんが、ぱっと咲いて、いつか消えてしまうんじゃないかって……君のおかげ。君のおかげで、お姉ちゃんは……」

「…………」


 咲月が監禁に加担したのは、咲夜の為だった。

 だが、それは朝も聞いたとおり、『咲夜が俺を好き』ってことなんだろう。そのことが、この双子にとって大きな意味を持つこともわかった。

 だが、俺にはまだわからないことがあった。


「……咲月。今度は、俺が聞いてもいいか?」

「――なに?」


 俺からゆったりと離れた咲月は、首を傾げる。

 俺は、ずっと気になっていた質問を投げかけてみた。


「咲夜は、どうして俺のことをそんなに……その……好きなんだ?」


 何故、監禁するほど愛されているのか。

 さっきまでは『好かれているならいいか』くらいの気持ちでいた俺だが、咲月の話を聞いて、その理由を知りたくなってしまった。

 俺の問いに、咲月は首を横に振る。

 そして、さっきまでとは一変。呆れたようにため息を吐いた。


「哲也君さぁ。それって、ナンセンスなんじゃない?」

「えっ」


「そういうのは、直接お姉ちゃん本人に聞きなさいよ?」

「それは、そうかも……しれない、けど……」


 しどろもどろになる俺に、咲月はふっと笑いかける。


「ふふ、哲也君ってほんと、おっかし――」


 そして、一瞬俺の顔を見たかと思うと、顔をずずいと近づけてきた。


「でも、君のそういうところ、嫌いじゃないよ?」

 『むしろ……』


 耳元で小さな囁きが聞こえたかと思った矢先――


 ――ちゅ。


(え……?)


 ――ぺろり。


(は……?)


 わけもわからず見上げる俺に、咲月はいじわるな笑みを浮かべた。


「ほぉら。隙だらけだ」

「…………」


「マヌケな顔して、デミグラスソース口元につけてるのが悪いのよ?」

「…………」


「さ、そろそろお姉ちゃんを起こしてこようかな?」


 口元に手を当ててぽかんとしている俺をよそに、咲月は去ってしまった。


(うそ、だろ……?)


 まさか。俺の上の口こっちのハジメテが、咲夜でなくて、咲月とは。


 いくら咲月に対してそういう警戒をしていなかったとはいえ、想定外過ぎて思考が追い付かない。


「ど、どうしてくれるんだ……」


 俺の口から零れた言葉は、そんな、奪われちゃったオトメみたいな感想だった。

 俺は、思う。


 ――この家に、俺の安息の地など無い。


 俺は、咲月に対する警戒レベルをゼロから最大に引き上げた。

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