第2話 貴船


あれは、高校2年の7月、期末試験が終わった頃でした。

伯父は社員たちを連れて一泊二日の慰安旅行で城崎温泉に出掛け、私は伯母の香織と二人きりになりました。


「直之ちゃん、ホタル、見に行かへん?」


しばらく元気のなかった伯母でしたが、鬱屈した気持ちを振り払うには外出した方がいいと思ったのでしょう。伯母が言い出しました。


「7月中旬だけど、貴船ならまだ見れるんよ」


鞍馬にある貴船は市街地より気温が低く、涼みながらホタルを楽しめる場所として人気がありました。


私たちは叡山電鉄の貴船口駅でタクシーを掴まえ、予約した貴船川沿いの茶屋に行きました。


「暑かったでっしゃろ。さあさあ、こちらで涼みなはれ」


時刻はまだ午後5時。市内は35度を超える暑さですが、ここは風が吹き抜け、川床は上着を羽織りたいくらいでした。


炊き合わせ、あまごの天ぷら、そうめん等、それに、伯母はビール、私はウーロン茶。


「ほんまに美味しい」


伯母の笑顔は久し振りでした。


午後7時前、私たちは夕食を済ませると、ホタルの名所、蛍岩を目指して川沿いの道を歩き始めました。


「随分と人が多いね」

「仕方あらへん。この時期、ホタルが見れるん場所、もうここだけやから」


家族連れや若い二人連れ、中には懐中電灯を川に向けて照らすマナー違反の者等もいましたが、多くの者は蛍岩周辺で蛍が舞い始めるのを期待して静かに待っていました。


「ほら、あそこ!」

「えっ、どこ?」

「あそこや!」

「ほんま、きれいやわ」


ホタルが舞い始めると言われる午後7時半にはまだ早いのですが、既にホタルを見つけたとあちらこちらから喜ぶ声が聞こえてきました。


「直之ちゃん、うちらはあっちがええわ」


伯母は蛍岩から少し離れた、あまり人影のない場所を指差しました。


「暗すぎない?」

「ホタルを見るんなら、暗い方がええよ」


確かにそうですが、それは伯母の心境を表していたと思います。ホタルを見には来たものの、楽しい歓声を聞くような気持ちにはとてもなれない、それが伯母の本音だったに違いありません。


私たちが岩に腰を下ろすと、乱舞ではありませんが、左側からひょろっと、そして右側からもひょろっと、数匹のホタルが姿を現し、美しい光を発しながら舞い始めました。


 物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる


「えっ?」

「和泉式部」


そう言ったまま黙ってホタルの舞いを見ている伯母の横顔はとても寂しそうでした。


後で調べて分かったことですが、それは和泉式部が夫の気持ちを取り戻そうと願って歌ったものでした。


この時はそんなことは知りませんでしたが、伯父と大恋愛していた時の“恋に焦がれるあまり、自分の体から魂が抜け出していく”、そんな気持ちを伯母は思い出していたのでしょう。


(伯母さん、離婚するんだ……)


私はそう感じました。


「伯母さん、帰ろう」


まだホタルの舞いは続いていましたが、私は涙が止まらず、ただ伯母の手を引いて川沿いの道を戻っていきました。

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