45.誤解
放課後、俺は塚本くんに遅れると言う内容のメールを送ってから、花宮に話したいことがあるからと言って残ってもらった。帰りのホームルームの後少し待っていると、あっという間に教室からは2人を残して人がいなくなった。今日に限って教室にダラダラ残るような奴がいなくて助かる。
花宮も部活に遅れると言うのに、嫌な顔一つせず了承してくれた。大体俺が何を話したいかが分かっているようで、「人がいなくなるまで待とうな」と言ってくれたのも彼が先だった。
人がいなくなったのを確認すると、花宮は近くに寄ってきて「話って?」と優しく俺に促す。聞きたいことは明白で、でも何と無く聞くのが怖くて少しの間口を開けなかった。自分の家の事情を今まで誰にも知られないようにしてきたのだ。塚本くんに話すのだって本当は嫌で、でもあの姿で泣きついてしまったからには話さないわけにはいかなかった。
彼が何を知っているのか見当もつかないが、どうかあまり深くまで入り込んでこないでほしい。
いつまでも黙っているわけにもいかないので、一息ついてから重い口を開く。
「あのさ、花宮は弟からなんの話を聞いたの?」
単刀直入に、ずっと気になっていたことを口にした。俺の質問を予想していたのだろう、花宮は動揺することもなく俺の顔を黙って見返した後、重たい口を開く。
「なぁ神白。勝手に人に話したからって弟のこと責めんなよ?俺あいつと最近よく一緒に練習しててさ、だから俺に心開いてくれたんだと思うし」
「…あぁ」
ひどく言いづらそうに、でも彼からも真剣な話をしようと言う意思が伝わってくる。
「お前……両親から暴力振るわれてんだろ?」
その言葉は衝撃的で、しかし思ってもいない内容に思考が止まる。
何?
なんだって?
「は…?」
思わず口から出てきた疑問符を彼がどう受け取ったのか知らないが、彼は突然俺の肩を掴んだ。
「お前の弟から聞いたんだよ!まさかお前があんなひどい暴力受けてるなんて、…全然そんなそぶり学校じゃ見せないから、気がつけなかった…」
「いや、…は?え、ちょっと待って。俺が両親から暴力受けてるって、…なんだそれ。…それを弟が言ってたのか?お前に?」
「そうなんだろ?」
だんだんと状況を理解してくると急激に怒りが湧き上がってくる。
両親から受けた暴力?そんなものない。俺を殴ったのも蹴ったのも全部全部、弟であるあいつがやったことじゃないか。なんでそれが、父さんと母さんがやったことになってんだよ。
弟がこんな嘘をついた理由もわからなければ、花宮と言う人物を巻き込んで事態を変にめちゃくちゃにしている意味もわからない。どうにか収集しなければと思うが、沸き立つ怒りのせいで考えが中々まとまらなかった。俺の存在を無視しているとは言え暴力なんてものは母さんは絶対に振るわないし、父さんも俺が何かやらかした時に一発殴るくらいだ。…それに関しては少し過剰とも言えるかも知れないが、家庭内暴力なんて言うほど大層なものじゃない。
とにかく、彼の誤解を解かなくてはならない。
「違う。待ってくれ。お前は勘違いしてる」
「隠さなくていいんだよもう!俺もだれかに変にチクったりしないから、正直に教えてくれよ」
「だから本当に違うんだって!弟はお前に嘘ついてるんだよ。なんでそんな嘘ついてんのか俺も知らないけど…。大体、俺が暴力を振るわれた証拠なんてないだろ?」
花宮には俺が必死に親のことをかばおうとしているように見えているらしい。俺の言うことを全然信じちゃくれない。そのことに苛立ち、口調が荒くなる。ここまで言えば相手も引っ込まざるを得ないだろう、そう思ったのだ。しかし予想に反して、弟が用意周到だったとでも言うのか。
「証拠なら、あるよ。俺だって最初は信じられなかったから。でもこんなの見せられたら信じるしかないだろ?」
そう言って示された彼のスマホの画面に写っていたものに、俺は真っ青になった。こんなもの記憶にない。
それは弟に殴られ、気を失った俺の写真だった。
見るに耐えない自分の姿。服から覗く皮膚には汚い色の痣が広がっている。固く閉じたその瞳からはいく筋もの涙の跡が残っていた。
「…やめろ…!」
思わず花宮のてからスマホをはたき落とした。画面が割れたらとか弁償云々とか考える余裕などない。
身を震わせるほどの怒りと動揺で頭が真っ白になる。
人を傷つけておいて、それを写真に撮って、挙げ句の果てには関係ない人間にその写真を晒したっていうのか。
こんな情けないザマを他人に見られたことがショックでたまらなかった。ただ人に事を話すのとその光景を実際に見せるのとじゃ全然わけが違う。
スマホを拾う花宮を見下ろしながら、謝ることもできなかった。あんな姿、もう自分でも見たくなかった。花宮には悪いけど、もうこれ以上冷静に話ができる自信がない。
「…今日サッカー部って外で練習してるよな?」
「え?ああそうだけどー…、って急にどこ行くんだよ!」
花宮の返答を聞くやいなや、俺は荷物も持たずに教室を出ようと彼に背を向ける。しかし彼は慌てた様子で俺の腕をつかんできた。
「怒るなって言っただろ?写真を撮られたことに怒ってんのかもしれないけど、それも全部お前のためを思ってやったことなんだよ!」
「俺のため?」
「この写真があれば、お前が暴力を振るわれたって証拠にもなる。いずれ大人の力を借りる時にこう言うのが残ってた方がいいんだって」
そうか。そう言う解釈になるのか。もし俺が親に暴力を振るわれていたとしたのなら、弟は兄を助けたいながらも直接何かすることはできず、それでも兄のために何か力になれないかと糸口を探している健気な人物。
優しい優しい、兄思いの。
だが事実はその正反対だ。そしてそのことを俺が声を大にして言ったって、信じてくれるものなどおそらく殆どいない。弟の手の内で踊らされている自分も周りの人間も、きっと彼にとっては思い通りになり過ぎて滑稽でたまらないのだろう。そう思えばこそ、余計に腹立たしい。
俺は花宮の手を振り払うと、今度は自分の荷物を持った。そうしてできる限りの冷静さを取り繕う。
改めて考えてみればこの状況すら弟の狙いだったのかもしれない。花宮はきっといいやつなんだろうが、弟の味方である限り俺としては信用しないほうがよかったのだ。
「…時間取って悪かった。俺もう帰るよ」
「え…。相談してくれる気になったんじゃないのか?」
「色々混乱してて冷静に話せそうにない。…変に巻き込んでほんとにごめん。」
呆気にとられる花宮を教室に置いて、俺は学校を出ようと昇降口に向かう。
いっそのこと勢いに任せて弟に直接文句でも言いに行ってやろうとも思ったが、なんとか自制する。
俺は自分を除いた家族はみんな仲がいいものだとてっきり思っていた。あの家の中で、俺だけが嫌われているのだと。だがそれならどうして弟は親を貶めるようなことを他人に言いふらす?下手をすれば花宮が先生や他の生徒に言いふらすような可能性だってあるじゃないか。そうなって責められるのはきっと両親だ。
もしかしてあの家は俺が思っているよりずっと崩壊してしまっているのだろうか。仲のいい家族なんてものは幻想に過ぎないのか。いつからそんなことになってしまっていたのか。
考えてもどうせ答えになんかたどり着けないのに、ぐるぐると答えを求めて回る思考がうっとおしい。
いい加減この何もわからない状態から抜け出したいのに、何の手がかりもないのだ。
「先輩!」
階段を降りている途中で声をかけられ振り返ると、息を切らした塚本くんが立っていた。俺はすっかり彼を待たせていたことに気がつく。
きっと今の今まで忠犬のように俺が来るのを待っていたのだろう。
「あ……悪い」
早足で俺の横まで来ると、彼は俺の荷物を勝手に奪った。
「帰りますか?」
「…うん」
「わかりました。じゃあ行きましょう」
そう言って何事もないかのように昇降口へと足を向ける。
俺に歩みを合わせて。何があったのかも聞かなければ、どうして帰るなら一言言ってくれないのかという文句もない。ちょっと怒ってるのかとも思ったが、ちらと盗み見た顔にそんな感じはなかった。逆に責めてくれた方が俺も気が済むんだけど。なぜか荷物まで持ってくれちゃってるし。
なんとなくきまりが悪くて彼のちょっと後ろを歩こうとするが、俺がスピードを落とすと彼もそれに合わせて来るのでうまくいかない。
「ちょっと、嫌なことあってさ。…だから」
嫌なことを話すときは自然と口が重くなる。でも、勝手に先に帰ろうとした理由くらいは説明しなければと思っていた。
「先輩」
そう言って唐突に俺の前に立ち塞がり、俺の顔を真正面から見つめてくる。言おうとしていた言葉は飲み込んで、文句でも言われるのかと身構えた。
「俺が先輩になんでも話してほしいって言うのは、それが少しでも先輩の気を楽にできればと思ってのことです。例えば俺に話すことでそんな顔をするなら、話さなくていいです」
「そんな顔って」
ひどい顔してたのか。全然意識してなかったけど。
「詰まるところ、先輩に楽しい気持ちでいてほしい、それだけです」
優しく甘ったるい飴みたいな言葉は、さっきまで燻っていた怒りを溶かしてゆく。あっという間に重たい感情がふわりと軽くなってしまった。
「帰りましょう、先輩」
そう言って伸ばされた手は俺を光の方へ誘ってくれるようでとても魅力的だ。
だが俺はその手をぺしりと叩く。
「この歳になって手なんか繋ぐかよ。ガキじゃねーし」
若干残念そうに自分の手を見下ろす塚本くんは、さっさと歩き出す俺をすぐに追いかけて隣にピッタリついてくる。
何も言わず、何も聞かない。
ただ隣にいてくれる。手なんか繋がなくても、それだけで十分救われてるよ。
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