31.弟と塚本くん2





結局、時間は経って放課後になってしまう。


まさかあの怪我で家から出ていることはないと思うが、一応俺は旧視聴覚室へ向かっていた。仮に無理してでも学校に来るとしたらそこしか考えられないから。


それに、何も知らない塚本にも教えてやらなきゃね。

いつも通り何も知らない顔で放課後の教室を慌ただしく出て行く姿を見て、笑ってしまいそうだった。今日は来ねえっつの。金曜日だってそうだ。何も知らずに俺たちを見て。何も知らずに「待ってます」とか勝手な約束して、ほんと馬鹿みたい。兄さんは二度と彼処には行かせない。ずっと一人で俯いてりゃいいのに、いつの間にかお友達なんか作っちゃって楽しそうにして。しかも俺の同級生とか何考えてんだか。どうせいつもと同じで失うに決まっているのに、いつまで経っても学習しないんだから。



ガラリと扉を開けると、案の定一人で真ん中の方の席に座っていた。俺の方を振り返り、怪訝な顔で眉をひそめる。このままこいつが待ち惚けをくらうのは別にどうでもいい。ただ、兄さんが来てたら許せないだろ。俺の連絡をひたすら無視してるくせに。だからわざわざここまで来てやったんだ。

とりあえず教室を見渡して塚本しかいないことを確認する。…やはり来てるわけがないか。

気分が良くなった俺は自然と外向けの笑顔を浮かべて塚本の方へ近寄った。こいつも俺としてはかなり気に入らない存在だ。勉強に関していえばこの男に勝てた試しがない。今まで自分がだれかに負けるなんて経験をしたことがなかったからこそ、彼の存在はやたら目についてうっとおしかった。だが、兄さんを追い詰める道具としてはかなり優秀な存在だと思う。勉強以外ではこいつは兄さん以上の馬鹿だし。俺のことも友達だとか思ってるようだから、これからもそれなりに利用させてもらおう。


「何か用?」


ところが彼は冷たい声音で俺の歩みを拒絶する。

俺が一定の距離まで近づくと、彼は不意に立ち上がった。それ以上近づくなと牽制するような彼の態度に自分の顔が強張る。様子がおかしい。今まで何も知らないとぼけた顔をしていたはずなのに。全て分かっているみたいじゃないか。

俺は立ち止まると、もう一度ゆっくりと周囲に視線を巡らせる。確かに、誰もいない。兄さんはここには来ていない。そうだろう?


「いや、兄さんのことなんだけど。今日来ないと思うから一応教えといたほうがいいかなと思って」


何か彼に対して変なことをした覚えはないが。と言うよりも今日は彼とは会話自体していないはず。普段からそんなに親しく話すような間柄ではない。たまに会話する程々に仲がいいクラスメイト。そんな感じの浅い関係だ。

だが、明らかに彼の態度は今までとは違った。それ以上距離を近づけることを許さない。まさしく、彼が俺を見る目には敵意がこもっていた。


「分かった」


ただ一言。返事はそれだけ。


俺は戸惑いを隠すのに必死だった。予定が狂うのは好きじゃない。もう少し塚本とはうまくやっておきたかったのに。それに自分が失態をした記憶がないのに、一方的に警戒されていることが気に食わない。把握していない事態が起きている。その事実に内心焦ってしまう。


「……えーと、帰らないの?」


「先輩は来るから」


分かりきったように。当然だと言うように。そんな風に言ってくる。

ちょっと待てよ。お前があいつの何を知ってるって言うんだよ。

強張った笑顔が崩れていくのを感じた。いらいらする。本当にこいつは最初からずっと俺をイラつかせる奴だ。

俺と兄さんが兄弟だったことも知らなかったくせに。何も知らないくせに、一年も付き合っていないくせに。弟の俺の前でよくもそんな知った風な口がきけるもんだ。


「早く帰ったほうがいいと思うけど。時間の無駄だし。まあいいや。じゃあね塚本」


戸惑いから苛立ちに切り替わり、早口で適当な言葉を並べた。俺は表情を無理やり戻し、さっさと部屋を出ていく。このままあの部屋にいたらいらいらしてあいつに何をするかわからない。彼が何を知っているのか知らないが、まだこれ以上ボロを出す時じゃない。もう少し騙してから、来るべき最高のタイミングでついでにあいつもどん底に落としてやる。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「先輩。晴吾先輩?」


俺を呼ぶ声に返事をしようとしたが、込み上げてくる吐き気に耐えられず俺はうずくまっていた。手が震えている。

あいつの事だ。用心深く勘が鋭い。絶対に確認に来ると思っていた。だから事前に身を潜めていたわけだが、弟の声が耳に入る度に身体が震えて仕方がない。間違って音を立ててしまうんじゃないかと気が気でなかった。今まで散々連絡を無視しておいて、こんなところにいるなんて知れたら本気で今度こそ監禁でもされかねない。


こんな風に身体を抱えてうずくまっているような自分の姿なんて、情けなくて、恥ずかしくてたまらない。年下の塚本くんに見られたくないから早く立ち上がりたいのに。体はまるで言うことを聞いてくれなかった。ドアが開いて出ていく足音はした。塚本くんも俺を呼んでくれている。でも、もしまだそこにいたら。そんなことないと分かっていても、最悪の想像をしてしまって動けない。


「大丈夫ですか。先輩」


教室の端に寄せられた教卓の下に隠れていた俺を、ひょっこりと覗き込む。彼は目に見えて震えている俺の姿を確認すると、そっと俺の手を包み込むように握った。まるで子供をあやすような動作にムッとするが、おかげで動悸が治ったので文句は言えない。


何だこいつ。安心感が半端ない。


それからしばらくそのままで、次第に震えもなくなった。

小さな声でお礼を言う俺を、彼はまた優しく微笑んで見ていた。


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