15.全力



問題が起きたのは、この昼飯の後のこと。俺が呑気に塚本くんと昼ごはんを食べ終わって自分のクラスの応援席に戻ったときの話である。



クラスメイトの一人が体調を崩し、保健室に運ばれて行った。どうやら原因は昼ごはんに食べたお弁当のようで、中身が傷んでいたのかもしれない。専門家じゃないので詳しいことはわからないが、とにかく腹を抑えながら動けなくなった彼が、重要な学年対抗リレーのメンバーであることが大問題だった。それはもう、代役など立てられないくらい足が速いで有名なやつだから。その上、選手に選ばれていなかった運動部の連中も彼と一緒に昼飯をつついていたらしく、青い顔でトイレに駆け込んで行った。そもそも、あの足の速い彼の代わりに走るのはだれもが嫌なのだろう。緊急事態だというのに、だれ一人立候補しようとしない。


でもおそらく、腹を壊していなくて次に足が早いやつが選ばれることは必定。俺に矢が刺さることはないからと、若干他人事のようにその光景を眺めていた。


そんな時、ふと誰かが呟く。


「そういえばお前、去年100m走出てなかった?」


自分に話が振られていることなど気がつかずにぼうっとしていると、やけに視線を感じて顔を上げる。そこにいたクラスメイト全員が俺の顔を見つめていた。その光景の恐ろしさに、半歩思わず後ずさる。


「…は?」


「いやお前出てたじゃん。100m。そうだよ、結構成績よくてさ」


去年のクラスメイトだった彼の爆弾発言で周りの人間の目が輝きだす。それと相反して俺の顔はだんだんと青ざめていく。

やめろ。そんな目で見るな。そんな…期待のこもった目で。

俺はせめてもの抵抗で絶対に自分からはやると言うまいと固く口を閉ざすが、だからと言ってやらないと首を振ることもできなかった。そうして遂には委員長がつかつかと近づいてきて俺の肩をガッと掴んでくる。


「君に代役を頼みたい…!」


委員長の圧と、その背後から覗く俺を逃すまいとする無数の視線。


…この状態で断ることができるやつがいるなら教えてもらいたい。諦めた俺は深い深いため息をついた。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


見慣れた顔を見かけてさらに深いため息が出てくる。

塚本くんも弟もいるじゃないか。どんな地獄だ、ここは。


結局競技に参加することになった俺だが、たった一つの条件だけは無理やり呑み込んでもらった。それは俺が選手代理だと言うことを言わないこと。つまり、もともと走る予定だったやつの名前を借りて走らせてもらう。委員長も少し不思議な顔をしていたが、走ってくれるならと承諾してくれた。わざわざ走る人間を顔写真と比べて確認したりしないから大丈夫だろうとのことだ。放送で堂々と俺の名前を読まれるのだけは勘弁してもらいたい。


渋々とその大任を請け負ったのはいいが、予想通りというか嫌な面子が揃っている。選手待機の場所に重い足取りで向かってから、せめて弟には見つからないようにと細心の注意を払っていた。すると塚本くんと目があってしまい、しかもわざわざ駆け寄ってくる。


「先輩!出るんですか?学年対抗」


「……見りゃわかんだろ」


あからさまに不機嫌な俺に、一瞬口をつぐむ。正直、お前に構ってる場合じゃない。腹壊してトイレに駆け込んでるやつより気分悪いよ絶対。ここまできてもやっぱ断ればよかったとか、悶々と無駄なことを考えている。


「先輩」


「…」


「勝負しませんか?」


「…は?」


これ以上俺を追い込むつもりか。


「俺が勝ったら先輩の名前、教えてください。先輩が勝ったら、俺なんでも言うこと聞きますよ」


そんなもんやるわけねーだろ、という言葉を発するより先に集合の合図がかかる。選手入場の時間だ。話は途中のまま、俺たちは慌てて集合場所に駆け寄ることになった。


俺の気持ち的には、塚本くんよりも弟のことが気がかりだった。もしも俺が弟に勝ちでもしたら、家に帰った後何を言われるか分からない。母さんや父さんからもこれ以上白い目を向けられるようなことは避けたい。俺は絶対に彼に勝ってはいけないのだ。だから弟が出るとわかった時点で、俺がどう走るかは決まってしまっている。さっきの塚本くんとの勝負の話も、その状況と比べると天秤にかけるほどのものでもない。


いつも通り、波風立てないよう、それなりにうまくやるだけだ。

それなのに俺は何かを迷っている。絶対に勝ってはいけない勝負に抗おうとしているから、こんなにも気分が悪いんじゃないだろうか。


ちゃんとやらなきゃクラスメイトに申し訳ない?今更そんなはずはない。塚本くんが持ちかけて来た勝負だって気がかりじゃない。兄が弟に負けることのプライドなんてとっくに捨ててる。


嫌なのは。どうしても、譲れないのは。



ーだって見せられないだろ。あんなに慕ってくれてる後輩に、簡単に負けるような情けない姿。



俺のどこにこんなしょうもない意地が残っていたのか。順番に並びながら苛まれる葛藤にぎり、と歯を噛みしめる。自分から自分を追い込めてどうする。ふとあげた視線が同じ横列に並ぶ弟と交差する。その一瞬で読み取れるのは、調子に乗るなよという圧力。分かってる、そんなこと分かってるさ。


いつの間にかスタートしていた競技。あっという間に自分の出番は迫ってくる。割と順調だった俺のクラスだが、ちょうど俺の手前のやつがすっ転んでしまう。そのせいで大分ほかよりも遅れてしまい、圧倒的に他のクラスよりも不利な状況。このままビリでもおかしくない。

俺が力を入れても抜いても大差ないだろう。


俺と同じ順番だったやつらは先に出てしまい、俺一人が一番内側のレーンに残る。そして次の順番の人達が、気が早くも立ってレーンに出てくる。


その中に塚本くんがいた。

あの純粋な目を見てしまう。まっすぐ、俺を信頼して疑おうとすらしない目。


涙目で必死に走ってくるクラスメイトを見つめながら、俺は「彼」を呼んだ。



「塚本くん」



声をかけられるとは思っていなかった彼は少し驚いた表情をしている。

仕方ない、と俺は無理やり笑って見せた。こうなったら腹をくくれ。中途半端ほど格好悪いものはない。そう決めたなら、不敵に笑ってみせるくらいしないとな。


「俺の全力見せてやるよ」







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