3、

「やっぱりまだ暗いな」

 外はやはり暗闇で、僕の知っている昼間の草原の姿はなかった。それでも草の匂いだけはとても鮮明で、雨が降ったことは間違いなさそうだ。幸い今は晴れているので月明かりを頼りに足元を見る。大丈夫、歩けそう。

「そうだね。とりあえず歩こう」

「ああ」


 寝つく前まで鳴いていた虫は声を潜めており、人間も含めて、街のみんなが眠っていた。僕ら二人だけがこうして、その静寂の中を歩いていく。もし僕が早く目を覚ましていなければこれを、彼は一人でやったのだろうか。ジャリ、ジャリ、と足音を立てて、僕の目の前を彼は進む。僕の前を、歩いていく。


「アベルは、何か趣味とか、ないの」

 舗装された道を歩きながら、振り返らずに彼は訊いた。昔から、これは彼の癖だった。面と向かって話さないときは、真剣な話をする前、相手の出方を窺っているときだ。

「あったらこんな暇そうに夏休みを過ごしてないよ」

「そうだな、一緒に遊びにいく友達もいないみたいだしな」

「失礼な。それくらいいる。お互いにインドアなだけだ」

「インドアなりに、何かしてないのか?」

「強いて言えば読書」

「なんだ、そうなのか。それなら、次に読む本を貸してくれよ」

「いいよ。どういう本が好きなの」

「うーん」

 相手は少し悩んで、脳内の蔵書に検索をかけた。

「サリンジャーは好きだったな。でも、夏目漱石も好きだし、シェイクスピアも嫌いじゃない。わりと、なんでも好きだと思うよ」

「じゃあ、僕の本棚から好きに選ぶといい」

「ああ、そうする」


 会話はそこで一旦途絶えて、ジャリ、ジャリ、という音が再び大きく響いた。僕らは囁くようにしか声を出していなかったのに、その声すらもなくなって、周りの静けさが妙に際立って寒気がする。はやく、朝になってくれないか。


「お、ブランコ」

 樹が弾んだ声でそう言うと、左のほうにあった大きな木に向かって進行方向を変えた。おそらく誰かの私有地だが、そんなことはわざわざ言わない。草は伸び放題で、足元も不安定だった。樹はその中を無遠慮に進んでいき、古びたロープに吊るされたブランコにたどり着く。

 彼がロープを引っ張ると、ギッと音がなった。


「大丈夫そうだ」と彼はボロボロの板に腰かける。「アベル、押してくれよ」

「やだよ」

「なあんだ、冷たいな」

 トッと地面を蹴ると、彼は楽しそうに笑った、気がする。月明かりがあるとはいえ、暗くてよく見えない。ギッ、ギッ、とブランコが揺れる音ばかりが聴こえる。


「……楽しそうだね、樹」

「楽しいよ。こういう静かな時間に、ちょっとだけ悪いことをするのが好きなんだ」

「どうして? 不気味じゃないか」

「そうでもないよ。とても穏やかで、落ち着いた優しい気分になれる」

「悪いことをしているのに?」

「そう。この時間は、とにかく静かなのがいいんだ」

「……でも、寂しいよ」


 樹は揺れるブランコを止めてこちらを見上げた。顔が近づいたので表情がわかる。無表情で、少し、不思議そうな顔。普段、自分より背の高い人間に見上げられるというのは妙な感覚がある。というより、彼を見下ろすことに違和感があるのかもしれない。やはり、彼の雰囲気が、そうさせる。


「たしかに、優しいと寂しいは似てるな。どっちもひとりぼっちな感じがする」

 ひとりぼっち。その言葉に僕は反応した。

「――君も、そんな雰囲気を纏っているよ」

「……そうかな」


 今度はさっきよりも強く地面を蹴って、樹は大きくブランコを揺らした。するとガッと嫌な音がなって、彼の悲鳴が聴こえた。右側のロープが解けて彼が尻餅をついたのだ。僕はそれに思わず吹き出し、「グレート」と昼間笑われた借りを返してやった。樹はむすっとして、口元で小さく悪態をつく。


「これ、バレたら怒鳴られるか?」

「大丈夫でしょ。ここの子ども、もう大人になってロンドンに住んでいるから」

「そっか。それも、寂しいな」

 彼は立ち上がり、もう一度僕の前に立った。

「行こう、空が白みだしてきた」


 樹の言う通り、東の空の色が薄くなり始めていた。そろそろ夜明けだ。

 ブランコのあった場所から離れ、もとの歩いていた道に戻る。虫の声がところどころから聴こえて、鳥もさえずっている。朝の気配がする。


「アベル。俺は、スランプになったけど、写真が嫌になったわけではないんだ」

 唐突に、しかしとても自然に樹が切り出した。いつものトーンで、それでいてひどく優しく、寂しい声で彼は囁く。彼の言うように、で。


「撮りたいものがなくなって、何を撮っても気持ちが冷める。構図やシャッタースピード、絞りやホワイトバランスとかの技術的な部分は成長するのに、反比例するみたいに楽しい気持ちは減っていく。なぜか、周囲からの評価は上がっていくのに。――その矛盾に、疲れたんだ。気づいたらシャッターを切るのも怖くなった。この一枚を撮っても、その写真は自分には響かないんじゃないか、って。それが信じられなくなったらもう撮れない。だからあの国を離れたかった」

 ジャリ、ジャリ、と進む背中を、僕は黙って見守っていた。

「じめじめと首を絞めるような空気が嫌だったから、なるべく乾燥した場所を選んだ。イギリスにはアベルもいたし、気楽に過ごせるかと思って。目論見通り、ここに来てからは世界を被写体として見ることが随分と減った。きっとこれは、お前のおかげでもある。冗談ばかり言い合う暮らしは新鮮で――日本だとあまり皮肉を理解してもらえないからさ――楽しくて、自然体でいられた。きっと、それがよかった」

 一拍おいて、彼はつけ加える。

「アベルは俺を気にかけてくれたから。話しておかないと、と思って。ありがとう」


 樹は感謝の言葉を口にしながらも、こちらを振り返りはしなかった。代わりにゆったりと進めていた足を止めて、ポケットからカメラを取り出した。さっき、彼がダイニングのテーブルに置いていた使い捨てのカメラ。ちょうど東に向かって歩いていた僕らの目の前に、もうすぐ陽が昇る。彼は、それを撮るつもりらしい。カメラを構えて、ファインダーから向こうを覗いていた。彼にはいったい、そこからどんな景色が見えているのだろう。


 ゆっくり、ゆっくりと昇ってくる太陽を、僕は息を呑んで待った。この一枚を撮ることができれば、樹は新しい一歩を踏み出し、僕が彼をこれほど気にすることもなくなる。きっと、きっと。この一枚を撮ることができれば。


 音を出すことすら躊躇われる緊張した空気で、樹は息を止めていた。小さく上下するはずの肩が、まったく動いていないのだ。つられて僕も息を止めた。同時に、地平線から光の筋が、何本か射す。それに気づいた僕は慌てて自分のカメラを取り出して、樹の影を、ファインダー越しに見た。真っ白のTシャツに、焦げ茶色の短パン。服装だけ見ると、良くも悪くもただの学生にしか思えない。それなのに、この感覚はなんなのだろう。一緒にいることでしか伝わらない、彼の雰囲気。この一枚を撮れば、何かわかるのか。わかりたいと思う気持ちから、解放されるのか。


 彼の右腕に、微妙に力が入った。樹がシャッターを切る。本能的にそう思って、僕はほとんど反射でシャッターを切った。カチ。


 撮り終わって、息をついて、呼吸を再開した。そして気づいた。樹はシャッターを切っていない。さっきの音は、一人分しかなかった。

 樹はしばらくカメラを構えたままだったが、僕が困惑したままその場に立ち尽くしていると、やがて諦めるように腕を下ろした。ふう、とため息のような呼吸が聴こえ、一拍してから彼が振り返った。こちらに向けられた瞳は一度上目遣いに僕と目を合わせて、それから苦笑した。けれど口は動かなかった。彼は、何も言わなかった。ただ、悲しそうにカメラを見つめて、もう一度朝陽を、次は肉眼で見ていた。そのことで今度は僕が悲しくなって、さっきまでの行動が急に恥ずかしく思えた。


 彼のうちに渦巻く葛藤を、どうしたって僕は理解できない。彼を真似ても、彼と同じようにシャッターを切ろうとしても、彼と同じ世界が見えるわけではない。見えるのは僕が見る世界でしかなく、写真として切り取るのも、僕の知る一瞬でしかない。このカメラに閉じこめた世界は、すべて僕の時間なのだから。僕の知らない彼の二年間も、僕の知らない彼の苦悩も孤独も、写すことはできない。僕の見たものしか、カメラは写さない。


 僕はカメラを握りしめて、樹を見つめた。僕には彼はわからない。でも、きっと、そういうものなのだ。彼の目には今、煌々とした朝陽が映っていて、僕のカメラには、それを眺める彼の姿が残っている。そういうものなのだ。僕の役割は、彼の隣に立って、どうでもいい冗談を言い合うことだろう。彼と同じように写真を撮って、世界観を共有し、苦痛を分け合い、励まし合うことではない。そのために彼を追いかけるような真似は、もうやめよう。僕には、このままでも彼の隣を歩く権利が十分にあるのだから。


 そういう、ことだろう? 心の中で樹に訊いたが、もちろん現実の彼は振り返らない。朝陽を眺めたまま、呆然と立っていた。光はどんどんと強くなり、樹の影は縮んでゆく。

 空は曇っているのか灰色に近い色合いをしていて、お世辞にも綺麗と言える空ではなかった。さっきまで月が見えていたのにタイミングが悪い。これでこそイギリスだ。しかし、灰の中から漏れる朝陽はなかなか見られるものではない。夜明けというのは普段、意識してみないとわからないが意外と立ち会うことは少ない。これも、写真に収めておこう。


 カメラを構えて、僕はシャッターを切った。カチ。今度は難しいことは考えず、ただ、僕が撮りたいから撮った。ただ、それだけ。


 音に気づいた樹は振り返って、僕の顔を見た。意外そうな表情もあったが、彼は微笑んでくれた。「帰ろうか」と静かに言って、僕の方に歩き出す。とても落ち着いて穏やかで、でも寂しくて、夜みたいな気配だった。こういう彼を見ていると、なんだか夜の暗闇も好きになれそうな気がする。


 僕はカメラを右手に握って、彼の隣について歩いた。風はまだ冷たくて肌寒い。ふと、樹は半袖を着ているのに僕はパーカーを羽織っていることに気がついた。彼のほうが現地人みたいだ。確かに彼の所作や言動は日本よりはイギリスのほうが似つかわしい気がする。いっそここに移住してみてはどうだろうか、という妄想が頭をよぎったが、すぐにあり得ないと切り捨てた。


 どうやら僕らは随分と遠くまで来ていたらしく、家に戻るまでそこそこに時間がかかった。途中、樹は何度か右目でファインダーを覗いたが、そのたびに諦めて息をついていた。僕はその様子を見て悲しく思ったが、声をかけることはしなかった。その代わり、思いつくとときどき実のない話を持ちかけた。


「そういえば、樹はどこで英語を? 発音も悪くないし、何より高校の勉強だけでサリンジャーを読める程度になるもの?」

「いや、あれは勉強した。いつか海外を拠点に写真を撮りたいし、英語くらいはできていないとまずいと思って」

「海外って、どこ?」と少し期待して僕は訊いた。

「決めてない。でも、ここもいいなって思う。静かだし、アクセントも結構好きだし、何より時間がゆっくりだから」

 そう言われると、そうかもしれない。自然が近い分、そう感じるのだろう。

「なるほど。――本当に写真ばっかりだね。じゃあ、ビーチに行ってまで本を手放さなかったのは、英語の勉強?」

「いや、あれは……。俺も結構、切羽詰まってて、きらきらしたビーチなんて見たくなかったから。ちょうど空港で売ってたのがサリンジャーだっただけで、深い意味はなかったんだ」

「それにしては目立っていたよ。ビーチでサリンジャーなんて、皮肉にしか思えない」

「ああ、俺も気づいたときは相当恥ずかしかった。でもあそこでやめるのも、なんか逆に恥ずかしくて」

 樹は居心地が悪そうに頭をかいた。

「……カメラを渡したのも、嫌味とかじゃないんだ。ただ、アベルにも写真の楽しさを知ってもらえたらなって、思っただけなんだ」

 いつにもなくしおらしい態度の彼を見て、こちらまでなんだか気まずくなってきた。


「どうしたの、大人しくしちゃって。いつもはうるさいくらいに生意気なのに」

 少し躊躇いながらもそう声をかけると、樹はすぐに僕の意図に気づいた。一瞬だけ申し訳なさそうな表情をして、しかし優しい彼はこちらを見てにやりと笑った。

「お前だって生意気な口だろう」

「君よりはマシさ」

「生意気」

「はは、その調子」

 僕が笑うと樹も吹っ切れたように笑って、それからあとはいつも通りの彼だった。

 家に着くころには陽も完全に昇りきっていて、夜の暗闇と寒さは姿を消した。朝が、来たのだ。

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