Episode.1 ぼくの若紫計画(3)
「やっぱり英語を使わなくてもいいのは楽だなぁ。こんなに楽しい出張は初めてかもしれない」
そんな顔をしているとまるで気づかないイリヤが、ひとりマイペースなことを口走っている。これは本心だ。時々ニホンで仕事をしている訳だから、いい加減こちらの言語も話せたほうがよいのだが。少し覚えたとしても、一度本国に戻るとリセットされてしまうのがまた悲しいところである。
そうしていると、突然イリヤの右肩に何かがぶつかった。ヒロがもたれかかっているのだと気づくのにそう時間はかからない。相変わらず表情はないため、そこからは感情が読み取れない。だが、なんとなく不満そうな雰囲気は察することができた。
「ヒロ?」
「――塗料の匂いがする」
ぽつりとヒロが呟いた。
おそらく本日の作業で使った塗料の匂いだ。何を使うべきか材料の選定をしており、あれこれ蓋を開けまくったせいだろう。
「イリヤ・チャイカ。あの金庫に用いられている塗料とそれは違うものだよ。選びなおしをお勧めする」
と呟いた。「それほど高価でない、ただのオイルステインがいいと思う」
この鑑定士、目だけでなく鼻もいいのか。
少しだけ悔しくて、イリヤは思わず眉間にしわを寄せた。
「む……覚えておく」
「でも、いいね。俺の好きな匂いだ」
そう言うや否や、控えめに擦り寄ってくる。
――なんだい、この可愛らしい生き物は!?
混乱のあまり叫びたくなるイリヤであった。こんなとき、日本人が何と表現するか知っている。ツンデレ。ジャパニーズ・ツンデレ。そういう様式美のようなものが存在するらしいというのはイリヤもなんとなくは理解していた。
否、今の会話にそうなる要素がどこにあった。普通に、洗濯できたことを褒めただけではないか。それで「こうなる」なら、この青年、実にちょろい。ちょろすぎて将来が心配になる。
イリヤの心臓が突如高鳴ったのに、ヒロが気づいたらしい。彼はのろのろと顔を上げ、
「ねえ、ここ、うるさいんだけど」
と左胸を指して文句を言った。「ちょっとくらい大人しくしていられないの」
「大人しくできるならそうしているよ。全部君のせいだ」
「は? 好きなことは教えろって言ったのはそっちだろ」
「そこにつなげるの!? この、おばかちんが……!」
なんとなく、この数日でヒロ・ショーライという人となりが分かってきた気がする。彼の場合、「他人の感情を慮るのが下手」というよりは、「話の前後関係から、その感情が何に起因して発生したものかを想像するのが下手」なのだ。
これはもう、教育的配慮が必要な領域かもしれない。
「ヒロ。ちょっと、カップをそこに置いて」
「
ヒロは言われるがままにカップをテーブルに置いた。イリヤも同様に手元のカップを置くと、思い切りヒロの細い身体を抱きしめる。
抵抗こそしなかったが、
「苦しい」
と不服そうな声が胸元から聞こえてきた。
「ヒロ、学習してください。他人にああいう態度をとると、たいてい、かわいいなー食べちゃいたいなーと思われます。その結果どうなるかというと、こうなります」
「……」
「したがって、俺以外にやっちゃダメです。約束してください」
「……」
「返事」
「
直後に「イリヤ・チャイカがうるさい……」とぼやくものだから、そのままもう一発お叱りを受ける羽目になるヒロだった。
散々叱ったあとで、ようやくイリヤは抱きしめていた手を離す。
「まったく、心臓がもたない……」
同時にイリヤも学習した。相手は大きな子供と思ったほうがいい。子供に言い聞かせをしていると考えたほうが幾分ましな気がする。いったい己はなにをしているのだ。少なくとも、こんなつもりではなかったはずだ。
「急にどうしたんだい」
「嬉しくないの」
「嬉しいけど。脈絡なく来ると、さすがに驚くよ」
その問いかけに対し、「だって」とヒロは明後日の方向を見ながら呟いた。
「君が出張だって言うから。どうせすぐいなくなるんだろ」
イリヤは唐突に理解した。そして同時にこうも思う。
――分かりづらい。彼の思考は、とにかく、分かりづらい。
とりあえず全部自分のせいだということが分かったイリヤは、「スミマセン」とだけ謝ることにした。イリヤの脳内シミュレーションによると、それに対する彼の返答は、「謝れば済むと思っているんだ、へえ……」だ。
心の準備はいつでもできている。どんとこい。
そう思っていると、ヒロがゆっくりと口を開いた。
「ねえ」
「なに」
「今の話だと、君にならしてもいいんだよね」
え、と声を漏らしたのもつかの間。
抱き着くような形でヒロの両手がイリヤの背を滑り、腰のあたりで止まる。かと思えば、つうっと、指がいたずらするように遊ぶ。初めて事に及んだときも思ったが、いったいどこでこういうことを覚えてきたんだろう。
「もっと構ってくれる?」
――どう考えても、ほかに覚えることがあったろうに。
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