Episode.1 ぼくの若紫計画(2)
「
イリヤが帰宅すると、ヒロは先に帰宅していたようだった。いつものスリーピース姿でリビングをうろうろしているところから察するに、どうやら彼も帰宅したばかりらしい。
ややあって、ヒロもイリヤの帰宅に気がついた。覇気のない眼差しを向けると、
「ああ、はい」
と実に冷めた言葉を発する。これもわりといつもの反応である。
「今帰宅したところかい?」
「そう」
ジャケットを脱ぎながらヒロは答えた。その間、相変わらずの無表情である。
イリヤは買い物袋をテーブルに置くと、いそいそとヒロへ近づいた。我ながら不審な行動だと思ったが、当然ヒロもそのように感じたらしい。
「なに?」
と怪訝な顔で尋ねる。
「帰宅したら、なにをするんだっけ?」
その問いに、ヒロは微かに眉間にしわを寄せた。
「……、とりあえず、手は洗ってきてくれる」
「それじゃないよ。ああいや、それもあながち間違っていないけれど、俺が求めているのはそれじゃない」
む、とヒロが微かに唸る。反応からして、言われていることが何かは分かっているらしい。待っていれば答えが出るかとも思ったが、ヒロはふいとイリヤから露骨に目をそらした。
仕方なしに、イリヤからヒロの左頰にキスを落とす。
「これが欲しいなぁ。できるかい」
「……、」
数拍間を開けて、ヒロが同じ行動をとってみせた。
「よくできました。次回もよろしくお願いします」
「イリヤ・チャイカ。ここは日本だ」
「本国じゃあ当たり前のことだろ。変なの」
「君の場合は下心が見えるから気持ち悪い」
あまりにバッサリ切り捨てられたものだから、少々傷ついたイリヤである。この青年、虫も殺さぬ顔をしてけっこう口が悪い。さすがに面と向かって気持ち悪いと言われるとは思っていなかった。
「ヒロ、それは言い過ぎ」
「別に。いいから、ほら。着替えてきてよ。洗濯するから」
どきりとしてイリヤが顔を引きつらせたのを見て、ヒロはさらに機嫌が悪そうに彼をねめつける。
「なに」
「時間かかるだろ。あとで俺が――」
やるから、と言おうとしたが、その言葉は結果として紡がれることはなかった。イリヤの言葉を制止するように、ヒロが人差し指でイリヤの唇に触れたためである。
「いつまでも莫迦にしないでくれる」
***
少し驚いたのは、数日前まで洗濯機を使えなかったヒロが、ちゃんとそれらを使いこなしたところである。
夕食ののち、ベランダに洗った衣類を干しているヒロを眺めながらイリヤは考えた。先ほど別件でランドリールームに入ったところ、本国の言葉に訳した洗濯機の説明書が放置されていた。今日の成果は、もしかしたら単純に説明書を読んだからかもしれない。
手元には温めたカップが二つ。コンロではヤカンが湯気をふりまいている。ガスの火を止めながら、そういえばとイリヤは思う。
「なんでわざわざ本国の言葉に訳してあるんだ……?」
別にヒロなら日本語のままでも十分だろうに。なにせ自国の言葉で書かれているものなのだから。あれこれ考えてみたが、もしかしたらヒロが自分に気を遣って訳してくれたのかもしれない。
そうしているうちにヒロが戻ってきた。
「ありがとう。少し座っていなよ」
「
ヒロは洗濯籠をランドリールームに置きに行き、その後リビングのソファへ腰かける。ただ籠を置きに行くにしては時間がかかっていた気がするが、イリヤは特に気にしないことにした。
しばらくして、イリヤが紅茶を入れたカップをふたつ運んできた。そのうちのひとつをヒロへ差し出す。
「どうぞ」
「どうも」
それを受け取ったのを確認し、イリヤもヒロの隣に座った。
「完璧。すばらしい」
「洗濯機、怖がらずに使えばよかった。すんごい楽だった」
ヒロは淡々と言う。「中東のほうだったか……、出張先で試しに洗濯機を回したら火を噴いたことがあってさ。以来ちょっと怖くて」
「ああ……あれってそういう意味だったの」
たぶん、それはなかなかにレアな経験だと思う。初めからそう言ってくれればよかったのに。おそらくヒロはそういう微妙な話をしたくなかったのかもしれない。
「ここにあるのはレンタルのものだけれど、比較的新しいから火は噴かないよ」
それと、とイリヤは続ける。「説明書、俺に読めるようにしてくれてありがとう」
それを聞いたヒロがぱっと顔をあげた。珍しく慌てた様子で、
「あ、ええと。違――」
「せめて英語にでもしてくれたらと思っていたからね。ニホンでも本国の表記が広まればいいのに。もれなく俺が助かる」
ヒロが何か言いたそうに口をぱくぱくさせたが、やめた。
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