アクアリウム 愛の逸脱短編集

依田一馬

Episode.1 ぼくの若紫計画(1)

 今まで生きてきた中で「これはもうだめかもしれない」と何度も思ったことがあるが、はその中でも群を抜いている。考えることを放棄できるならそうしたい。だが、それは決して許されないことだろう。どうしよう、一体どうしたものだろう。


 イリヤ・チャイカは思わず眉間に皺を寄せ、小さくため息をついてしまった。


「……あのね、ヒロ。何度も言うようで悪いんだけど」


 イリヤの目の前には、なぜか風呂場で水浸しになったヒロ・ショーライがいた。その手元には洗面器と濡れた衣類。あたりに漂うは甘い花の香り。――洗濯用洗剤によるものだが、どうにも過剰な芳香がする。


 ヒロはぽかんとした様子でいたが、ややあって、


Да.はい

「洗濯機、使っていいんだよ……。それと、たぶん洗剤の使用量が間違っている。大体にして、なんで全身濡れているんだい」

「蛇口とシャワーヘッドの切り替えを間違えたから」

「Oh……」


 一応現代に生まれておきながら、文明の利器に頼ろうとしないのはどうかと思う。

 そんなぼやきを前にし、ヒロはふむ、と短く唸った。


「火を噴いたりしない?」

「しないよ。接続が間違っていなければ、火なんかそうそう上がらないよ。どうしてそういう発想になるの」


 君、普段はそれなりに機械類を使いこなしているだろう。なんで変なところでアナログになるんだい。

 そう言いかけたところで、やっぱりやめた。どうせ言ったとしても、本人には少しも伝わらないからだ。


***


 事の起こりは二週間前まで遡る。

 名の知れた贋作師であるイリヤ・レナートヴィチ・チャイカは、依頼の都合でたまたま訪れた日本にて、美貌の青年・松籟しょうらいひろと出会った。


 普通そんなフラグが立たない場面で何故か彼に一目惚れしたイリヤは、持ち前の自由さ(自分勝手とも言う)を発揮し、何としても彼のことを手に入れようとしたのだが、――実はそんな努力をせずともよかったことが発覚。色々あって、滞在中利用しているマンスリータイプのマンションに彼を連れ込むことに成功したのである。

 完全勝利を決めたイリヤ・チャイカ。

 だが、このときのイリヤはまだ気づいていなかった。


 この松籟浩という男、まったくもって生活能力がなかったのである。


***


 ――別に、彼にそういうことをしてほしい訳ではないのだ。


 イリヤは仕事帰りに近所のスーパーへ立ち寄り、夕食用の買い出しをしていた。一時滞在とはいえ毎回外食というのが性に合わないイリヤは、余裕がある日は自炊をすることを常としていた。


 どのみち何食か余計に作るので、ひとり増えたところで何も変わらない。むしろ自分の我儘でマンションに滞在してもらっているのだから、これくらいはしてやらないといけないだろう。これが表向きの「いい訳」である。


 もちろん、裏の「いい訳」もある。


 そもそも、ヒロ・ショーライへ求めるものは「己とパートナーになってほしい」ということだけである。決して召使のように自分の世話をしてほしいとは思っていない。むしろ尽くすことに喜びを感じる性分であるイリヤからしてみれば、「逆だ、逆。頼むからお世話させてください」が正しい。


 ところが、肝心のヒロがそれを嫌がったのである。

 本人曰く「緩やかなを送るにあたり、何もしないのはさすがにどうかと思う。別に俺は召使はいらない」とのことだった。


 たまたま先週までヒロが休暇を取得していたということもあり、渋々「本人がそうしたいのなら……」とイリヤはいくつか家事をお願いしてみることにした。

 すると、洗濯機をろくに使えない(今までは全てクリーニングに出していたらしい)、料理も難あり(通常外食が十割とのことである)、唯一まともにできたのは掃除だけ(愛する人形ドールたちのため!)ということが判明したのだ。


 なるほど困った、とイリヤは思う。自分もその気があるが、ヒロ・ショーライはエレホン年間売上首位を独走するエリートで、それなりにプライドが高い。ここで「全部自分がやるからいい」と言ったら最後、変に機嫌を損ねる気がしてならないのだ。


 難しい。あの男の気持ちは、女の子の気持ちを慮るよりもはるかに難しい。


 だが、よくよく考えてみてほしい。

 要するに今のヒロの状態は、何者にも染まっていない「完全に真っ白な状態」ということだ。誰かに尽くすことも得意だが、そういう真っ白な状態から自分好みに仕立て上げるのも悪くない。


 それって最高じゃないか――!?


 黄色く塗られたやけに目立つシール――赤い字で三十パーセント引きと書かれているが、イリヤはその意味をあまり理解していなかった――が貼られた精肉を手にしながら、イリヤは何故か妙な使命感を抱いていた。

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