梅雨
水無月 麓
梅雨
1ミリも動こうとしない湿気た空気。満員電車のようにぎっしり詰まった雲。私はただ一人、そこから吐き出された雨がパタパタ音を立てて地を打つ様子を見ていた。
時はすでに8月。例年通りならば、世間は夏真っ盛り。テレビはみなお出かけスポット特集。人々はうだるような暑さに苦しみながらも、夏休みの計画に胸を躍らせる。そして私は夏休みもろくに取れず熱中症になりかける、そんな時期だ。
にも関わらず、今年ばかりはずっとこんな調子なのである。
この地はもともと、他所より少しばかり梅雨が長い気候ではあった。7月頭まで梅雨が続くのは普通のこと。しかし、ここまで長いのは珍しい。少なくとも、私の四半世紀の人生の中で、8月半ばまで太陽とご対面しなかったのは今年が初めてなのだ。
私は正直、夏があまり好きではない。真夏の太陽は暑いから嫌いだのと何回も言ったせいで、職場では私の文句が夏の風物詩になっているくらいだ。
ところが、嫌よ嫌よも好きのうちというのか、嫌悪の対象もしばらく見られないと恋しくなる。
あの私がそこまで思うんだからそろそろ晴れてもらってもいいと思うのだが、外は相変わらずの雨模様。私の太陽嫌いがこの梅雨の原因ならば、誠心誠意謝罪するか、神頼みするしかあるまい。
そうして神頼みを選択した私が天に願いをかけていると、呆れた様子の先輩に肩を叩かれた。
彼は書類のコピーを一枚私に寄越し、うんざりした様子で肩をすくめる。
「この天気には困ったもんだな」
「本当、嫌になりますね」
自然と返答のトーンも暗くなる。神様によろしく言っといて、と先輩は立ち去った。私は了承の意を伝えて紙を手に取る。実際に神様が居たらの話だが。書類は、今月の人の出入りと作物の輸出入表である。
私は入国管理ーーと言っても、ただ住所と名前などを書いてもらうだけなのだがーーを仕事としている。それ故、一日中座っているだけでも、気候が国に及ぼす影響くらいはなんとなく感じることができる。なぜなら、人や物の出入りは天候に左右されやすいからだ。
日照不足になれば作物は育たないし、雨が多ければ観光客も減る。前々から予想はしていたが、データの答えもやはりそうだった。行き来する人も作物も、目に見えて減少している。
このままでは財政が危ないかもしれない。いや、大雨で町が消滅するほうが早いだろうか。どちらにしろ、大切な祖国が雨のせいで消滅、なんてとても洒落にできない。
唯一持っている暇という武器で、解決策でも考えたほうが良いのだろうか。
そうしてぼんやりしていたものだから、外から手が伸びてきた事にはひどく動揺してしまった。小さい手がぬっと視界に現れ、外とつながる窓の桟を叩いたのだ。人に応対するのが仕事であるというのに、突然のことに驚いた私は慌てて窓の下を覗き込む。みっともなく声が裏返った。
「はい、な、なんでしょう」
「とおらせてください」
慌てたと言えども、サラッと応対の言葉が出てしまうのは一種の職業病かもしれない。この調子で、気がついたら幽霊を通してましたなんて事があったら怒られるのだろうか。
それはいいとして、今回ばかりは人間であるらしい。声と手の正体は、一人の女の子。背は窓に届かないくらい。私が見つめると、こっちを見つめ返してにっこり笑う。初めて見る顔だ。もっとも、多くの人を見すぎて忘れているだけかもしれないが。
私はとりあえず業務を全うしようと、紙とペンを差し出してやる。子供でもお客様であることに変わりはない。
「じゃあ、この紙を書いてください」
「はーい」
以外にも、少女は危なげなくペンを持って字を書き始めた。いっぱいに背伸びして、なんとか机の上でペンを動かす。見たところそんなに乱れていない。暗号解読の必要は無さそうでホッとする。
どうやら彼女は見た目よりかなりしっかりしているらしい。最近の子供は発達が早い、というのは本当なんだなと納得する。
少し気になって、年はいくつかと尋ねたら、レディーにとしをきくもんじゃないわよ、と返された。たどたどしい話し方なのに大人びた事を言うものだから思わず笑いが溢れる。
疲れていると何でも面白く思えるとはよく言ったものだが、今思えば、この時何も考えずに馬鹿笑いしていたのが恥ずかしくてたまらない。こんなに注意を怠っていたのがバレたら、幽霊を通した通さないより確実にお叱りを受けるだろう。
一通り笑ったところでようやく、私は『ある違和感』に気がついたのだ。
彼女、あまりにも背が小さすぎやしないか?
基本的に私達は座って仕事をしているので、窓の高さは室内の机と同じくらいになっている。せいぜい私の腰より少し下くらいだ。
しかし、彼女はその窓にやっと手が届くぐらいしかない。普通に喋る年の子供はたまに来るが、目だけのぞかせて私をじっと見ているか、無理に窓によじ登ろうとしてこっちがヒヤヒヤするかのどちらかだ。つまり、背伸びなどしなくても目が合う。この少女の大きさでは、歩き始めたばかりの幼児と言ったほうがいい。
それに、彼女の周りには誰もいないじゃないか。親に記入を求めなかった私のせいではあるが、国境を超えるおつかいなどさせる親はまずいない。一人で勝手に来たのならば、一体どうやって?向こうの街からはかなりある。彼女の親はどこにいるのだろう?
……そして、彼女はなぜこんなにうまく字が書けるのか?
気になることは枚挙に暇がない。私にはなんだかーー非常に馬鹿馬鹿しくはあるのだがーー彼女がただの少女ではない、それこそ何かが少女の皮を被っているように見えて仕方がなかったのだ。
さすがに飛躍しすぎた発想であるため、大真面目に、人間じゃないですよね?などと聞くわけにもいかない。考えに考え、私は少女に問うた。
「ねえ、あなたのお母さんはどこ?」
私の緊張は知らんぷり。少女は、凄いでしょ、とでも言いたげに顔を綻ばす。
「おかあさんはね、あめをふらせてるの」
「…えっ?」
雨を降らせている?
そもそも、雨とは故意に降らせるものではなく、自然現象として勝手に降るものだ。意思で天気が変えられるのなら、私はとっくに梅雨を終わらせているだろう。そうすると、彼女の親は雲だとでも言うのだろうか。ならば彼女は水蒸気?いやいや、それはない。ペンを持っているし、実体があるもの。
謎は深まるばかりだ。私はこの怪奇を理解しようと頭をひねる。そんな私をよそに、少女はサラサラといい音を立ててペンを走らせる。二人を包む雨の中、他に音はない。その静けさが、奇妙な状況を加速させているようにも思える。
その数秒の後。ペンを置く軽い音。机の上には、まるで大人が書いたかのような記入表が出来上がってしまった。
「おねがいします」
もう一度、ひまわりのような笑顔がぱっと咲いた。少女は、呼び止めようとした私の手をすり抜け、くるりと踵を返し、ワンピースを揺らして駆け出す。あっという間に町の方へ走り去っていく。まるでアニメの女の子。映画のワンシーンみたいだった。
私はその背中に精一杯呼びかける。
実のところ、怒られるかどうかではなく、彼女の正体を知りたい一心だったのだ。
「待って!」
少女がこちらを振り向く一挙一動が、スローモーションのように緩やかに動く。雨粒が、微かな光を受けて輝く。少女が、笑う。
この時、私には確かにこう聞こえた。
「おまたせ」
あの言葉は何かの呪文だったのかもしれない。
次の瞬間には、さっきまでの雨が嘘だったかのように、突如として雲が消え去ってしまったのだ。
こんな事があるものか。夢を見ているような気分で見上げると、突き抜けるような青空の眩しさと、爽やかな積乱雲。強く清々しいコントラストが目に痛い。久しぶりの日差しが降り注ぐ道にはもう、少女の姿はなかった。
視線を落とすと、彼女が書いた記入表の名前欄に、『夏』と一文字だけ記されている。
ようやく、この国に夏がやってきた。
梅雨 水無月 麓 @fumotojune
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