第7話
「初めまして、僕は___」
「名前はいらない。要件だけを」
その言葉を最初に聞いたときには面食らった。一体何だっていうのだろうか。
「失礼した。私は人の名前を聞きたくないんだ。もし知ってしまったら、私は公正な判断を下せないかもしれないからね」
「……どういうことですか?」
彼女はそこで目を開けた。普通の人のような目をしていたが、よく見ると、真ん中が少し茶色がかっていて、そこが印象的だった。
「たとえば、君の名前が佐藤太郎だったとしよう。ある日警察が『佐藤太郎について何か知らないか』と聞いてきたとする。そのとき私は、私情を挟まずに答えたい。だから、君という人間と、佐藤太郎という人間を結びつけたくない。そういうことだ」
要するにこれは。笹谷有紀がお人好しということを示す一面だと、今の僕は知っている。
「……わかりました」
でも、そのときはわからなかったので、僕は端的に同意して、話を進めた。
「校庭にミステリーサークルが作られていたのはご存じですか?」
僕がそう話を切り出すと、彼女はため息をついてから頷いた。
「教室丸々一つ分の机を使って作られた巨大な円のことだろ? 朝からその話題でしか話しかけられていないから、君もその手かと思っていたが……やはりか」
この時の僕はかすかに驚いていたが、既に笹谷有紀は、同級生や顧問の先生など、近しい間の人たちの中では、探偵としての名をあげていたようだった。事実僕も、彼女のことは、文芸部の顧問の先生から聞いたのだ。
「言わせてもらうがね、私にはわからないよ。あんなものは」
「それでは困りますよ。名探偵」
「私は探偵なんかじゃ無い。ただの小説家だ」
今では当たり前になったこのやりとりも、当時の僕はかなりいらつきながら進めていた。こんな高慢ちきな相手が名探偵? 笑わせるなと。でもそう言った気持ちを表情に出さないのは、この頃から得意だった。僕はにこやかな笑みを絶やさないまま、彼女に言った。
「ではミステリーサークルを作ったのが陸上部ではないかと疑われているのはご存じですか?」
「……何?」
彼女はそこで眉をひそめた。内心ではかかったと思ったが、声には出さなかった。まだまだ気は抜けない。
「全くひどい話ですよ。前日最後までグラウンドを使っていたのが陸上部だからって、ひどいこじつけだ。でも僕にはこの事態をどうすることもできませんし、あなたはこの事態をどうする気も無い。だからこの件はどうしようも無いということで……」
「待て」
予想通りの返答だったのに僕は驚いた。笹谷有紀の声が、あまりにも鋭かったからだ。ほんの一瞬ではあるが、確かに命の危険を感じた。そういう類いの声だった。
彼女の顔は、決して怒っているとか、悲しんでいるというわけでも無かった。ただ目をつむって、ただ唇をかみしめていた。
「……わかった。協力しよう」
笹谷有紀が表情を元に戻して話し始めたときには、その鋭さは無くなっていた。
「……ありがとうございます」
僕はほっとしながら笑った。
「しかし条件がある」
そこで彼女が告げた条件は、今でも覚えている。
「一つ、事件関係者の名前を私に告げるな。
二つ、証言などの情報は、私に直接伝えて、その後にレポート形式にまとめておくこと。
三つ、面白くない推理はボツにする」
「あの、最後の三つ目だけよくわからないのですが」
面白くない推理はボツ。全くもって探偵らしからぬ、下手したら狂気的にとも思われてしまいかねない。
そこで笹谷有紀の言った言葉を、僕は今でも覚えている。
「何を言っているんだ。私の推理はあくまでも小説家のものだ。面白くないものはボツに決まっている」
その瞬間、こいつは本当に、骨の髄まで小説家なんだなと、そう思った。
結局この事件は、佐々木という三年生が、部員勧誘のために画策した、大がかりな悪戯だということで決着した。それからというもの、笹谷有紀の下には、そう言った事件の依頼が(僕から)持ち込まれる。そうやっているうちに彼女と僕は親睦を深めていき、今のような関係に至る。
今では、最初の頃に感じた不快感も無く、むしろかわいげのある点として見ている。そして、そう言った点が、彼女の優しさなのだとも、僕は知っている。笹谷有紀は誰よりも聡明で、そして誰よりも優しい。
______________
「お?」
部室棟からでたら、聞き覚えのある声がした。後ろを振り向くと、そこには美術部の部長がいた。右手には文化祭委員にのみ配られる冊子を持っている。美術部長は装飾部門の委員長なので、後輩たちに指示を出してきた後なのだろう。
文化祭委員はいくつかのパートに分けられている。装飾部門はその中の一つだ。委員会が同じ関係もあってだろう、今回事件の解決を依頼してきたのは美術部長だ。だからといって容疑者から外すわけでは無いが。
「調査の調子はどうだい?」
「まずまず、といったところでしょうか」
そう言いながら僕は、この人にどこまで情報を開示していいか考える。
「……実は悠斗くんが嘘をついている可能性が出てきたんです」
「本当か?」
僕が頷くと、美術部長はため息をついた。
「そうか……。最後の一つが埋まらないからって、担当を振ったのが間違いだったかもな」
「そもそもあの絵は彼の担当なのでは?」
悠斗くんからも「そんなところです」という風に聞いている。
「ああ……うちは元々、部員が四人だったんだ。だから一人につき一パート、絵を描くのを担当しようという話になっていたんだ。でもその部員がやめてしまってね。そこで悠斗に代わりを任せたんだ。でもなかなか悩んでいたようだったからね」
ここで初めて動機につながる情報が出てきた。もしも彼が盗んで、あるいは隠して、文化祭終了まで乗り切ろうとしたのなら、一応筋は通る。いままで委員会で関わってきたからわかるが、美術部長はそれなりに有能で、選択が上手い。弱小な自分の部活よりも、文化祭が開催できることを願う人だ。そのために笹谷有紀に依頼したのだろうが、少し悲しい。
「佐々木先輩、ちょっといいですか?」
そのとき、美術部長に声がかかった。みると文化祭委員のようだ。
「ああ……。じゃあまたな」
そう言うと美術部長は、元いた方に戻っていった。
「……僕も文化祭委員の仕事しなきゃな」
思わぬところで、そんなことを思い出した。
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