少女は「まるでカタツムリみたい」と心の中で思った

 ツン、とホコリとカビの匂いがした。夢うつつの少女は、少女の母が掃除をするのを諦めている、書斎を思い出した。少女が「どうして、その部屋は掃除しないの?」と訊くと少女の母は「驕りと耽美の匂いがするでしょう?」なんて、意味深な返事をする。どうやら少女の母は時間の積もった部屋から、見えないものを見ているのだ。と少女は童心ながら感じていたのだろう。だから、今、こうしてホコリとカビの匂いを前に、どこか懐かしい気持ちを覚えた。


 しかし、それは、それとして。


「……なんか、クサイ」

「魔女というものは、必ず、こういう書籍を残す。

 自分が死んでも、その研究が世界に根をはるようにね」


 少女が呟くと、老いた女の声が少女の背後から聞こえた。少女は今までぼんやりとしていた意識を覚醒させ、あたりを見渡す。そこはやはり、書斎だった。視界の隅から隅まで本棚が整列していて、天井には白い蜘蛛の巣が張っている。けれど、立っていたのは本棚だけではなかった。


 少女の視線の先には白髪の老婆が立っていた。老婆とは言っても杖はついておらず、背筋は杉の木みたいにピンと伸ばしていて、まるでお化けのようだ、と少女は判断した。


「何ボケっとしてんだ。アンタ、ちゃんと話を聞いてたのかい?」

「私は森の中で眠っていたと思うのだけど、おばあさんがここまで連れてきてくれたの?」


 少女が質問をすると、老婆は顔を真っ赤にした。そうして老婆は少女に大股で近くと、二本の枯れ枝みたいな両手で少女の頭をガシリと掴むと、ジロリと少女の目を見た。


 いや、そう描写するのは少し穏やかすぎるかもしれない。老婆は怒り心頭で、少女に大股で近づいて、二本の枯れ枝か、悪魔のように細い腕が、少女の顔をがっしり掴んで、逃げられないようにして、品定めするように、ギロリと少女の眼を観察していた。


「いいかい。アタシは『ちゃんと話を聞いてたのかい?』と尋ねたんだ。それなら、『はい』か『いいえ』で答えなきゃいけない、そうだろう、そうだろうねえ。ねえ、アンタ。私が何かおかしいことを言っているかい? 誰だってわかる、会話のルール、マナーの話だよねえ?」

「……ええ、私もそう思う。あなた様は全部正しい。失礼しました。

 そして、さっきの答えはもちろん『イエス』

 ちゃんと聞いていましたわ。ディアー」

「ふん、そうかい」


 少女の演技っぽい態度に目の前の老婆は少し不満に思ったのか、鼻を鳴らす。それから老婆はパッと少女の頭をつかんでいた両手を離した。解放された少女は誰にも聞こえないように、ゆっくり、小さく深呼吸をし、そうして「とりあえず一難去った」と安堵する。


 しかし、それと同時に少女は憂鬱に思った。

 自分の母の方向音痴は、忘れっぽくなっても健在だったのだ。自分の目の前にいる老婆が心優しい南の魔女なはずがない。目の前のあれは怒りっぽい北の魔女だ。お母さんは南と北を間違えたのだ。


 ——それじゃあ、今から引き返して、正しい方角へと進む?


 少女は自分の心にそんな問いを立ててみるが、その答えはノーだった。質問に答えないで質問してしまっただけであんなに激怒するおばばさんが、そんなことを聞いたら雷が落ちるだろう。比喩じゃなくて、きっと魔術で本当にやってしまうのだ。


 老婆はふん、とまた鼻を鳴らして書斎の奥へと消えようとしていた。しかし、そうしてしまうと、少女は困る。少女にはしなければいけないことが、たとえ後ろ姿を見せるあの魔女が、怒りん坊の北の魔女だったとしても、少女には目的があった。少女は声を上げる。


「ねえ、魔女さん! 

 私、病気のお母さんのために魔法少女にならなきゃいけな——」

「弟子はとらない主義だよ!」


 少女の言葉を遮るように老婆は返事をする。その頑固な態度! まさにこの目の前のおばあさんは北の魔女に違いない、と少女は確信する。それにしても老婆は、最初から少女が魔法少女になるために、ここへやって来たのがわかっていたみたいだった。


 少女は魔女の頑なな態度に真っ向から対立して、頭を下げたり、腕を引いたり、足を引っ張ったり、しがみついたりして、老婆へ弟子入りを懇願した。けれどもそれはますます老婆を怒らせるだけだった。「いやだね!」とか「泣いたって無駄だよ!」だなんて。


 少女は、はてさてどうしたものか、と頭を悩ます。すると少女は自分のカバンの中に、金色に輝くアプリコットジャムがあることを思い出した。少女はカバンからジャム取り出すと、魔女に差し出した。


「これ、うちのお母さんが作っているジャムなの。

 これでなんとかならない? なる? 無理?」


 少女が魔女の前にアプリコットジャムを渡すと、魔女はふと足を止めた。そして魔女は、少女の方をさっきと同じような目つきでギロリと見ると、少女の手からジャムを取り上げて、今度はそちらをジロリジロリと観察した。目が飛び出ちゃうんじゃないかってくらいジロジロ見るから、少女は「まるでカタツムリみたい」と心の中で思った。もちろん、口には出さなかった。


 しばらくの沈黙が訪れた。魔女は少女の瞳と、アプリコットジャムを交互に見つめた。魔女は自分の目の前にいる少女に、どこか懐かしい気持ちを覚えていた。そして、その理由、そして今までの経緯を察すると、魔女は目の前の少女を自分の弟子にしようと決める。


「いいだろう、それで手を取ってあげよう」


 その一言を聞いて、少女は思わず手を叩いて喜んだ。

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