第61話-「絶対、帰って来いよ」①
「優月! 優月っ!」
ゲートの前は出国を控えた多くの人で溢れていた。背の高い外人や、親に手を引かれた幼児など、そこら中で人々が往来し、その中を篤は声を上げて進むが返事はない。
まさかもう飛行機に……。そんな諦めが頭をかすめた瞬間だった。
向こうの窓際で、ジェット機を眺めながら小刻みに揺れるお団子頭が見えた。
篤は人を掻き分けてその少女に進む。
見覚えのある後ろ背と、一緒に買ったイルカの髪留め。お気に入りだと話していた白ニットのワンピースと両耳には以前ランニングの際にしていたピンクのイヤホン。
「優月……。おい、優月!」
優月は気付かない。明るめなトーンの曲を漏れるほど大きく流し、遠く窓の外を見つめながらビートに合わせてやんわりと身体を揺らしている。
篤はため息をついて右首筋に手を伸ばし、
「おい、さっきから呼んでんだけど、聞こえてないみたいだからこれ外すぞ」
イヤホンを引き抜いた。
優月は突然のことにびくっと肩を跳ね上げて振り向くが、
「ひゃっ……! ――――え、嘘……、でしょ……」
ぽかんと開いた口から一言溢すと顔を歪めて後ずさる。少しずつ距離をとろうとする優月に、篤はそうはさせまいと手首を掴んで自分の前に引き寄せた。
全面の日差しの中で二人は静かに向き合う。先に口火を切ったのは篤だった。
「ちょっとくらい周り見ろよな。さがしたんだぞ」
「な……、なっ、なんで、ここに……」
「それはこっちの台詞だ。なに勝手に行こうとしてんだよ」
「それは……、だって……、会っちゃったら……」
ただそれだけ言っただけなのに、見つめ合った大きな瞳には瞬く間に涙が溢れてきた。
優月は目尻にたまった涙をしばたかせて、懸命に引っ込めようとする。しかしその努力も虚しく、溢れた感情は一つ、また一つと頬を滑り落ちていった。
必死に言葉を紡ごうと優月は声を出してみるが、震え、高なり、声にならない。
そんな声を殺して喘ぎ泣く優月にとうとう篤は我慢ができなかった。軽く舌打ちを放つと繋ぎ止めていた腕を引き、背中に手を回す。絹のように繊細でつやめく優月の髪に指を通し、頭を自分の胸にあてて抱きしめた。
「俺だって同じだ。優月がいなくなるのは辛い」
きつく縛っていたものを丁寧に紐解くように、篤はこみ上げてきた感情を抑えながら、冷静に言葉を送り出す。
「手紙、読んだ。俺も優月のことが好きだ」
心を荒く支配する感情を、知ったばかりの想いを、篤は偽りなく伝えようとしていた。
「もう嫌なんだ。大事な人を失いたくないんだ……」
しかし、冷静になれたのはほんの数秒。口に出していくことで、篤の心にとどめてある感情はみるみるくっきりとした形をとっていく。優月を抱く腕は力を帯び、吐き出す声は震える。
「嫌だ……。やっとわかったんだ……。好きだ。俺だって一緒に――」
そこまで言いかけた時だった。優月はか細い指で握っていた篤の胸元を、両方の手の平に優しくあてて、ゆっくり押し離す。
そして、
「似合わなっ!」
こぼれる涙を拭きとって笑う。
「……ん、な?」
「なに呆けてんのよ。似合わないって言ったの!」
「似合わないとかじゃなくてよ! 今そんなこと――」
篤は突拍子もなく陽気に微笑んでみせる優月に怒鳴りかけるが、なにかを堪えるように震える彼女の両手に気付き、それ以上何も言えなかった。
「嬉しいよ。嬉しいけど……あたしはもう行かなきゃいけないんだ」
完全に次の言葉を失った篤に優月は優しく語りかけると、わざとらしく、そして可愛らしくため息をつく。
「あーあー……。だから会いたくなかったんだよね。また行きたくなくなっちゃった」
篤は心を落ち着かせながら奥歯を噛みしめた。無理に優月が笑っているのがわかる。
伝えたいことが山程あるのに、目の前にいるのに、その笑顔はあまりにも遠くて、霞む幻影に手を伸ばしているようだった。
言いかけて、でも呑みこんで、そんなもどかしい篤の姿に優月はどこか儚げに微笑んだ。
「ごめんね。篤の気持ちを振り回して、こんな形でさよならなんてさ」
「……謝るなよ。そんなの最初から決まってたことじゃねえか」
「でもさ……、やっぱりごめん。あーあ……、もっとテキトーな人と付き合えば良かったな。そうすれば今こんなに辛い想いしなくてよかったのに。篤も迷惑だったよね?」
「そんなことない。俺は良かったと思ってる」
「本当に?」
「ああ。優月で本当に良かった」
「篤のばか……、今日素直すぎる……。最後くらい、いつも通り無愛想に見送ってよ……」
また優月の瞳は潤み始めた。
「普段通りにいられるわけねえだろ。もう頭の中ごちゃごちゃなんだよ。優月は行っちまうし、クラスの連中にはいろいろ教えられるし、轟と中野には泣かれるし、そんでもって……優月のことを愛してるって……初めて誰かを好きになってる自分がいる。どうしてくれんだよ」
「ばかばか……それは無し……。今そんなこと言われたら……」
「今じゃねえと言えないだろ」
言って篤はもう一度優月を抱きしめた。
篤の胸元に優月の涙が滲む。その熱さは残すことなく心臓に染み入った。
「なあ優月……俺さ、優月が帰ってくるまで――」
「だめ……」
まだ言いかけ途中なのに、優月は篤の言葉を遮った。
「だめだよ……。あたしを待っちゃだめ……」
しかし、篤の言いたいことは伝わったらしく、優月は顔を向き合わせると溢れる涙をそのままにくしゃりと笑った。
「あたしがどうなるかなんてわからない。それにそんな約束しちゃったら、篤は変に律儀なとこあるから新しい女の子つくらないでしょ? だからね、ちゃんとさよならしよう? あたし達の期間はこれで終了なんだよ」
「そんな……。そんなのって――」
篤が訴えかけようとすると、それを遮るように優月はつま先を立てて篤の正面にいっきに顔を近づけた。そしていつか見たような奇怪な笑顔を作りだす。
二人の距離はもう拳すら入らないほどで、篤の口元には優月の甘い吐息がかかり、思考は停止する。
すべてがフラッシュバックするその一瞬。互いの唇が触れ合うというその刹那。
しかし、優月の唇がとらえたのは篤の頬だった。
右頬に溶け落ちそうなほど熱い感触が走り、目を見張る。
「はい、これで契約解除」
やはり優月はあの時と同じく無邪気に笑った。
「ふふっ。口にすると思った? しないよ。したら満足して本当に死んじゃう気がするから」
「ったく、おまえってやつは……」
「だから、おまえは無しって――あ、いいのか。そっか。もう篤はあたしの彼氏じゃないんだもんね。無理に名前で呼ばすことも……ないのか……。自分でそう言ったのに……。これはこれで……きついね……」
優月が切なく笑うとアナウンスが鳴って搭乗の合図が流れる。別れの時はもうそこまで迫っていた。
「そろそろ行かなきゃ……」
「そうか……。ああ、そうだ」
篤は思い出したようにバッグからみんなに頼まれていた色紙を取り出して手渡す。
「みんな、また遊びに来いって言ってたぞ」
「うん……。うん……。嬉しいなぁ……」
ひとつひとつのメッセージに目を配りながら、優月はしみじみとうなずいていた。
「あと、俺はこれを……」
篤はポケットから一枚のメダルを取り出す。それはあのメダルだった。デートの最後に優月の死を映しだしてしまった、本当だったら思い出の品になるはずだったもの。
篤はそれを親指で弾いて空中で受けると、結果を見ずにそのまま優月の手に握らせた。
「ゲート越えたら見てみろよ。表が出れば優月の手術はきっと成功する。というかそういうふうに魔法かけてやったんだ。大事にしろよな」
不思議そうな顔をする優月に篤は黙って笑うと、ぽんと頭を撫でて「勝てよ」と一言溢す。優月は少し恥ずかしそうに、でも力強く微笑んだ。
「そうだ。じゃああたしからも……というか手紙と一緒に入れたんだけど、気付いた?」
「ああ。写真……だよな?」
轟きを通してもらった優月の小可愛い封筒には手紙の他に一枚の写真が入っていた。それは初めて会った日の中野に撮られた例の写真。二人に残されたたった一つの思い出の品。
「あれがスタートだったんだよね。ねえ、篤。あの時、あたしのことどう思ってた?」
「許されるなら殴り飛ばしたかった」
「だよね……」
「もう今はそんなこと思ってねえけどな。逆にああしてもらってよかったのかななんて……ばかみてぇだ」
「ほんと……ばかみたい。でもそんな想いができて良かった。ありがとね、篤」
晴れ晴れとした笑顔を見せる優月に篤も思わず微笑み返した。
「ねえ、篤。今、鼻の付け根痛くない?」
「なんでだよ?」
「あたしね。よく泣くの頑張って堪えることがあるんだけどさ、涙を我慢すると鼻がきゅーって痛くなるんだよ。」
優月は鼻の頭を押さえて、無邪気に微笑む。
「今すっごく痛い。痛くて痛くて……涙が出ちゃうよ……」
優月の頬を涙が伝い、それを必死に塞き止めようとしているが、もう不可能だった。
そんな最後まで強情な優月に篤は笑って肯く。
時間が来て、二人を繋いでいた手は離れ、優月はゲートにむかっていく。
そして入りきった所でメダルを握っていた手を開くと、優月は吹き出して笑い、篤に振り向いて唇を動かした。
篤も笑って返事をする。あの時に母親に言えなかった言葉を、本当の自分の想いを、そして優月への願いを、篤は残さず声にした。
「――絶対、帰って来いよ」
最後に優月に会えたのはたった数分のことだった。
でもそれは永遠のように、されど一瞬のように、篤の胸に鮮やかに映える。
結論として、篤はまた止めることができなかった。涙を止めてやることもできなかった。
けれど、優月は満面で笑って旅立った。
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