第47話-「優月から手を引いてくれ」②

「……よお」

「うわぁ! きょうはあっくんもきてくれ――どうしたの、そのおかお?」

「いや……、まあ……、ちょっとした喧嘩だよ」


 七階、小児病棟フロアの奥。隔離区画への重い扉を開き、病室の戸から顔を出すと、弥生はすぐ篤に気付いた。


 篤はわずかに残っている面会時間で弥生に会いに来たのだ。これまでも練習の合間を縫って数回会いに来たこともあったが、優月と一緒ではなく一人で来るのは初めてだった。


「元気にしてたか?」

「もちろんやよいはいつもげんきだよっ! それよりもきょうはあっくんがげんきないね」

「えっ……、そうか?」

「うん。あっくんげんきない。それにきょうはゆづちゃんもげんきなかった」

「優月も来てたのか?」

「そだよー! あっくんがくるちょっとまえまでいたの」


 そうだったのかとわずかに目を伏せ、篤がベッド脇の椅子に座ると、弥生が心配そうに覗きこんでいることに気付いてはっとする。


 子どもはこういうのをすぐ察するものだ。くりくりと無垢な瞳を向ける弥生の頭をぽんと撫でて、気持ちを落ち着かせる。


「元気ない……か。確かにそうかもな」


 少し正直になれた気がした。


「おーし、じゃあ、やよいがげんきになるおまじないをかけてあげるっ!」


 弥生はベッドの上に立ち上がり、点滴を気にしながら、その場でターンする。見事にポーズを決めると、人差し指を篤の鼻に突きつけてウインクした。


「げんき、げんき、げんころりん。あっくんがげんきのえがおいっぱいになーあれっ! フワッフー!」

「なんだそりゃ、ったく弥生は……」


 へんてこな弥生の魔法に篤も思わず微笑む。


「あーっ! あっくん、わらったぁ! いえーい! やよいのおまじないのおかげだもんね! やよい、すごいでしょ?」

「ああ、すごいよ。弥生は立派な魔女になれる」


 なんて篤は似合わないことを言って、弥生を高い高いしてやった。しかし弥生はどこか不満そうに唇を尖らせる。


「でもねー、このおまじないゆづちゃんにはきかなかったの」

「優月にもやったのか?」

「うん。ゆづちゃんもげんきなかったから。でも、ゆづちゃんはげんきにならなかったの」

「そうなのか……」


 篤は弥生を下ろして俯いた。


 あんなに陽気で気が使える優月のことだ。普段だったら弥生の前で辛い顔なんか見せないはずなのに。やはり今日のことが、そして俺のことが……。


「それにきょうのゆづちゃん、へんだった。おかおはわらってるのに、こころはずっとないてるの」


 篤が唇を噛みしめると弥生がきょとんとした顔で語る。


「心は……泣いてる?」

「そうなのー。やよいね、ゆづちゃんのこころのこえが聞こえるの」

「は……? 心の声?」


 篤が呆けると弥生はしっかりと肯く。


「うん。おくちからでることばのほかに、こころからこえがきこえるの。それでね、ゆづちゃんはごめんねって、どうしようって、いっぱいないてるの」

「そんな馬鹿な……」

「でもきこえるよ? あっくんはかれしなのにゆづちゃんのこころのこえがきこえないの?」

「え……。それは聞こえるわけがないんだけど――」

「ダメだよっ!」


 言いかけると、弥生は篤の口を手で塞ぎ、厳しい表情で睨みつける。それはとても六歳児の纏う雰囲気ではなかった。


 驚く篤を気にせず弥生は続ける。


「そんなこといっちゃダメ! あっくんはかれしなんだよ? きこえないじゃダメなの。ちゃんときこえるようにがんばらなきゃいけないんだよっ!」

「優月の心の声を……聞こえるように?」


 弥生は力強く肯く。


 篤は考えた。優月の心の声とはなんなのか。

 それはきっと声では表われない優月の本心。


 出会った時、彼女にしてくれと迫ったあの瞳。

 試合の時に負けるなと叫んだ声。

 今日、逃げろと言ったのに戻ってきて、自分に向けられた想い。


 一つずつ思い返す。優月の心の声とは、そして優月が……今、なにを想っているのか。


「あっくん。これはたぶんヒミツのおはなしなんだけどね」


 弥生は少し申し訳なさげに口を開き、篤の瞳をじっと見つめる。


「ゆづきちゃんもね。あっくんのボクシングとおなじなの。ゴブゴブ、なの」

「五分五分……?」

「そうなの、ゴブゴブなの。だからずっとこわくてないてたの。けどね、あっくんとであってからのゆづちゃんはあまりなかないんだよ。それはきっとあっくんのおかげなの。だからあっくんはちゃんとゆづちゃんをえがおにしてあげなきゃいけないの」

「それはどういう……?」


 弥生はそれ以上何も言わなかった。

 ただ「あっくんなら、だいじょうぶだよ」と篤の頬を撫でる。


 篤はとても不思議な感覚がしたが、何か自分がやらなければいけないことがわかった気がして、こっくりと肯いた。


 そう。一つだけ確信できることがあったのだ。

 今の弥生の話や優月から向けられる視線にどことなく、違和感を覚えたことはあった。


 そもそもなぜ一ヶ月だけ付き合おうとしたのか。なぜ篤を選んだのか。疑問は持ちつつも、その先を知ろうとしなかった。


 篤は自分の胸に問い詰める。考えるのはいつも自分のことばかりなのではないか、と。

 優月は俺のために弁当を作ってくれたり、一緒に朝走ったり、クラスの連中に訴えてくれたりしている。それに今日だって……俺を止めようとしてくれたんだ。


 それは他の誰でもない俺のために……。


 一方で自分はどうだろうか。もっとちゃんと優月のことを考えて、理解しなければいけないんじゃないか、と思う。


 篤はどうせ一ヶ月したら消えるんだと思って、大切なことを蔑ろにしてきた。

 でもそれは違う。竜也からも言われて自分でも決めたのだ。

 ちゃんと向き合わなけらばいけない。


 篤はふっと笑う。

 いつから自分はこんなこと考えるような人間になったのだろう。やっぱり変わってないわけではなかった。こうやって優月のことを、女のことを理解しようと思える。


 でもそれは他ではない優月のおかげなのだ。ならば、その分はしっかり返してやらないと割に合わない。


 再び弥生に目を向けると、篤の想いなど知らん顔で無邪気に笑う。


「まさか弥生に教えてもらうことになるとはな。ありがとな、弥生」

「うんっ! いまあっくんのこころのこえもきこえたよ。がんばるねっていってる」

「おう、その通りだ! ちゃんと優月を笑顔にしてみせるからな」

「さすが、かれしだね!」


 ぐっと親指を立てて、篤は立ち上がった。


「ありがとな。また来るよ」


 弥生の頭をわしわしと撫でて病室を出る。弥生はそんな篤の姿を見て嬉しそうに笑った。

 そしてランドセルの置いてある壁のすぐ横を見ると、遠い日を慈しむように呟いた。


「あっくん。ゆづちゃんのこと……よろしくね。やよいのかわりに――」

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