第33話-「嫌だ……負けないで……」⑧
試合が終わり、会場に残る叔父に声をかけて篤が一人会場を出ると、優月と竜也が待っていた。優月は篤を見つけると一目散に駆け寄り、
「やった、やったね、篤っ!」
試合後の全身筋肉痛のような身体を思いきり抱きしめる。
篤は痛みなのか何なのか、全身に電気を通したように痺れると、急いで優月を身体から引き剥がそうとして「なにすんだっ!」と吠えた。
それを見ていた竜也は「おめでとう。そしてお邪魔しました」と意味深に笑い、そそくさと帰ろうとするが、思い出したように振り返る。
「篤、そういえばオマエ。終盤すげえ良い顔してたぜ。これはアレか? 優月ちゃんの愛の力ってやつか?」
「違う。けど……違くもねえ気もしなくもねえ」
なんていい加減な文法で返す篤に竜也は「マジか……冗談のつもりだったのに」と溢し、
「負けてらんねぇ。オレもこれから彼女に会いに行こう」なんて携帯電話を取りだし、やっぱりすぐに立ち去ろうとする。
そんな友の背中に「ありがとな」と声かけると、竜也は空いた手を軽く振った。
竜也を見送り、篤がその目線を下に落とすと優月が顔を綻ばせたまま見上げている。
「ふふ。素直に愛の力だって認めちゃいなよ」
「違えよ、そんなんじゃねえ。調子のるな」
「でもあたしの声援もちゃんと聞こえてたでしょ?」
不本意だが篤は頷いた。そして言う。
「ありがと……な。実際、優月のおかげ……かもしれねえんだ」
――試合後の控え室。
「悔しいが完敗だ。もしあのまま次があったら完全にやられていたと思う。最終ラウンドは急にスイッチが入ったみたいに一段と強くなったな」
去り際の矢代に讃えられ、どこかむず痒くてぶっきら棒にお辞儀すると、矢代は笑って付け足した。
「あと……良い彼女だな! やっぱ付き合ってたんじゃねえか。今となって半分冗談みたなもんだけどよ。翻弄させちまったら悪かったな」
「あ、いえ……。俺も中途半端なこと言っちまったんで。すんませんでした」
「そんじゃ、お互いさまってことで。大事にしてやれよ。あんな良い女めったにいるもんじゃねえからよ。じゃ、次は負けねえかんな」
「うす。どうもっす……」
変わらぬ口調で軽く頭を下げて別れると、叔父が笑って「人間の出来としては完全に負けてんな」と肩を叩いた。
「んなこと、わかってら」とタオルで今だに湧き出る汗を拭う。
そんな篤に水を渡しながら叔父は問う。
「そういや篤。おまえ最終ラウンドでなに考えながら闘ってた?」
「別に……なにか考えてたわけじゃないけどよ。まあ……なんだ。逆にあまり集中できてなかった気がするな。優月があんな意味のわからないこと言ってきたからよ」
「そうか……。そういうことか。なるほどな」
勘付いたように元世界チャンプは頷く。
「俺も世界タイトルマッチの時、勝たなきゃ勝たなきゃと思って必死に闘ったんだけど、五ラウンド目まではかなりの劣勢でダウンも取られた。でも突然、葉子の声が聞こえて、そこからはすごく視界が良くなってな。頭の中は葉子のことでいっぱいだったんだが、気付いたら攻撃が良いとこばかりに当たっていくんだよ」
「んでどうだったんだよ?」
「七ラウンド目にはTKO勝ちだ。気付いたらベルトを持っていた」
「マジか……」と篤は口を噤む。
「まあ俺の場合は偶然かもしれないが、篤の動きを見てる限りではあれは持ってる才能が最大限に発揮されたって感じだったな。おまえ負け試合の時はいつも視界が狭まっていくって言ってたろ。けど今回はそれが逆に開けていったんじゃないか?」
「確かに……」
「それで、そうなったのはたぶん優月ちゃんが気持ちを切り替えさせてくれたからなんじゃないか?」
「心当たりは……ある」
篤が正直に答えると叔父は大きな声で笑う。
「じゃあ今日の勝ちは優月ちゃんのおかげだな。それにかつ丼まで作ってもらったんだろ? ちゃんと御礼言っておいた方がいいぞ」
なんて背中をばしばしと叩くお節介なおっさんに篤は舌打ちせざるをえなかった。
「――とまあ、そんなわけでよ。確かに優月のおかげってのはある。だから……ありがとな。勝てたよ、俺」
無愛想に頭を掻く篤に優月はぽおっと頬を赤らめると、それを隠すように顔を篤の胸元にうずめる。そして、
「こちらこそ……ありがと。勝ってくれて本当に嬉しかった」
きゅっ、と篤のシャツを細い指で握りしめた。
そして顔を戻すといつも通りの悪戯な笑顔を見せる。
「でもダウンされた時はもう駄目だって思ったんだからね。しっかりしてよ!」
「んなっ! しょうがねえだろ! それに勝ったから言うけどよ。実は勝ち目だって全然なかったんだ」
篤が俯いてそう言うと、優月はすぐに笑みを崩して真顔になる。
「えっ……五分五分くらいって……」
「あれは……強がったんだよ。でも勝ったんだからいいだろ! 結果オーライだ」
空威張りして優月をちらりと見ると、そいつは目を見開いて固まっていた。そして言葉を溢す。
「やっぱりすごいよ篤は……。負ける確率の方が断然高いのに、それでも立ち向かっていって、こうやって勝っちゃうんだもんね」
どこか切ない表情を向ける優月に篤は首を傾げたが、すごいと褒められたのをこっ恥ずかしそうに返す。
「別にすごくなんかねえよ。前も言ったけど、やってみなきゃわからねえし、もしかしたら負けてたかもしれないんだからな」
「でも……勝った。あたしには恐くてその勝負すらできないのにさ。あたしは本当に弱くて臆病で――痛っ!」
突然情けなく俯く優月に篤はデコピンをうつ。
「なんのこと言ってるか知らねえけど、縁起悪い顔してんじゃねよ。それに今回の勝利は優月のおかげだって言ったろ。だから俺から言わせてもらえれば不本意だけど一緒に闘ったってことだ。自分の実力だけで勝った気がしないからな」
「一緒に……闘った?」
「ああ。だから優月も劣勢を制したってことだ。それに俺に対してあんなに積極的なくせに、どこが臆病な性格なんだよ。少なくとも俺の顔見ただけで逃げていくクラスの連中の数倍は芯が強いぜ。だから優月は弱いわけがねえ」
篤は思ったことをそのまま言葉にした。別にそんなきつい事も感銘を与えられるような事を言ったつもりもない。ただそれだけの言葉だった。
なのに、
「え? ど、どうした!?」
呆然とした優月の目尻からすうっと滴が落ちる。それはただゆっくりと静かに、清流のように頬を伝って地面に零れゆく。
「えっ、あれ? あれ? どうしたんだろ? おかしいな?」
優月は自分の頬を滑り落ちていく涙を確認すると慌ててハンカチを取り出す。
篤の脳内には試合中にふいに浮かんだ優月の泣き顔がフラッシュバックした。
「お、おい。俺なんか今悪いこと言ったか? 俺そういうのよくわからないから――」
「いや、違うの。わからない。わからないんだけど……えぐっ……止まらなくて、うっ」
次第に嗚咽が増していく。周りを通る人が不審な目を向け、篤も今回ばかりは自分に非を感じてうろたえる。
しかし、ほんの数分。優月はすぐに笑顔を取り戻した。
「なあ、大丈夫なのか?」
「いや全然平気だから気にしないで! もしかしたら篤の試合で心労したのが今になって噴き出してきたのかも。ほら、あんだけ殴られてるの見るとこっちだって恐くて涙が出る時くらいあるでしょ?」
「それでよくボクシング好きって言えるな。まあ大丈夫ならいいんだけどよ」
意味はわからないが、人差し指を突き立て、いかにもな口調で語る優月に篤は納得しておくことにした。
「ああ、あとよ。来週なんだけど――」
篤は優月を一度しっかりと見つめるが、言いかけた途中で視線を逸らす。
「なんだ……えっと……デート、行ってやるよ。先週も今週も行ってやれなかったし、それに弁当と今日の礼もかねて、だから、行くか?」
デートについては試合が終わったらちゃんと連れて行ってやれと竜也に言われていたのだ。嫌がる篤に竜也は無理矢理発破をかけようとしていたが、矢代のこともあったせいか、篤は自らの意志でこれを口にした。
弁当や今日の借りをそのままにしておくわけにもな……なんて自分を言い聞かせつつ、ぎこちなく優月に目を戻すとそいつはまた呆然とした顔をする。
篤はまた泣くんじゃないかと慌てて身構えるが、
「嘘? ほんとに!? それに……篤から誘われた!? いやったぁぁぁー!!」
その心配はなかったらしい。優月は子どもみたいに無邪気に跳ねて喜んでいる。
「別に俺から誘っ……たのか。確かにそうか。まあいい、とにかく今日は疲れたし帰んぞ」
「なに照れてるのよー! まったく篤はとんでもないツンデレくんだね」
「うるせえ、ツンデレじゃねえ。調子のってると行かないからな」
「ふーん。男のくせに一度言ったことを曲げる気? ダ・サ・い・ぞ」
なんて可愛らしく片目を瞑る優月に篤はデコピンするとすぐに歩きだす。自分の顔が火照っていることを無視できずに、それを見せるのが恥ずかしくていつもより大股で進んでいく。
「なんなんだよ……本当に……」
デートに誘うだけで心拍数は試合より撥ねあがっていた。
しかも優月の表情。本気で心配そうな顔したり、泣いたり、笑ったり、その度に吸い込まれそうになる。
それに優月がいたから勝てた。あいつが頭の中にいたから勝てた。認めたくはないけど、認めるしかない。自分の中で優月の存在が確実に変わってきているのがわかる。
そんなもやもやした感情をひた隠しにして足早に帰ろうとする篤の背中を、優月は愛おしく見つめながら胸に手を充てると呟いた。
「あたし……強いんだって。それならあたしもちゃんと勝つ気で闘ってみようかな」
溢した涙の本当の意味もまだ話せない。本当の感謝の意味もまだ説明できない。けど、この人といたい。その気持ちに偽りはない。それはもう優月の中では揺るぎないものになっていた。
あと二週。篤といれる幸せをしっかり噛みしめておこう。悔いが……残らないように。
見上げると夕刻の橙が入り込み、悠久の彼方のような顔をした空。残り十日と少し。二人にとって新たな決心が生まれた一日の幕引きだった。
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