第32話-「嫌だ……負けないで……」⑦

 幸運だった。篤が起き上がってからすぐに二ラウンド目は終了し、インターバルに入る。

殴られてすっきりするとは変な話だが、意識と視界は先程よりも良好だ。セコンドの話もしっかり理解できる。


 まあただ、


「篤、無理はするな。ダウン取られてるんだからな。きつかったら正直――」

「勝つ。絶対に」


 自分が圧倒的に劣勢なのはわかる。だが、負けたくないから虚勢を張った。

 いや、虚勢ではない。絶対に勝つのだ。次のラウンドで絶対に相手をマットにねじ込む。そのつもりで汗を拭い払うと、


「篤ーっ! あたしとかつ丼を思い出しなさい! そうすれば勝てるっ!」


 上にある観客席で優月が大きく手を振っていた。


 は? と顔をしかめる。この一番集中したい時にあいつはなに意味不明なことを言ってんだ。篤は馬鹿らしくて眉間に皺を寄せる。すると叔父が、


「おう。その通りだ! 俺も現役の時はいつも葉子のことを考えながら試合してたぞ。愛するパワーは強し。だ!」


 自信満々に笑う。葉子とは叔父の、つまりは元世界チャンプ立浪誠也の嫁。篤と血の繋がった叔母のことだ。思わず顔を引きつらせて苦笑いする。


「おい、俺はふざけてほしいんじゃ――」

「つまりは篤。余裕を持てということだ」


 言いかけると叔父が焼くような視線で篤を睨む。元世界王者が出す無形の圧力が一瞬身体を縛った。


「いいか。さっきから力み過ぎなのと、周りが見えなさ過ぎて、いいように攻撃をくらってるぞ。そうじゃなくて、いったん視野を広く持て。相手の得意技は冷静なガードからのカウンター。特に右フックだと言っただろ。それを考えた上でうまくボディーから壊していけ。むこうだってかなり消耗しているのだから、チャンスを見計らって逆におまえが相手の裏を突け。そのために優月ちゃんのことを考えられるくらいの空き容量を頭に残しておけってことだ」


 なんとなく言いたいことは伝わった。篤も真剣に頷き優月を見ると優月もピースサインを立てて見返してくる。でもなぜだろう。やはり優月の眼が赤く濡れている気がした。

 しかし、さすがにそこまでは気にしていられない。


 ゴングが鳴り、再びステップを踏む。いつもみたいにすぐに飛び込んでいくのではなく、篤は一息入れて敵を睨んだ。速攻が来ると思っていたのだろう。矢代もなにかこれまでとは違う気配を感じとって間合いをゆっくりと詰める。


 篤はこれまでになく落ち着いていた。いつもなら何かに急き立てられるように拳を振り出していたが、今はそうでもない。というかこれは逆に集中できていないのではないかという錯覚にみまわれていた。


 ダウンを食らったせいでかなり透徹した頭に響くわけのわからない優月のコメント。普段ならどこか混沌のようなものが見えているそこには、なぜか今は優月が写っている。


「(まいったな……)」


 篤はじりじりと詰められている間合いを肌で感じながら、普段通りのアグレッシブな気持ちを引き出そうと軽く踏み出して拳を突き出した。


「(――ん?)」


 そこで気付く。足が軽い。

 試合序盤の疲労を脱ぎ捨てたような篤の早さに相手も一歩下がった。それを追うように素早くもう一歩詰めて、拳を放つ。すると今度は避ける隙も与えずにボディーに入った。


「(――これは?)」


 篤は薄らと感じた。いつもの集中力百パーセントを振りきった状態よりも今の方が確実に身体がノっている。というよりむしろ思考スピードより速く身体が的確に動いていた。


 相手も二ラウンド目よりもはっきり見えている。それによくよく見ると、


「(中野よりも遅い。これなら当たる)」


 篤はしっかりと相手を見据えて、踏み込んだ。

 矢代は軽く左に傾き、ガードを構える。


「(重心が左に移ったな。それなら……)」


 篤は左足に力を込めると獣のような人間離れしたスピードで右に跳び、踏みとどまって、右フックをかます。確実に入った。そして相手の苦しそうな顔が見えた瞬間、


「ふっ、馬鹿みてえだ」


 篤は悟ったように笑みを溢す。


 優月の叫ぶ声が聞こえ、それが心地良く背中を押してくれている気がした。パンチも面白いほどよく当たる。決して相手が急激に篤のパンチに対応できなくなってきているのではない。篤にしっかりと見え始めたのだ。自分の拳が届くための隙が。

 そしてその隙を通していくと、次の隙が生まれる。


 持ち前の野性児のようなステップワークを活かし、身体の動きで敵を翻弄する。そしてそこにできた穴に確実に撃ちこむ。それが留まることなく続いていく。


「(本当に魔法がかかったみてえだぞ、優月)」


 篤は気付いていない。それが魔法なんかではないということを。


 それは多勢に対して単身で突っ込んでいった頃、つまりは喧嘩に明け暮れていた頃に篤が自然と身に付けていた才能。自分の被害を最小限に抑え、手っ取り早く相手を狩るために身体に叩きこまれた洞察力と感覚。それを曇らせていたなにかが消えたことによって引き出される枷のない篤本来の力だった。


 第三ラウンドの二分間。篤は相手選手からの攻撃を一切受け付けず、鐘の音を聞いた。


 ゴングと同時に矢代はリングに倒れ込み、ダウンを取った矢代とパンチで優れた篤の結果はしばしの判定にもつれ込む。しかし、思いのほか早く結果は出て、


「――立浪ジム、早乙女篤!」


 今まで観客席になんか一度も目をくれたこともない篤だったが、その日はじめて客席に向かって高く両手を挙げた。

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