第31話-「嫌だ……負けないで……」⑥

 正面からカウントが聞こえる。篤はそれが自分に対するダウン判定だと気付いた。


 ああ、そうか。顎に一発でかいのを食らったんだっけ。そりゃあ、かなりのダメージだ。だっせーな……。篤は茫然とそう思った。


 おもいきり衝撃を与えられたせいで脳内はかなりクリアなのだが、ダウンを取られた衝撃やら純粋な痛みやらで身体が動かない。かなり厳しい状態だった。


 虚ろな視界の先で相手の拳が揺れて見える。カウントはまだ二つ目らしい。


『――篤っ!』


 遠くから呼ぶ声が響く。頭が澄みきっていたせいか、その声はすんなり身体に浸透してきた。優月の声だった。


『――ちゃんと立って! 負けないで!』


 無茶言うなよ、と思わず笑いそうになる。

 しかし、それと同時に違和感に包まれた。その声はどこか悲痛な湿り気を孕ませている。

 なぜか優月の泣き顔が一瞬浮かんだ。まだ見たことの無い優月の泣き顔がよぎったのだ。


『――勝ってよ、絶対にっ!!』


 その声が頭の中で渦のように増していく。


「なんなんだよ……」


 すると不思議なことに篤の身体は動いた。なにかに突き動かされるようにリングについていない方の膝を手で押し、両足に力を通す。カウントは四だ。


「勝手に心配してくれてんじゃねえよ。まだやれるっての」


 カウントファイブでゆっくりと膝は伸びていき、


「というか、女に情けない姿見せるのなんかまっぴらごめんだ」


 カウントシックスで立ち上がる。


「ああ、やってやらぁ。弥生にも見せるんだからな。ガキにまで醜態を晒すなんざ、我慢できねえんだよ。」


 カウントセブン。両足がしっかりとリングを掴む感触が伝わり、


「それに勝ったら優月をデートに誘うだと……? なんか知らねえが胸糞悪い!」


 カウントエイトでファイティングポーズをとった。


 レフェリーが「まだやれるのか?」と怪訝な顔をする。篤は当然だ、とばかりに頷いた。周りからは溢れんばかりの歓声が響き、反対のコーナーで矢代が苦笑いをする。

 篤の拳は再び構えられた。

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