第30話-「嫌だ……負けないで……」⑤
「――もしかしたら今日の試合はやばいかもしれないな……」
カメラを構えた竜也がそう言ったのは二ラウンド目の序盤。篤が矢代という相手選手におされ始めて間もなく。なおかつ綺麗な右ストレートを顔面で受けた直後だった。
優月が悲痛な顔で「なんでよっ!?」と振り向く。
しかし、優月も全く感じていなかったわけではない。先程から篤のペースがわずかに落ちていることは素人眼でもわかることだった。というよりむしろ、相手が篤の一歩上といった感じだ。
早めに勝負を決めにかかっている篤に比べて、相手選手はしっかりガードしつつ、所々隙を狙ってはタイミングよく重い一発を与えてくる。それが篤の身体に確かなダメージとして蓄積しているのも見えていた。
「前にも何度か篤の試合を見たことがあるんだけど、今日と同じ展開があったんだよ。前半はすごい篤が優勢に見えるんだけど、後半に何発かクリーンヒットくらって、最後には防戦一方っていうかさ」
「その時の結果は……?」
優月が恐る恐る問うと、竜也は首を横に振る。
「さすがにダウンはなかったけど、判定負けだった」
「そっか……」
優月はシュンと俯いて、コーナー際に追われた篤に目を移す。
「これは感覚的なことだけど……」
再び呟く竜也に優月が耳を傾けると、竜也は一息置いてから語った。
「だいたいやばい時って、表情が昔の篤みたいになるんだ」
「昔の……? それは不良の頃の篤のこと?」
「そうだよ。ってか優月ちゃん、よく知ってるな」
「うん。噂でも聞いたし、篤も少し話してくれたからね」
「篤が自分から話したのか?」
優月が控えめに頷くと、竜也はわずかに驚いた顔を見せ、でもどこか嬉しそうに「なるほどね」と笑う。
「あいつとは一回中学時代にやりあったことがあるんだけどさ――」
「えっ!? 篤と喧嘩したの?」
優月は仰天して身体ごと振り向いた。
「あれ、その話は聞いてないんだ?」
「うん。竜也くんは唯一信用のおける親友としか聞いてない」
「なに!? オレはあいつの中でそういう立場なの? それはそれで嬉しいねえ! まあオレと篤の中学時代の話はそのうちしてあげるさ。あ、でも結果は当然オレの完敗ね。やりあったというよりむしろ、瞬間的にやられた」
言って竜也は一度ファインダーから目を外すと、苦笑いをしてそのまま続けた。
「そんでさ。昔の篤ってたぶん、周りが見えてないんだよ。ただ目の前に写った敵だけをぶち壊しにかかって、周りからの攻撃なんか意にしない。でもそれってボクシングでは致命的だろ。急に脇から来たフックなんかどうしようもないんだからさ」
確かに、と優月は思った。それは下手に不器用な性格をしている篤ならではと言えるような気もする。
「それで、あいつは最終的に……なにと闘ってるかわからねえんだ。しかも不気味なくらい哂うんだよ。オレの時もそうだった。篤の眼中にはオレなんかいなくて、もっと深い、見えない何かと闘ってるみたいだったんだ。まあ色々聞いた今ではわかるんだけどよ、篤の母親のこととかさ――」
「篤のお母さん? 両親とも亡くなったっていう?」
優月の反応で竜也は急に目を見開く。そして口元を抑えた。不思議そうに首を傾げる優月から目を逸らし、竜也はぎこちなく笑って答えた。
「ああ、優月ちゃんの言う通りだよ。ほら篤って母親も父親も失くしてるからさ。それで荒れてたっていうか。ただ喧嘩して誰かを倒そうってより、単なる破壊衝動に駆られてたってかんじなんだよね。だから自分では冷静でいるようなんだけど、まったくそんなことないっていうかさ――あ、なんか篤押し返してねえか?」
そんな風に誤魔化しながら再びファインダーを覗きこむ。優月のまだ府に落ちない顔がわずかに写ったが、優月もすぐリングに目を戻した。
優月は考える。竜也が言っていた「周りが見えない」という言葉を。
そしてその意味を決定付けるように第二ラウンド後半は展開していった。
篤は懸命に拳を突き出すが交わされて、サイドから身体にしっかりとジャブを入られる。どこか朦朧としていて、その目に光が無い。確かに相手をしっかり見ているようには見えなかった。
そしてその瞬間が訪れる。
中野のカメラを奪おうとした時と同様に右ストレートを振り出して、左フックを撃ちこもうとしたその刹那。相手選手の右フックが確実に篤の脇腹に撃ちこまれた。
メキメキと悲鳴をあげるように篤の身体が捩れる。そして、それによってできた空間に相手は飛び込んできた。わずかに体勢が起きている篤の懐から拳を真上に突き上げる。弾け飛ばされるように篤の顔は一瞬で真上に撃ち上げられた。
確実に入った。優月は声を失い、恐くて目を閉じる。
そして薄らと目を開けた時……篤の片膝はリングに堕ちていた。
「あぁ……」
優月は両手で口を抑える。
篤の目の前ではレフェリーがカウントを始めた。これは先日篤に聞いたスタンディングダウンだ。プロの試合とは違い、アマチュアではリングに倒れなくてもレフェリーがダウン相当とみなしてカウントを数えることがある。篤は自分がそれを受けたことは無いと言っていた。
『――アマの試合でダウンなんかくらったら、それこそ絶望的だ。その時点で負けが決まったと思っても不思議じゃねえ』
「嫌だ」
優月の口からは自然に言葉が零れ落ちた。
負けてほしくない。だって、ここで負けたら、その五十パーセントの確率が、ゼロになってしまう。
そんなの嫌だ。駄目。負けないで。立って。倒して。勝ってガッツポーズをするんでしょ? あたしにお手本を見せてよ。だって、だって、ここで負けたら、
「嫌だ……。死にたくない……」
蒼白なほどに潤む声とその言葉に、竜也は思わずカメラから目を放した。
肩が小刻みに揺らぎ、どうにも様子がおかしい優月に竜也が声をかけようとした瞬間。優月は風を巻き上げる勢いで立ち上がった。そして震える息を吸い込んで吐き出す。
「篤っ! ちゃんと立って! 負けないで! 勝ってよ、絶対にっ!!」
篤の片膝ダウンでざわめく会場に優月の声が鳴り響いた。
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