第26話-「嫌だ……負けないで……」①

 そして、その時はやってきた。

 十一月最初の日曜日。隣町にある大学の特設会場。


 選手控え室で篤は座っていた。コーチ兼トレーナーの叔父が最終チェックをしながらマッサージを施している。今日も篤のセコンドに入るのはこの元世界チャンプなのだ。バックアップの心配は何一つない。


 十分程前には竜也が来て「頑張れよ」とだけ残して会場へ。そのすぐ後に優月が訪れた。


「なんだ。見に来たのか」

「当然よ。彼氏の晴れ舞台を見に来ないなんて、あたしはそんな薄情な彼女じゃないもん」

「いや、気が散るから来なくていいんだけどよ」

「なっ、なによ! その言い方! 叔父さま聞きましたか? 篤ったら酷いんですよ!」

「なーに。優月ちゃんが可愛い過ぎるから、気がそっちに向いてしまうんだよ」

「んなっ! そんなわけねえだろ、バカおやじ!」

「なんだ、そうだったのね。でもダメよ。ちゃんと試合に集中しないと」

「当たり前だろ! いいから用が済んだならとっとと出てけよ! 集中してえんだ!」


 むきになって優月の色白な額にデコピンを食らわす篤を優月と叔父は笑う。

 そして優月は思い出したようにバックからビデオカメラを取り出した。


「そうそう。本当は弥生ちゃんも連れてきてあげたかったんだけど、外出許可が下りなかったのよ。だから撮影して見せるから、かっこ悪いところは見せられないわね」


 口元を押さえて笑う優月に篤は舌打ちをすると、


「……負けないから安心しろ」とこぼす。


 その声がいつもよりどことなく弱々しいことに優月は気が付いた。だから篤の頬に手を添えて優しく微笑む。


「大丈夫よ、篤。あなたは負けない。あたしの彼氏は最強なんだよ。それにかつ丼だって食べたんだから、なおさら心配ない。あたしの篤への応援すべてには勝利の魔法がかかってるから」


 篤は自分の頬に当てられた小さくも日溜りのような温もりを感じ取り、わずかに目を閉じた。そして、ふと思う。たぶん母親がいたらこんな感じなのだろう……と。


 すると野心とも言える闘志がメラメラと湧いてくる。優月の残像は瞬時に消え失せ、憎悪をそのまま具現化したような渦が脳を支配し始めた。


 篤はなるべく試合の直前だけ、たった一瞬だけ母親のことを思い出すようにしていた。それは冷静さの中に、わずかな爆発とも言える破壊衝動が入り込むからだ。


 完全に野性児だった頃の自分の潜在的なにかが呼び起こされる。それはきっと怒りや憎しみ、悲しみから生まれるなにか。本当の強さではないのかもしれないけど、自分を覚醒させるなにかに篤は試合の度にすがっていた。そして今日も。


 頭の中で歯車が嚙み合うような音が聞こえ、荒ぶる息を調節しながら瞼を開く。鈍器のように、されど刃物のような視線が正面の優月を焼き尽くすように射る。


「篤……? どうしたの? 急に恐い顔になったけど……」

「なんでもねえ。スイッチが入っただけだ」

「あ、あらそう……。じゃ、じゃあ頑張ってね」


 優月がそういうのと同時に係員が呼ぶ声がして篤は立ち上がった。


「――ああ、全部ぶっ壊してやる」


 優月がなにか形の無い恐れを篤の背後に感じ取ったのもままならず、篤はグローブを引っ提げて会場へ向かった。

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