第25話-「五分五分」②

「ねえ、今週末の試合ってどんな試合なの?」


 綺麗に空になった弁当を片付けながら優月が問う。

 篤は寝転がっていた身体を起こすと、優月に向ってしっかり座り直した。


「まあ滅多にない公式戦の一つだ。とは言っても俺がやってるのはアマチュアのだけどな」

「アマチュア……? いつもテレビでやってるプロのとは違うの?」


 首を傾げる優月に篤はこくりと肯く。


「そもそもが違うんだ。アマはヘッドギアを付けるし、グローブもプロよりクッション性が高いからKOとかダウンはなかなか無い。試合だって俺の出るジュニア戦は二分三ラウンドだからな」

「えっ!? じゃあ六分間しかないの?」

「そういうことだ。だから相手のダウンを狙ってのパワー勝負ってより、ポイントを狙ったスピードとテクニックが重要になる。でもやるからには相手をマットに沈めるつもりでいるけどな」

「ふーん。でもプロに比べて燃えないわね。時間も短いし、やっぱりダウンがあってこそのボクシングじゃない?」

「ばか。アマチュアはアマチュアでかっこいいんだよ。それに六分間本気で殴り合うのだって楽じゃねえし、アマの試合でダウンなんかくらったら、それこそ絶望的だ。その時点で負けが決まったと思っても不思議じゃねえ」


 どこか見当違いといった、微妙な顔をする優月を睨んで篤は軽く拳を握りしめた。


「けど俺もそのうちプロのライセンス取って、プロ戦をやるつもりなんだけどよ」

「あ、やっぱりそうなんだ。篤ならすぐプロになりそうだね」

「もちろんそのつもりだ。だからこそアマのうちに力は付けておきたいし、試合にだって当然勝ち続けていこうと思ってる」


 そういって篤は虚空に拳を突き出した。


「ちなみに相手はどんな人なの?」


 優月が聞くと篤は放った拳を戻して軽く震わせる。


「年は一つ上で俺よりもでかい」

「篤よりも大きいの!? それは相当ね」


 優月は想像して、目線を上にあげる。


「そんで一回そいつには合同練習の仮試合で――」

「仮試合で……?」


 篤は、はっとして言いかけていた言葉を噤むが、優月はそれを聞き返した。聞き返されてしまっては止むを得ない。そこで逃げるのはなおさら情けないと思ったのだ。一度逸らした目を開き直るように優月に合わせ、篤は小声で言った。


「……負けた」

「篤が……負けた!? 信じられないんだけど……」

「ああ。俺よりも長くボクシングやってるらしくて、アマの同世代の中ではかなり強い。でも強いやつなんか山程いるんだ。泣きごと言ってらんねえよ」


 篤は渋く頭を垂れる。その顔には確かな悔しさが滲み出ていた。

 そんな内心がすっかり表出してしまっている篤に優月は恐る恐る問いかける。


「負けたのに……またやるの?」


 すると予想していた通り、篤は刃物で斬りつけるような視線を優月にぶつけた。


「練習だったってのもあるし、完敗ってわけじゃなかったんだ。それに俺が当然のように越えていかなきゃいけねえ壁でもある」

「そ、そうなんだ……。ちなみに勝てる確率はどれくらいなの?」

「まあ、その時のコンディションにもよるけどな……。だいたい良くて五分五分か俺が四の相手が六ってとこだろうな」


 篤はそう言い切ったが唇を噛んだ。

 虚勢を張ったのだ。正直に五分五分と言えるほど実力は拮抗していない。前回だって練習の一環だったために相手は手を抜いていた一方で篤は闘志むき出しだった。だから完全に自分の方が弱いことくらいわかっていたが、篤はそれを認めたくはなかった。


「五分五分……もしくは篤の方が劣勢……」


 それでも篤が憮然とした態度をとっていると、優月は急に自分自身を抱くように縮こまり、憂いのにじむ声で呟く。そして上目遣いに目を合わせてくる。


「ねえ、なんで負ける可能性の方が高いのに闘うの?」

「はあ? そんなの――」


 言いかけて篤は止まった。

 若干だが、優月の瞳が赤み帯びている気がする。表情もどことなく沈痛な面持ちといったところで……。いや、でもそんなはずはないと篤は一度咳払いをして話を続けた。


「そんなのやってみなきゃわからねえからだよ。それに闘わなきゃ絶対勝つことはない。俺は負けるのが嫌なんじゃない。純粋に勝ちたいんだ。だからどんなに相手が強かろうが俺は自分が負けるなんてこれっぽっちも思ってない」


 まっすぐに鋭く優月を見つめる。すると優月はその視線から顔を逸らした。


「それはわかってるけど……、篤は負けるのが……恐くないの?」


 篤は一度押し黙って顔をしかめた。


「……恐くないって言えば、それは嘘だ。でもな、だからこそ、今自分ができることをやるんだよ。そんで勝てば結果オーライだ。苦しい試合こそ、勝ってリングのど真ん中でガッツポーズした時の気持ちよさは格別だぞ」


 遠い空に勝利への思いを馳せ、篤は拳を高く突き上げた。

 それをどこか羨望の眼差しを向ける優月は「なんか自分が馬鹿みたいに思えてきた」と軽く笑う。


「じゃあ篤――」


 そして、思い切り顔を近くに寄せて耳元で囁いた。


「――絶対に勝ってね。お願いよ」


 優月の吐息がもろに耳を掠めて、溶けそうなほどに熱くなる。顔を引いて、わずかに赤く染まった優月の頬に篤は「お、おう。もちろんだ!」とぎこちなく親指を立てた。


 優月は自分以上に顔を朱に染めた篤を嬉しそうに、されど儚く、憂いに満ちた眼差しで見つめる。その突き上げた空から降りてきた拳に、僅かな自分の希望を上乗せして……。

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