第22話-「あの頃とは全部が違うんだ」①
「疲れた……」
「かなり遊んだもんね! さすがの篤でも六歳児を何度も持ち上げるのはきついでしょ?」
「ああ……まあな」
篤はその疲れが精神的なものだとは言えなかった。なんたって弥生と二人だけの秘密だからだ。
ここは病院の中庭。リハビリをする老人たちを横目に二人ベンチに腰かけると、優月はおもむろに口を開く。
「弥生ちゃんね……見ただけじゃわからないかもしれないけど、もう手遅れなの」
「え、そうなのか……?」
それは弥生の話から感じとっていたことだが、篤はいかにも今知ったように返す。
しかし、本当は最初から気づいていたのかもしれない。弥生の病室が一般病棟と分断された重い曇りガラス扉の向こう、隔離病棟の中だったから。それに、しばらく日を浴びていないような白すぎる肌にやつれた細長い髪。持ち上げた身体は異常なくらい軽く、もう十一月だというのに新品のランドセル。要因はいたるところに転がっていた。
優月は静かに口を開く。
「よくある話で、ずっとドナーが見つからなかったのよ。それで闘病生活が続いちゃったから、お父さんは嫌になって出て行っちゃったみたいで……」
「出て行った? 父親がいないって、そういうことだったのかよ」
「弥生ちゃんから聞いたの?」
「ああ。だから高い高いしてくれてすごく嬉しかったって……」
「そっか。それなら篤を連れてきて本当に良かった」
篤は心臓を抉られるような感覚に陥る。そしてはるか奥底に閉まっていた記憶が呼び起こされようとするのを必死で抑えながら、優月の言葉を待った。
「勝手だよね。でもあの子、あんなに元気でいつも楽しそうにしてるの。初めて出会ったのがここなんだけど、すごく落ち込んでたあたしに今日みたいに笑って『だいじょうぶ?』って聞いてくれた。自分の方がもっと大変な思いしてるはずなのにさ。だから今ではあたしの一番の親友なんだ」
優月は茜色に染まる芝を眺めながら憂うように俯いた。
「よくわかんないよね。世の中には何千何億って人がいるのにさ。それでも見つからないの。救える命なのに。ばかげてる。それに弥生ちゃんを見捨てた父親も許せない。弥生ママがいつも独りで辛そうなのに……」
優月の持つ缶ジュースが小さくベコリと音を立てる。
篤もその言葉には同感だった。だが、弥生の父親に対しては優月の比にならないほどの怒りを抱いていた。それは表には出さないが、今晩予定している自主練はかなり荒れると自分でもわかった。
「ごめん、暗い話して。でもこんなんだから、たまには篤も一緒に顔出してくれないかな? 弥生ちゃんも喜ぶと思うの!」
篤は黙って頷く。それを断る理由なんてなかった。むしろ柄にもなく弥生の傍にいてやりたいと思うくらいだったのだ。
「まあ暗い話はこれくらいにして……今日も見てて思ったけど、篤って本当にいい身体してるよね」
「は? いきなりなに言い出すんだよ」
不意に突拍子もない話題に切り替える優月を怪訝な目で見ると、そいつは両手を口元に運び、少し照れたような顔を見せる。
「ジムでも思ったんだけどさ、筋肉質っていうか……かなりタイプ。ボクシングの賜物ってかんじかな」
そう言って、顔を淡く夕日に同調させる優月を篤も照れたように見返した。
「ま、まあな……ボクシング始めてから少し身体つき変わったし」
無造作に頭を掻くと優月が聞く。
「そういえばさ、なんで篤は叔父さまたちと暮らしてるの? やっぱりボクシングに熱中したいから?」
「あー、それは逆だな。あの人たちと暮らし始めたからボクシングに目覚めたってのもあるし、そのつもりで引き取られたから」
「どういうこと? ご両親は他のとこに住んでるの?」
優月は頭に疑問符でも浮かべたように首を傾ける。
そんな優月に対して篤はわずかに間をあけたが、ほぼ躊躇いなく言った。
「親は二人とも死んだんだ」
「え……、あ、嘘……ごめん」
途端に俯く優月。合わせていた目線を逸らして心配そうに窺ってくるのが篤にもわかる。
「いいよ、別に気にしてねえし」
「うん……でも、ごめん」
静寂が二人を包み、言葉は詰まる。弥生のこともあったせいか篤はその沈黙に耐えられず自ら話し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます