第19話-「やよいはね、おほしさまになるの」③
夕方、篤は数年ぶりに相原総合病院のロビーに座っていた。優月は野暮用があるらしく一度家に戻ってしまい、そのあいだ待ちぼうけをくらっている。
あいかわらずこの場所は好きになれない、と篤は目を伏せた。
周りはどこか物憂げな顔をした老人や、憔悴した人々が行きかい、生きた心地がしない。だがまあ病院だし、基本的には病人しかいないのだから、それも仕方ないかと顔をわずかにあげた時、知った顔が目に入った。
優しいブラウンの髪に今にも涙が零れそうな程とろんとした目尻。そして幼い様相なのにしっかり赤十字のついたナース服を着ている。マスクとカメラは無いが、それが優月のお付きの人である中野だと、篤はすぐに気付いた。
あちらも篤を見つけたらしく、肩をびくつかす。そして、そそくさ立ち去ろうとした時、
「おい、待て」
「ひゃ、ひゃい?」
篤は躊躇うことなく声をかけた。
自分から女に声をかけるなんて滅多なことではないが、中野に至ってはもはや女である以前にライバルとか敵対象とか、そんな別の気持ちが先行していたのだ。
「というか、あんた本当にナースなんだな」
「ええ……はい。こんな私ですが、皆さまの健康のために働かせていただいております」
中野はおどおどと、そして深々と頭を下げた。
「あの……早乙女さま、先日は本当に失礼なことを致しました。申し訳ありませ――」
「いや、それはいい。どうせ優月に強要されたんだろ? 医院長の孫娘じゃあ逆らえないよな」
「あ、ありがとうございます! この見返りはいつか必ずいたしますので」
中野はどこまでも丁寧で律儀なやつだった。
しかし、この容貌と口調なのにあの強さなのだ。
篤は調子が狂って頭を掻く。あわよくばリベンジマッチを申し込もうか、ぐらいな気持ちで声をかけたのだが、
「そんなことより、あんた本当に強いよな。あの避け方とか今度教えてくれよ」
「あ、はい。ありがとうございます。それくらいならいつでも御教授いたしますので」
いつの間にか教えを乞うていた。
自分でも不思議になって首を傾げる。
「そういえば……早乙女さまとお嬢様はもうすっかり仲睦まじいと伺いました。お嬢様が毎日楽しそうでして。ありがとうございます」
「あいつ、そんなこと言ってるのか?」
「はい! つい数週前までのお嬢様とはうってかわって明るく、私もすごく嬉しく――」
「数週前の……優月?」
篤が聞き返したところで、中野は気まずそうに口を噤んだ。
「あの、ええと……いえ、なんでもありません。では、私はこれにて失礼します」
そこまで言って踵を返そうとした中野は、もう一度振り返り、今まで避けてきたことが嘘のような鋭い眼差しで篤を直視する。そう、篤が無意識に寒気を感じるほどに。
「早乙女さま。本当にお嬢様のことよろしくお願いします。ああ見えて、お嬢様は決して強い方ではありませんので。……心も、そして身体は特に――」
そこまで言いかけて、もう一度篤の瞳を見つめてきたとき、
「あー! 中野があたしの男にちょっかい出してるー!」
優月が頬を膨らませてやってきた。
「い、いえっ! お嬢様、そんなつもりはっ!」
「これは始末書レベルね」
「そ、そんなぁ……」
「やめろ、優月。俺が話しかけたんだ」
言うと優月は驚いたように篤に振り向く。
「篤から話しかけるなんて意外。もしかしてこれは……浮気!?」
「違えよ、ばか」
「わかってるよ。ちょっとこういう茶番をやってみたかっただけ。もちろん始末書も冗談」
中野は優月の言葉に安堵したように胸をなでおろすと業務に戻ると言ってまた一礼する。そんな中野と別れ、篤は優月の案内で院内を進んだ。
「――ああ、そういえば中野が数週前の優月とは変わって毎日楽しそうだって言ってたけど、前なにかあったのか?」
それは篤にとって取るに足らない疑問だった。思ったことを半歩後ろから問うと、優月は目を見開いて振り向く。
「……篤、中野はそれ以上なにか言ってた?」
「いいや、別になにも言ってなかったけど」
「ならいいわ。特になんでもないから、気にしないで」
そうはっきりと言い放ち、「やっぱり始末書ね」と呟く優月と並んでエレベーターに乗り込む。優月は七階を押した。
「そういやさ。会わせたい人って誰なんだ? まさか優月の親父とかじゃ――」
「違うわよ。もしかして……緊張してるのっ? 可愛いなあ、よしよしー」
「ばか。別にそんなんじゃねえ。けどそうだったら、どうしようかとは正直思ってた」
「その時は素直に『娘さんを僕にください』って言えばいいじゃない」
小馬鹿にするように頭を撫でてくる優月にあほか、とデコピンを放つ。
すると、ちょうど扉が開き、二人は降りた。
フロアに降りると篤は周りを見渡して優月に向き直る。
「なあ、ここって……」
「見たままよね」
どこからともなく幼い子どもの泣き声が聞こえて、あちこちで若い母親のような人々が行き来している。なかにはパジャマ姿でうろつく幼稚園児くらいの姿もある。相原総合病院の七階は小児病棟フロアだった。
その中を優月は子どもに微笑みながら進む。そして曇ったガラス張りの重い扉を開き、さらにその奥にある目的地だという病室の前で壁をノックした。
扉はついていないが、中から幼い子どもの声が聞こえたのを確認してから優月は部屋に入り、「ばあっ! 優月だぞー! 遊びに来たぞー!」と笑う。
それにつられて篤も入ると、そこにいたのは絵本片手にベットに座る一人の幼女だった。
小学校低学年くらいだろうか。水玉柄のパジャマを着て、まだあどけなさしかないその子は、篤の顔を見ると、さっと布団をかぶって隠れこんでしまう。
「篤、恐いって。笑いなさいよ」
「いや、知らねえよ。まず誰だよこのガキは」
「その言い方はやめなさい。
言って、優月は弥生の布団を優しくめくると「恐いけど、恐くないから大丈夫だよー」なんて矛盾したことを言っている。
篤はとりあえず子どもが相手だし、と無理に笑ってみることにした。
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