第16話-「最後の晩餐を食べにきたの」③

「最後の晩餐を……食べる?」

「そうよ。最後の晩餐。あたしはそのために一ヶ月間ここに来て、篤の隣にいるの」


 篤は見上げてくる小さな笑顔にどこか寂寥感を覚えた。


 奇妙だ。優月は何でもないかのように笑っているのだけど、背筋は風がすり抜けたように寒気がする。それに自分の腕を握りしめる優月はどこか置いて行かれるのを拒む子どものようにも見える。そしてこの瞳。夕日に当てられてわずかに潤んだ両目。間違いなく篤の知っている瞳の色だった。


 必死になにかを求める風前の灯のような揺らめき。どこか切なくて、苦しくて、その中で懸命に手を伸ばしている表情。決して篤にはどうすることもできない深い闇を映したような色が健気で明るい優月とは不釣り合いに滲み出ている。


 優月の言葉は質問の回答としては滅茶苦茶だが、篤はそれ以上を問おうとせず、


「ふーん。なんかよくわかんねえけど、変わってんな」


 そう言って納得することにした。篤は経験でわかっていたのだ。それ以上踏み込むと自分が傷つくことを。理由は無いが、ただそんな気がしていたのだ。


 逆にそれで納得してもらった優月も目を見開く。


「え、ほんとにそれでいいの? 自分でもすっごく説明不足だと思ったんだけど……」

「べつに構わねえ。それにはっきり言いたくねえから、そうやって意味不明な言い方するんだろ? そういう時は俺にだってあるしよ」


 篤は竜也がいつも自分に「言いたくなったら言えよ」と笑ってくれるのを思い出していた。自分だって逃げる時はある。ならば無理に聞き出す必要もないだろう。それにこいつとは一ヶ月の関係だし。


 そんなことを考えながら再び歩き出すと優月ははちきれんばかりの笑顔で、さきほど名前で呼んだ時と同じように腕を締め付けた。


「ありがと、篤。……というか、やっぱり彼氏にしたのが篤で正解だったなぁ! あたしが目利きってことだよね?」

「そんなん知るか、ばか」

「ふふ、照れちゃって」

「照れてねえって」

「あたしがこんなにおっぱい擦り付けてるのに?」

「――っばっかじゃねえの! てか気にしないようにしてたんだから言うんじゃねえ!」


 頬を焦がして吐き捨てるように怒鳴る篤に優月はけらけらと笑う。

 篤はその笑顔に余計腹が立ってデコピンをかますが、それでも優月は笑い続けていた。


 その後は終始優月のペースに呑まれつつ、他愛も無い質問を繰り返しながら歩く。話を進めていると、どうやら篤の家は優月の通学路上にあることがわかり、優月は跳ねて喜んでいたが、篤は面倒事が増えた気がしてため息をついた。


 そして、もう家だろうという通りに差し掛かった時、


「――そういえば今日なっちゃんが言ってたけど、篤は中学時代かなり荒れてたらしいね」


 優月は疑うような目で篤を見据えた。

 篤は優月を一瞥すると、視線を元の高さに戻す。


「自覚はなかったけどそうみたいだな。でも中三くらいからは比較的普通だったと思うぞ。というか、なっちゃんって誰だよ」

「あたしの右隣の席にいる巻髪の子よ。知ってるでしょ? 篤と同じ中学だったって言ってたけど」

「そうなのか? 知らねえ」

「……うわ。本当に他人に興味ないのね。浮気の心配は皆無だけど、さすがにここまでくると呆れる。転校してきたあたしよりもクラスのこと知らないってどんだけよ」

「べつに知ってても良いことなんかないんだから、どっちだっていいだろ」

「ふーん……。でもまあその気持ち、今のあたしならわからなくもないかな」


 含みをもたせて呟いた優月はわずかに篤の右腕の縛りを解いたが、その右手はしっかりと篤の肘を掴んでいる。そして恐るおそる篤を覗きこむ。


「確か『柳中の鬼童』だっけ? すごく喧嘩強かったらしいね。いろいろ聞いた」

「ああ、そう呼ばれてたらしいな。よく知らねえけど」


 篤はあえてぶっきら棒に返す。


「高校生七人に対して無傷で相手は全員病院送りとか」

「べつにそこまでじゃねえよ。相手も五人くらいだったし」

「他中のヤンキー軍団を鉄バット一本で壊滅させたとか」

「武器は使わねえ主義だ。あっちが叩きつけてきたやつを取り上げたことはあったけど」

「あと自動販売機に火をつけて、警察署に身柄拘束されたとか」

「それは俺じゃない。たまたまやってる奴等をぶっとばしてたら、そのタイミングで警察が来て巻き込まれただけだ」


 単調に答えると優月はため息を溢した。


「そこまで事実と大差ないじゃない……。ねえ、なんでそんなに荒れてたの?」


 興味ありげに、でもどこか軽蔑を孕んだ優月の瞳に篤は胃が捻られた気がした。みんなこんなもんだ。こういう目で俺を見る。だから口調も粗くなる


「理由なんかねえよ。理由がわかるほど冷静なやつが、そんなことしないだろ」

「それはそうかもしれないけど、なにか――」

いて言うなら人を殴りたかった。誰でもいいからぶっとばしてやりたかった。それだけだ」

「……なにそれ、超犯罪的」

「だろ。これ聞いてもまだ彼女でいたいと思うか?」


 視線を戻して、優月を睨みつける。篤はこれで優月も自分から手を引くだろうと思っていた。周りの人間と同じように、こんな危ない男には近寄ってこないだろう。そんな威圧を込めた口ぶりで、睨みを利かせたつもりでいたのだが、


「――ふふふ……あははっ!」


 優月は押し殺していたと言えるほどの大きな笑いを吹き出した。


「誰でもいいから殴りたかったって……ふふ、どんだけよ! 狂ってる! 最高っ! お腹痛いっ!」


 もはや爆笑だった。

 篤は驚きを通り越し、すっかり怪訝な目で優月を見る。


 ちょっとこいつは頭のネジが飛んでいるみたいだ。急に彼女にしろとか言ったり、こんな話を聞いても爆笑するだなんて、どう考えても狂ってるのはおまえだろ、と篤は優月に対してある意味での恐れを抱く。


「ほんとに篤は馬鹿正直だよね。殴りたいから殴る。そりゃそうか。じゃあ、それ以上はあたしも聞かない」


 そして挑発するように篤に顔を近づけ、


「もしかして、それであたしが篤から手を引くだろうなんて考えてないよね? 無駄よ」


 右目をつむり可愛らしくウィンクする。ずっと握っていた篤の手を解放し、軽やかにワンターンを踏むと胸元で手を組み合わせ、


「一世一代の恋が肩書き付きの大不良だなんて余計に燃えるー! ファイヤー!!」


 なんて、わけのわからないことを言い出した優月を篤は唖然として見つめるしかない。そして優月は百パーセント自分の思う通りにはいかない女だということを完全に理解した。


 一通りやり終えてすっきりしたような表情の優月が耳にかかった髪を後ろに落ち着かせながら、もう一度隣に並ぶ。


「でもこうやって笑っていられるのは、それがもう過去の話だからなんだよね。だから聞くけど……篤は今でもそうなの? 誰かを殴りとばしたい衝動に駆られてる?」


 じっと心の内まで覗きこむような優月の真っ黒な瞳に篤はため息をつくと、


「いいや。今は違う。今はボクシングがあるからな」


 自分の右手を見つめて、はっきり言った。それは篤にとって、ある種のけじめでもある。


「ボクシング? やってるの?」

「ああ、そうだ。すぐそこのボクシングジムで。ほら、そこにあるやつ」


 篤が指差した先にはここらの建物の中では比較的に新しい佇まいのボクシングジムがあり、『老若男女大歓迎。立浪たつなみジム』と看板が出ている。


「え!? 立浪ジムってあの元WBCフェザー級王者のたつなみせいが経営してるジムでしょ?」

「女のくせによく知ってんな」

「そりゃ知ってるわよ。ここらじゃ有名だし、それにあたし立浪のファンだったもん。こう見えてボクシングとかは意外と好きなのよ! 理解のある彼女だと思わない?」

「理解があるか無いかは知らねえけど、立浪誠也は俺の叔父だ。それにあそこが俺ん家」


 胸を張り、できる嫁的なアピールをしてくる優月に必要な情報だけを言い渡すと、そいつはあんぐりと口を開けた。


「えっ!? ええっ!? 篤があの立浪の甥っ子!? それに家?」

「ああ、そうだよ。とは言っても俺の叔母の旦那だから血は繋がってねえけどな。とりあえず俺のコーチでもある。そんで俺はその叔母夫婦のとこで世話になってる」

「嘘……。あたしの彼氏は元最強不良で世界チャンプの甥。そして弟子……」

「そういうことになるな。じゃあ、俺はもう練習あるから――」

「て、えっ!? ちょ、ちょっと待ってよ!」


 いつのまにかジムの前に着くと、篤は振り向きもせず帰ろうとして、当然のごとく止められた。優月は「冗談でしょ?」と言わんばかりに目を見開いて呆けている。


「なんだよ? ちゃんと一緒に帰っただろ。それで俺はここが家なんだから、もうさよならだ。早く練習もしたいしな」

「いや、だからって……まだ話し足りないし、もう少し送ってくれたっていいじゃない」

「別に夜中でもねえんだから一人でも帰れるだろ。それに話ならまた今度で――」


 そこまで言って振り返り、しっかりと優月が視界に入った時、篤の息は止まった。

 俯いた優月は上目遣いで唇を尖らすと、子どもみたいに篤の袖を引っ張っているのだが、その儚さといい、哀愁といい……。篤の頭はよくわからない感情で埋め尽くされる。


 心臓がきゅっと締め付けられたように忙しなく、それでいて妙に景色が澄んでいた。その中心でわずかに頬を赤らめた優月が、半分までセーターを被せた手を口元に添えて、捨て猫のように見つめてくる。


 優月は目を逸らすと隠した口で呟いた。


「けど、けど……だって……寂しいんだもん。生まれて初めての放課後デートなのに、こんなあっさり帰っちゃうなんて酷いよ。というかあたしにこんなこと言わせないでよ。そもそも篤に拒否権なんかないんだから……」


 なぜか言葉は強気でもしゅんと肩を落とす優月に見入ってしまって、篤は生唾を飲んだ。そして頭をわしゃわしゃと掻く。


「っだぁぁ! しょうがねえなあ! すぐ先のコンビニまでだからな!」

「えっ! ほんとに!? ぃやったぁぁぁー!!」


 言ってすぐに優月は笑顔を取り戻すと軽くはねて、篤の腕を取る。はねると優月のスカートはふんわりと舞い、頭の御団子髪も嬉しそうにぴょこぴょことバウンドしていた。


 篤はそんな優月に微笑むが、なんで俺は今笑ったんだ。と自分を顧みて混乱し、そんな自問自答を繰り返す篤の横顔に再び優月は呼びかける。


「そうだ! もう一つお願いって言うか、約束したいことがあるんだけど……」

「なんだ?」と篤は顔を向ける。

「あのね。今週末ちゃんとしたデートに行こうと思うんだけど、篤はどこがい――」

「それは絶対に無理だ」


 即答だった。行くことを前提に話し始めようとした優月は雷に打たれたかのようにガクッと体勢を崩す。


「な、なんでよっ!? さっきも言ったけど篤に拒否権は」

「来週末に試合が控えてる」


 篤は深く、鈍器で打つような声で優月の言葉を遮る。


「だから今週末の練習は手を抜きたくねえ。それはいくら例の写真をばらまかれようが、絶対に譲れない」

「で、でも、あたし達には時間がない――」


 必死に説得しようと篤を見上げたところで優月は気付いた。まだ出会って二日しか経っていないが、たぶんこれが早乙女篤の本気の目だ。その真っ直ぐな瞳の奥で闘志というにはあまりにも粗削りな何かが業火のように揺らいでいる。


 こんな顔をされては優月も落ち込みながら認めるしかない。


「そ、そう……。いいわ。あたし心の広い女だから。それくらい認めてあげるわよ」

「ほんとか? ありがとな」


 ふいに篤は少年のような笑顔を見せる。

 間近でそれを見た優月は一瞬その場で硬直すると、


「なんだ……そういう顔もできるんじゃない。それにありがとう、ってちゃんと言えるんだ……」

「え? どういうことだよ?」


 小さく囁き、不思議そうに見つめる篤の横で優しく笑顔を咲かせていた。

 出会って二日目。静寂な街並に佇む二人の長い影。

 優月自身もなにかが動き始めた夕暮れだった。

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