第11話

 デュマはあらん限りの力を持って走り続けた。

 迫り来るあやかしから少しでも距離をかせごうと腕を振り上げ、足を回転させた。意外にも最初に限界がきたのは広背筋こうはいきんだった。そういえば誰かが走ることに重要なのは引く力だと言っていた気がする。明日から毎日懸垂けんすいをしようと誓う――明日が来ればの話だが…。

 向かい風が目にみて瞳に涙が浮かぶ。

 そんなことに構わず走り続けていると突然、かすむ視界を何かが横切った。


(えっ?)

 混乱する頭に追い打ちをかけるように重力が反転する。頭からやぶに突っ込み、そこでデュマは木の根に足を引っ掛け転んだことを理解した。

 立ち上がろうと地面に腕を突き立てた瞬間に気持ちが悪くなり嘔吐おうとする。どうやらかなり体に無茶を強いたようだ。

 このまま地にせってしまいたい誘惑にあらがい、なんとか立ち上がる。背中に背負ったさやから不似合いな長物ながものを引き抜き構える。

 一応剣の手解てほどきを受けてはいたし、父や村の大人たちと協力して妖と何度か戦ったことはある。


 しかし、今日出くわした妖は、見たこともないほど巨大化した――猫ぐらいの大きさもある羽虫はむしであった。しかも一匹ではなく群れをなしており、恐怖のあまりデュマは全速力で駆け出していたのだ。

 あれほど肥大化した奇形の妖は初めてみる。

 だが覚悟を決めなくてはならない。つばを飲み込み、呼吸を整える。緊張で強張こわばった体をほぐす。


(大丈夫、僕ならできる)そう自分に言い聞かせ意識を集中させる。

 ぱきっと枝を踏み抜いたような乾いた音が響く。

 デュマはびくりと身を震わせ、音のした方へ重心をかたむける。そこで何かがおかしいことに気付く。

(妖は飛んでたのに、なんで枝の折れる音がするんだ!?)

 薄暗い森の奥に、得体えたいの知れない恐怖を感じながらも、気を強く持てと自らを叱咤しったする。


「剣を納めなさい」

 女性の声だ。予想外のことにデュマは一瞬気を緩める。

(いや、おかしいじゃないか。なんでこんなところに女がいるんだ?)

 その疑問に至り、すぐさま気を引き締め直す。

「まあ、そうよね」女は少し満足そうな笑みを口元に浮かべる。

 年は二十代半ばといったところか。身長はデュマよりも高そうで百六十センチメートル台後半くらい。短く切った黒髪に黒革のダブルライダースジャケット。猫科の動物を思わせる、つり上がった大きな眼と薄い唇。なかなかに可愛らしい容貌ようぼうだが、不似合いな双剣を腰に下げているのが一際ひときわ目を引いた。


「人間…ですか?」恐る恐るいてみる。

「失敬な。それ以外のなんに見えるってのよ」ムッとした様子で女は答える。「そんなことより剣を仕舞いな。でないと痛い目を見ることになるわよ」

「あなたが敵でないという保証がありません」

「何その言い草。人がせっかく助けたってのに、失敬で失礼で無礼よ。まるでうちの弟みたい!」

「全部同じ意味です…いや弟さんのことは知りませんけど…」デュマは律儀りちぎに答える。


――と、女は五メートル近い距離を一跳びでめ、デュマの腕に鋭い手刀を放つ。

「〜っ!!」予想しなかった痛みに声すら出ない。

 女はさらに左手でデュマの胸倉むなぐらを掴み、足払いをかけ体制を崩す。デュマから奪った剣を、右逆手みぎさかてで構え、そのままこちらの左眼目掛ひだりめめがけて突き下ろす。

 流れるような動きにまばたきすらできない。寸止めされた切っ先に気付くまで、たっぷり三秒かかり、遅れてきた恐怖に目を強く閉じ逃げるように顔を逸らす。


吃驚びっくりした?」

 女は無邪気な声でそう問いかけてくると、デュマの体を引き寄せそのまま剣を鞘に納めた。

 吃驚したどころの話ではない。身体中のあらゆる器官が収縮している。

「迷子?家族とはぐれたの?」

「違います。村に帰る途中で妖に追われて…」

「村?」女がしかめっつらで首をかしげる。「この辺にそんなんあったけか?」


 しまった、外の人間に村の話をしてはいけないと口すっぱく言われていたのに、つい口を滑らせてしまった。

「すみません、ちょっと混乱してるようで、頭も打ったし…うう、そういえば僕は誰なんだ…」

「そうなの、それは困ったわね」そう言うと女は手近にあった、成人男性の頭くらいの岩を持ち上げ振りかぶった。

「うわあああぁぁぁーー!な、何するんですかぁ!?」デュマは両腕で頭を覆い後ずさる。

「え?もう一度頭を打ち付ければ思い出すんじゃないかと思って」本気か嘘かわからないことを真顔で言いせまってくる。

「死んじゃいますよ、馬鹿!」

「む、人の親切心に暴言で応酬してくるなんて…あんたに歪んだ教育をした親に文句の一つも言ってやらないと、本当にこの岩をあんたの頭めがけて振り下ろしかねないわね」


 村の大人たちが言っていたことは本当だったんだ。外の人間は妖より恐ろしいって…。

「うわぁー、不思議だな。全部思い出した。僕の名前はデュマ、十五歳。この近くにあるナイカ村に住んでます。助けていただいて本当にありがとうございました。それじゃあ、もう二度と会うことがないよう願ってます、さようなら」

 完璧な礼と挨拶あいさつをし、デュマは全速力で森を駆け抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る