第4話 歯車

 俺は電話を掛けていた。スマホの電話機能なんて忘れかけていたレベルだが、ふと思い出した。

 友人というキーワードで、思い当たる人間を脳内検索してみた。すぐには辿り着けなかったが、一人ヒットした。それは学生時代の友人。その頃は俺もまだ普通だった、と思っている。少なくとも、今よりはまともだった。

 兎にも角にも、俺は電話をかけている。その手は少し震え、冷えた部屋でじっとりと汗をかいていた。

 何も恐れることはない。ただ、声を交わすだけだ。少し遠くに感じられたコール音から、不在の旨を告げられる。

 ほっとしながらも、今度は何で出てくれないのかといった考えで、頭がいっぱいになる。

 何か用事でもあったか、気付かなかっただけだ。何度か自分に言い聞かせ、今度はメッセージを送る。

「久しぶり、最近どうしてる?」

 それを聞いて、俺はどうしようと思ったのだろう。オンライン上の少女に影響されたからなのか。あるいは、ただの気まぐれなのかもしれない。

 スマホを枕元に放り、ベッドで横になる。明日はバイトだ。意識してその考えを外に追いやる。明日のことを考えて不安になっている自分に、うんざりした。

 スマホでたいして面白くもないゲームをしながら、俺は眠りについた。


 久しぶりに外に出た。想像していた以上に暑かった。吹き出る汗を拭いながら自転車を漕いだ。空気がまとわりつく。でも、もう少しで俺の好きな場所。

 自転車を止め、深呼吸をした。湿った緑の空気が体内に溶ける。生ぬるい風が、汗を冷やす。小さな丘のてっぺんからは町の一部が見下ろせた。遠くに海も見える。今日は空と海の境界がくっきりと出ている。

 この坂を下って、駅の方に少し行けば俺のバイト先がある。ここからの景色で十分に充電してから、俺はバイトに向かう。生きていくには、働くしかない。少なくとも、俺はそうしなくては生きていけない。


 じゅうじゅうとハンバーグを焼く。チキンを焼く。ポテトを揚げる。またハンバーグを焼く。ハンバーグを焼く。

 だんだんと、自分が何を焼いているのか分からなくなってくる。何のために焼いているのか分からなくなってくる。

 それでも俺は作業を続ける。こんなものは料理ではなく、ただの作業だ。

 幸いなのは、人と接しなくていいこと。機械が俺に焼くべきものを知らせてくれる。それを制限時間内にこなしていく。さながらゲームのようだと感じたこともあるが、楽しくはない。いや、だからこそゲームなのか。

 最低限のコミュニケーションは、返事だけで事足りる。楽しくもなければ、辛くもない。それで十分だった。

 帰り際、青い靴の女性から声を掛けられた。少ししわがれた、特徴的な声。

「お先に失礼します」

 店長であるその青い靴に、俺は小さくあいさつを済ませ、店を出る。


 十分に疲れた。だけど今日はこれで終わりではない。自分の手の平から漂う、肉の臭いに眉をひそめる。手を洗いにトイレに向かった。

 駅前、人混み、喧噪。吐き気がした。黒いスーツと肩が当たり、不意に俺は顔を上げてしまった。

 輪郭の掴めない顔をしたスーツ男は、何かを吐くように呟き去っていった。

 電話をかけながら歩くワイシャツ、スマホをせわしなく操作しながら歩くティーシャツ、キンキンした声で喚き散らすキャミソール、ワンピース。

 こいつらの顔は、まるでピエロのように見える。泣いているのか笑っているのかわからない。暖かいのか冷たいのかわからない。

 ピエロの群衆をかき分け、俺はベンチに腰を下ろす。汗を拭い、息を整える。

 目的地で用事を終えた頃には、疲労困憊も甚だしかった。他人とすれ違うだけで、精神が削り取られていく。

 その夜、俺はまた夢を見た。いつもの悪夢。目が覚めて、いつもの日常であることに安堵し、そしてその日常に不安になる。よし、いつも通りだ。

 スマホが小さく震えた。くだらない通知だろうと思いながら、反射的に目をやる。

 昨夜電話をした友人からのメールだった。


 その友人の名は、一式紡いっしきつむぐ。三年前ぐらい前から、ずっと眠ったままらしい。この連絡をするまで知らなかった自分を悔いた。

「見舞いに来てあげて」

 そう母親から告げられたのでバイト帰りに病院に寄った。そのお礼のメールだった。

 俺は電脳世界に逃避し、紡は夢世界に逃避した。身体に異常はないらしい。原因不明。

 俺もその言葉を医師から告げられたことがある。原因不明。なぜ他人を識別できないのか、なぜ表情を読み取ることができないのか。先天的なものではないため、心の病だろう。白衣を着たピエロはそういった。

 紡も同じようなことを告げられたのだろう。あいつはきっと夢の中で戦っている。なんで俺は気付いてやれなかったのか。なんで、相談してくれなかったのか。そう考え、それはお互いさまだとまた悔いた。

 やるせない気持ちで、俺は交差点に目をやった。感情を持って世界を見ると、まったく違ったものに見える。

 いや、実際違ったのだ。長い髪の少女が、そこに居た。交差点の真ん中に。まるで何十年もそこに居たかのように溶け込み、錆びたナットが固着するように佇んでいた。

 だけどそこだけ色を持ち、俺の中の何かが脈を打った。

 いつまで俺は傍観者を気取るのか。いつまで俺は歩き出せないままなのか。信号が点滅を始めると同時に、俺は部屋を飛び出した。 

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