第10話『最高のエンターテイメント』
タイトル『最高のエンターテイメント』
主人公『田中丈晴さん』
キーワード『神の数式』『エンタメ』『ロンギヌスの槍』
8月の終わり。
太陽は、まだ燦燦と輝いているのに、切なさが漂う18番ホール。
私は、手に熱い汗を握りしめ、ある、一人の若いゴルファーを瞬きもせずに見つめている。
私が代表を務める、服部大池ゴルフクラブで育った選手が、最終プロテストにチャレンジする日が来た。
彼の成功を願ってやまないのとともに、昔、薄っすらと心に宿った、プロゴルファーへの憧れが、彼に漂う緊張感を通じて、私の体内にアドレナリンを大量に分泌させた。
ゴルフクラブを握ったことのある者ならば、誰もが思いを馳せるだろう頂点への妄想を、例外なく私も経験してきた。
プロへの道は果てしなく、そして険しい。まるで、毎日毎日、同じ道を何度も舗装し続ける様な日々が終わりなく続く。アスファルトの上に、更に、アスファルトを重ね、昨日よりも少しでも平らになっただろうか、白線のゆがみは昨日よりも真っすぐになっただろうかと、三角定規をあてても分からないような微妙な調整を、結果も見えないままに続けていく。その微妙な差に何の違いがあるのだろうかと疑問を自分に投げかけては、自分で否定する日々を繰り返し続けた者だけが、今日、あのグリーンの上にいるのだ。
見上げれば、暮れていくはずの輝く太陽は、益々勢いを増してきたようにさえ感じる。
あの太陽は、かつてイカロスの羽を焼き尽くしたように、どれ程のアマチュアゴルファーを焦がし、ふるい落としてきたのだろうか。
プロテスト受験者は、プレ予選に始まり、第1次、第2次テストを経て、そのほとんどがふるい落とされ、最終プロテストに辿り着くのはほんの一握りだ。その、最終プロテストは、この灼熱の8月に、4日連続でプレーを行い、その内、スコア上位50位タイまでが合格となる。
50位の選手と51位の選手の実力に、どれほどの差があるというのだろうか。きっと、髪の毛一本ほどの差もないのだろう。それでもボーダーラインが、その二人を無情に分ける。
そう、彼は髪の毛一本ほどの細い糸の上でパターを握っているようにさえ見える。
最終組でプレーをする者は、プレーが終わった時点で順位が決まる。先にホールアウトした選手は、選挙の開票を待つように、当選確実の報を待っている。次々とホールアウトする選手が増えるたびに、50位以内に留まる事が確定する選手と、逆に50位に届かないと確定する選手も増えていく。
やがて、最終組が18番ホールに回って来た時、まだ順位が確定していない選手が二人だけ残っていた。
私が、今まさに、手に汗を握って見つめいている若い選手が、その内の一人だ。
私が毎日手入れをしているゴルフ練習場に、小学生のころから通っていて、暑い日も、寒い日も、来る日も来る日も、欠かさず練習にやってきた。
ゴルフが好きでたまらない、一目でそうわかる笑顔に、わたしの方が励まされていたのかもしれない。
私は、彼の一挙手一投足に至るまで、つぶさに見逃さずに覚えている。一言でいえば、それほど、目が離せない魅力を持ったゴルファーなのだ。
そしてもう一人、50位タイで並んでいるライバルは、私と同年代のゴルファーだ。服部大池ゴルフクラブにも何度も練習に来てくれた。彼の奥さんが、いつもお弁当を抱えて、練習に付いてきていた。仲睦まじい姿が微笑ましかった。
彼は、長年レッスンプロとして活躍しつつ、ツアープロに挑戦していたが、前回、ついにシニアの年代に入り、最後の挑戦と腹をくくって参加したと聞いた。
しかし、最終プロテストで一打差で涙を呑んだ。
運命とはこうも人に辛くあたるのかと、私は怒りさえ覚えた。私は彼に声をかけることができなかったことを後悔した。しかし、今年に入って、さんざん迷った挙げ句に、最後の最後の延長戦と言って再戦し、そして、最終プロテスト合格ラインギリギリの50位タイでホールアウトした。
今回もまた、一打差で涙を呑むのか、それとも……彼の心中は察してあまりある。
彼らは年代は違えど、互いに認め合ったゴルファー同士で、どちらが落ちても恨みっこなしとは思っていても、内心は互いを意識せずにはいられないだろう。
熟練の安定したゴルフで、着実に順位を上げてきた老兵とは対照的に、若者は、3日目に猛チャージを見せて、一気に50位以内に急上昇してきた。最終日の今日は、ボギーとバーディを繰り返す荒れた展開に苦しんでいる。ようやく18番ホールに辿り着いたとき、彼の順位は50位タイ。
つまり、彼がこのホールでバーディーを取れば、文句なくプロテスト合格。もちろん、パーでも同順50位で合格が決まる。しかし、今日の彼の荒れたパターでは、一気にダブルボギーを叩いてもおかしくはない。
最終組の18番ホールは、異様な雰囲気に包まれていた。一打目をバンカーにつかまりつつも、なんとかリカバリーで挽回し、二段グリーンのカップから最も離れた位置へと付けた。可能性は低いが、バーディーチャンスのロングパットを構える。
私の手は、長い間、固く握ったままで、握力の衰えを感じてきた。
他人のことで、こんなに一生懸命になったことがあるだろうか。
いや、違う。他人事ではない。私は彼に憑依して、一緒に戦っているのだ。あのとき夢見た、薄っすらとした欲望を押し込めたあの日に戻って、ゴルファーへの夢の扉を再度開け放ったのだ。
彼は、ロングパットを構えたまま動かない。バーディを狙っているのだ。一打外しても、次で入れればプロゴルファーになれる。しかし、そんな事は彼の頭にはないのかもしれない。いや、考えないはずがない。どんな名選手でも、パーで勝てる試合で、バーディを無理して狙うことはほとんどないだろう。彼だって同じのはずだ。しかし、ここでバーディを狙わない若手選手に、明日はあるだろうか、いや、その逆なのかもしれない。そんな考えが、彼の中にも渦巻いているはずだ。
彼に憑依した私は、彼と同じように疲弊して、もしかしたら、もう死んでしまっているのかも知れないと錯覚するほど、自分の体を自分のものとして動かすことをためらった。
例え、イエス・キリストが、絶命したかどうかを確かめるために用いられたというロンギヌスの槍で、私の体を貫いても、私は声一つ挙げず、このパットが終わるのを見届けるだろう。
そうだ、神ならば、このパットを沈めるための道筋を知っているのだろうか、であれば教えてほしい。この広い二段グリーンのカップへ向かう唯一の道筋を、私と彼に指し示してほしい。神の計算式を解くように、私と、彼は呼吸を合わせ、一つ一つを再確認する。頭と肩の位置、緊張するとグリップを強く握ってしまう癖、頬を伝う汗の一粒一粒までの全てに神経を尖らせて、方程式を解いていく。
長い長い時間が過ぎる。太陽がこんなに早く動いているということに驚いた。彼から見下ろすゴルフボールの影が、長く傾いてきたように見える。
このまま、何も考えないで、パターを振り抜いても構わない。このロングパットを強く叩きすぎるなんてことは常識から言ってありえない。とにかく強く叩いておけば、確実にカップへ近づくのだ。先送りすればいい。次のパットで確実に沈めればよいのだ。
いや、やはりそれではだめだ。正しい戦略ではあるが、逃げの気持ちからそれを選んではいけない。そうすれば、きっと、次のパットからも逃げたくなるに違いない。
打ち抜くんだ。
そう決意したとき、まさに勝利への道が目の前に現れた。パターからカップまでの道筋が、虹色に輝く光の帯となって、この目に見える。きっと彼にも見えているはずだ。私は彼と一体になったまま、肩の力を抜き、パターを大きめに振りかぶる。
大きく振りかぶったパターはピッチングウェッジの軌道で、ゴルフボールを強くヒットした。誰が見ても強すぎると感じただろう。しかし、それは誰もがツーパットを想定しているからに他ならない。
おそらく、私と彼だけが、ボールの道筋に確信を持っていた。ロングパットはツツツと音を立てて、美しい曲線を描き、カップを目指す。
静寂が訪れる。
蝉の鳴き声が聞こえない。
彼らも息を呑む瞬間があるのだろうか。
――カコン
静寂を破って、大きな歓声が聞こえてきた。いつの間にか、太陽はその勢いを潜め、夕暮れが近いことを告げていた。
最終組の、最終パットにこんなドラマが待っているなんて、誰が予想しただろうか。私は自然と込み上げる涙を肩に下げたタオルで拭い、彼を見た。
万編の笑みでガッツポーズをとった彼を、同じ組のプレイヤーが抱きしめる。喜びの咆哮を上げた彼は、打って変わって、静かに、ある一点を見つめた。
視線の先には、たった今、単独51位となり、前回に続いて一打差でツアープロへのキップを失った、あの男がいた。
深くかぶったキャップの影となり、その表情は見えなかったが、力強く拍手を贈るその男の姿は、太陽に映えて美しかった。
傍らには、いつもお弁当を担いでいた、彼の奥さんがいる。彼女は、拍手を続ける彼の後ろに立ち、両手を彼の両肩に添えた。きっと、肩を揉もうとしたのだろう、ずっと寄り添ってきたゴルフ人生を、ねぎらおうとしたのだろう。しかし、彼女はうつむいて、額を彼の背中に押し当てた。
鳴りやまない拍手。
この場にいる、全ての人の心を掴んで離さないアート。
最高のエンターテイメントとは何だろう。
拍手を贈るあの男は、わかっているだろうか、彼自身もまた、最高のエンタメの主役であることを。
おしまい
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