第9話 魔法の苺と金色の桑の実 ~奈津子の夢~
タイトル『魔法の苺と金色の桑の実』
キーワード 『猫』『空』『苺』
主人公『奈津子』
「もう、おかあさ~ん、また寝てるの? しょうがないなぁ」
息子の声が遠くに聞こえる。どうやら、私は、また眠ってしまっていたようだ。
昔から、眠るのは好きだったけれど、最近、気が付いたら眠りに落ちていることがある。
そして、決まって、夢を見る。
私は猫になって、世界中を旅する。
ある時は、海賊王の三毛猫。
ある時は、エッフェル塔に住んでいるキジトラだったりした。
今日はどんな猫になったのかというと……ああ、また眠気が襲ってくる。
今日は夕飯が遅くなりそうだ。ごめんね、みんな……。
◇◆◇
帆船のマストのてっぺんから、オレンジ色に輝く水平線を眺める。
海の向こうに『伝説の魔法の苺』があるのだろうか?
僕は猫だ。
こんなに高いところから見ても、向こう側が見えない海と呼ばれる水たまり。
オレンジ色の太陽が沈むほどに、ピンク色へと染まっていく空。
振り返れば、夕暮れにも賑わいを見せる港町。
水は嫌いだ。できれば、引き返したい。
昔、僕は飼い猫だった。
幸せな家庭に飼われ、何不自由なく育った。でも、ある日、その家を飛び出した。
世界のどこかには『伝説の魔法の苺』があって、どんな願い事も叶えてくれる。
僕は、恵まれて育ったけれども、叶えたい願い事がひとつだけあった。
「お母さんに会いたい」
僕は、どうやら子猫の時にあの家にもらわれてきたらしい。
『リチェルカ』という名前をもらい、もちろん、そこには、とっても楽しい生活があって、それはそれで良かったんだけれど、でも、お母さんがどこかにいると思ったら、何か、胸がそわそわして、家を飛び出さずにはいられなくなっていたんだ。
そう、リチェルカと呼ばれるたびに、僕にはもうひとつ、本当の名前があったんだと思い出してしまうからだ。その名前は、もう覚えていないけれど。
そして、僕はお母さんを探す旅に出た。
旅には出たんだけれども、お母さんがどこにいるか、何の手がかりもなくって、ただ、迷い猫として彷徨う日々でしかなかった。
そんな中で、初めて手掛りらしい話を聞いたんだ。ある男の子が話してくれた。
「世界のどこかには『伝説の魔法の苺』があって、どんな願い事も叶えてくれる」
ある人は、王様になった。
ある人は、大金持ちになった。
じゃあ君は何を願う?
そう僕ならば、お母さんの居場所を教えて欲しい。
お母さんに会いたい。
僕の生まれたこの国は、周りを海に囲まれているらしいということもわかった。だから船に乗らないといけない。この、目の前にある大きな帆船に乗って、外国に行かないといけないんだ。
もう僕は子猫じゃなくなっていた。体も大きくなって、行ける範囲も随分広くなった。そして、今、僕はこの港町にいる。
『伝説の魔法の苺』はどうやら外国にあるらしいと言う噂を耳にした。
でも、僕は泳げない。海は嫌いだ。
大きな帆船の、高い高いマストのてっぺんから眺める水平線は、もしかすると、地面より、水たまりの方が大きいんじゃないかと疑うほど、広くて果てしない。
こんなに見渡す限りの水の上に、この船で乗り出して、旅を続けることができるんだろうか。僕は不安でしょうがなかった。もし船員に捕まって、海に放り出されたらひとたまりもない。
振り返れば、古い港町が夕日に染まっている。町の向こうには豊かな田園が広がっていて、さらに先には、かつて苦労して越えてきた、高い山並みがそびえる。山々は、その恐ろしさを可愛らしいピンク色の夕映えで隠している。
僕は行かなければならない。
でなければ、あの山を越えてきた甲斐がない。でも、大の苦手である大きな水たまりを目の当たりにして、僕は決めあぐねていた。このまま、このマストのてっぺんで寝てしまえば、明日の朝には出航して、もう戻ることはできない。考えなくても、自然と海へ出ているはずだ。
しかし、そんなやり方で決めてしまってもいい事なのだろうか。だめだと思うけれど、もう他に行くところは思いつかない。
「魔法の苺~ 魔法の苺はいらんかね~」
そんな時、こんな声が聞こえてきた。僕は思わずマストから帆先まで駆け出して、しっかりと爪を立てて身を乗り出し、その声が、だんだんと遠ざかる方向を見た。
すると、変な格好をした一人の男が、苺を売り歩いているようだ。
手から下げたカゴの中に、夕日に染まって、いっそう赤い、大粒の苺らしきものが見える。僕は急いで、マストを逆さまに駆け下りて、デッキを歩いている船員の頭めがけて飛び降りた。一番着地しやすそうだと思ったガタイのいい男は、期待通りのいい土台だった。
「このノラネコめ! 真っ黒で薄気味悪やつだ! 懲らしめてやる!」
ガタイのいい船員は、そう、いきり立ったが、僕はもうこの船には用はない。
魔法の苺が見つかったのだから、わざわざ遠い外国へ、大きな大きな水たまりを越えてまで行く必要はない。
船から船着き場へと渡された、頼りない架け橋を揺らしながら、さながら風のように渡り切り、桟橋で積み荷を運ぶ男たちの足元を、稲妻のようにジグザグと駆け抜けて、あっという間に街へ入った。
夕闇迫る港町は、ぽつぽつと明かりがともり始め、昼間は市場のような賑わいを見せた海沿い通りの果物横丁も、だんだんと夜の繁華街へと装いを変えていく。
僕は苺売りを見つけた方向へ、注意深く辺りを見回しながら速足で進んだ。暗くなる前に見つけなければと心配をしていたが、苺売りは、まるで、僕を待っていたかのように、道の真ん中に立っていた。
僕は立ち止まって、苺売りを眺めた。気が付けば辺りに人影はなく、苺売りと僕の長い影だけが、素知らぬ顔でこちらをうかがっているように見えた。
「苺はいらんかね? 黄色い瞳の黒猫君」
不思議なことに、その苺売りは、人間語訛りの猫の言葉で話しかけてきた。僕は、警戒心を緩めないまま、ゆっくりと苺売りの前まで歩いた。前足の肉球が、歩を進めるほどに、ピリピリと痺れるように痛んだ。全身の神経が肉球に集まっているかのようだ。
「僕が探してるのは魔法の苺なんだ。あんた、その手提げカゴに入っているのは、魔法の苺なのかい?」
苺売りは、近くで見ると、なんだか薄気味が悪い。真っ白に塗られた顔に、目の周りには、赤く縁どられた、大きくて真っ赤な唇。夕空と同じピンク色に染まってはいるが、おそらく、緑と黄色のストライプのツナギを着ている。僕は知っている、これは、ピエロの衣装だ。
苺売りは、僕をじっと見つめたあと、
「そうだよ、魔法の苺だよ、ひと粒食べれば1つ願い事が叶うんだ。このカゴには100個のイチゴが入っているから、全部で100個の願い事が叶う。すごいだろ?」
「なんで魔法の苺を自分で食べないんだい? あんたが100個の苺を食べて、100個の願い事を叶えればいいじゃないか、それは本物の魔法の苺なのかい?」
その風貌とは裏腹に、真摯に猫の話を聞く佇まい、なにより澄んだ青い瞳が、僕の心を癒し、掴もうとする。いや、怪しい、返って警戒心が強くなる。とてつもなく怪しいけれど、やっと見つけた魔法の苺の手がかりは、どちらにしろ、そうやすやすとは手離せない。
「君は賢い猫だねぇ。実は、もう、僕は苺を食べたんだ。そして、願い事をした。僕はね『みんなに幸せになって欲しい』という願い事をしたんだ。そしたらね、1つの苺を食べた後、目の前に100個の苺が現れて『この100個の苺を、100人に食べさせなさい。そうすれば、100人の願い事が叶って、みんなが幸せになるだろう』って言うんだよ」
「誰がそんな事を言ったんだ? 魔法使いが現れたとでも?」
「いや、その現れた100個の苺の中のひと粒が、口を開いてそう言ったんだよ。もう、1週間も前の話だ。しかし、この100個の苺は、腐るどころか、いつまでもこんなにも瑞々しく輝いている。本当に魔法の苺で間違いないさ」
苺売りの言う事を真に受けてもいいのだろうか、僕は黙って考えていたが、答えなんか出るはずがない。出会ったばかりのこの苺売りを信じる材料なんてどこにもない。
わかっているのは、僕は魔法の苺を探していて、もしかしたら本物の魔法の苺が目の前にあるかもしれないという事だけだ。
「わかったよ。どうやったら、その苺を僕にくれるんだい?」
「やっぱり頭のいい黒猫さんだね、そう、条件がひとつだけあるんだ。魔法の苺が言うには『沢山あるからと言って、ただで配ってはいけないよ、ただで配ったらくだらない願いばかりを叶えることになるからね』ってさ。ちゃんと自分の願い事に見合ったお金を払って夢を叶えようっていう人にしかあげられないんだよ」
「ほんとかな?」
「本当だ。僕だって、ちゃんとお金を払って最初の魔法の苺を手に入れたんだからね。とにかく試してみるがいいさ。僕もまだ、願いがかなったわけじゃない。100個も魔法の苺を配って歩かないといけないんだ。大変だよ? ところで、君の願い事は何なんだい?」
僕は疑いの心を拭えないままだ、しかし、試してみる以外の選択肢はなかった。
「僕はお母さんに会いたいんだ。まだ何も覚えていない頃に別れたお母さんが、この世界のどこかにいる。お母さんに会うためにずっと旅を続けてきたんだ。お母さんに会いたい」
苺売りは青い瞳を潤ませて、僕に合わせてしゃがみこんで視線を下げた。
「お母さんに会いたいのかい。それはいい願い事だね。僕も、是非、君に願い事を叶えて欲しいよ。じゃあ、君が、お母さんに会いたい、その思いを込めた魔法の苺の値段を決めてくれるかい?」
「お金なんて僕は持ってないよ。だって野良猫なんだからね」
「そうかい、残念だな。だったらこの魔法の苺を君にあげられない。君が思う価値を手に入れて、また、ここに買いに来てくれよ。お母さんに会うためには、どれぐらいのお金が必要だと思うかい? いいかい? 金額は重要じゃぁない、気持ちが大切なんだよ」
そうして、僕は、また旅を始めた。魔法の苺を探す旅から、今度はお金を稼ぐための旅になった。
でも、野良猫には、なかなかお金を稼ぐなんてことはできない。けれど、お母さんに会いたいっていう願い事はとってもとっても大きいから、お金もとってもとってもたくさん必要だと思った。
僕はお母さんに会うためにはお金がどれぐらい必要なんだろうかと考えながら、町から町へと旅を続けた。
お母さんを探す旅から、お金を儲ける方法を探す旅になった。
旅を続けるうちに、ある男に出会った。
「お金を稼ぎたい人はいないかい? とっておきの儲け話があるんだよ」
僕は思わず彼に声をかけた。
「僕は野良猫なんだけどお金が欲しいんだ。どうやったらお金が稼げるんだい?」
「野良猫か……野良猫にお金を稼ぐことが出来るのかな? お金を儲けるためには、お金が必要なんだ、わかるかい? 原資っていうんだよ。お金を稼ぐために必要な元手を用意することはできるかな? できないよね? 君に儲け話をすることはできないな」
お金を稼ぐためにはお金が必要だなんて知らなかった。じゃあ、一文無しの僕には、一生お金を手に入れられないじゃないか。僕は絶望した。
「しょうがないねぇ、じゃあ、僕の仕事を引き受けたら、お金をあげよう。労働って言うんだよ。そう、金色の桑の実を持ってくるといい」
「金色の桑の実?」
「そうさ、この辺りには伝説があってね金色の桑の実を手に入れたものは、無限の富を手に入れると言われているんだよ。人間には見つけることが難しいんだが、もしかすると、猫には見つけられるかもしれないよ」
「分かったよ、じゃあ僕は金色の桑の実を探しに行くよ。必ず見つけるから、必ず買い取ってくれよ」
そして僕は旅を続けた。お金を稼ぐ旅から、金色の桑の実を探す旅になった。
そして、とても苦労したけれど、僕は見事に金色の桑の実がなった金色の桑の木を見つけた。深い深い森の中の、奥へ奥へと入っていって、やっと見つけた金色に光り輝く木だった。
金色の桑の木から金色の桑の実を取ろうとすると、金色の桑の木が話しかけてきた。
「黄色い瞳の黒猫君、よくここを見つけたね。ご褒美にひとつだけ金色の桑の実をあげよう」
僕はお礼を言って、その金色の桑の実を男のところへ持っていった。
「そうだ、確かに金色の桑の実だよ。よくやったね、やっぱり猫には見つけやすいのかもしれないね、ほら、報酬だ、この1000リヴラを君に上げるよ、これだけあれば猫なら10日は食えるだろ? よし、もっとたくさんの金色の桑の実を持ってくれば、もっとたくさんお金をあげよう。君はたくさんお金が欲しいんだよね?」
僕は、そうして、たくさんたくさん金色の桑の実を集めることにした。1000リヴラじゃ足りないと思ったんだ。お母さんに会うには、もっともっとたくさんお金が必要だ。だって大切な大切な願い事なんだから。
僕は金色の桑の木にお願いした。でも、金色の桑の木は首を縦に振らなかった。
「だめだよ、実は一人ひとつずつと決めているんだ。そうしないと、みんなが幸せになれないからね」
僕は、考えて考えて、やっといいアイディアを思いついた。早速、急いで町へ向かうと、金色の桑の実1個を売って稼いだ1000リヴラで鰹節をたっぷり買い込んだ。そして、町じゅうの野良猫を集めて、鰹節と金色の桑の実を交換すると宣伝して回った。
初めは誰も話を聞いてくれなかった。でも、誠心誠意お願いすることで、話を聞いてくれるようになった。そして、鰹節の芳醇な香りが手伝って、みんなが僕を助けてくれた。
沢山集まってくれた猫たちに、黄色の桑の実を、金色の桑の木から取ってきてもらい、代わりに少しの鰹節を渡した。金色の桑の木は、約束通り、猫1匹に1個ずつ、金色の桑の実を分けてくれた。
そして僕は、ついに、100個の金色の桑の実を手に入れた。これだけあれば、たくさんお金がもらえる。そうしたら、あの魔法の苺をやっと買うことができるんだ。
そして、僕は金色の桑の実を袋に詰めて、買ってくれるあの男の所に急いで走った。袋に入った100個の金色の桑の実を口にくわえているので、息は苦しいし、重いしで、途中で何度も休んだ。でも、落とさないように、傷をつけないように、注意しながら急いだ。
やっと町に着いたけれど、あの男はもういなかった。
周りの人に聞いてみたら、その男は急に羽振りが良くなって、こんな貧乏くさい町にはいられるかと言っていなくなったという。
僕は、あの男を捜す旅に出た。
あの男がいなければ、この金色の桑の実は買ってもらえない。そうしてたくさんの町や村を訪ね歩き、いろんな人に出会った。でも、一向に男は見つからない。
それでも僕は、100個の金色の桑の実の入った袋をくわえたまま、たくさんの村を歩き続けた。
すると男の代わりに金色の桑の実を買ってあげようという人が現れた。でも、欲しいのは1個だけだと言う。僕は、金色の桑の実をひとつ渡し、1000リヴラを受け取って、また旅を続けた。その後も、金色の桑の実は、なぜか1個ずつ売れていく。必ず売れるのは1人1個だけ。なぜかわからないけれども、それでも僕は、100人に1個ずつ売れば、100個の金色の桑の実が売れて、きっと、魔法の苺を買うお金が貯まると考えて、金色の桑の実を、1個ずつ売り始めた。
途方もないほどの長い時間が過ぎた。猫を相手に商売しようなんて人は、なかなか見つからない。ましてや、お金持ちになれるとうわさの金色の桑の実だなんて、信じて買ってくれる人はほとんどいなかった。それでも、僕はあきらめず、町から町へと旅を続けた。
◇
そして、僕はすっかり大人になり、既に、99個の金色の桑の実を売った。
この長い年月が過ぎる間に、たくさんの出会いがあった。僕はたくさんの人や猫に会い、商売の何たるかも勉強できた。そしてたくさんのお金を手に入れることができた。貧乏な生活とはとっくにおさらばし、大きな屋敷を建て、悠々自適の生活を手に入れた。
長い旅を続けたおかげで、僕は 巷で有名な強い野良猫になった。うわさを聞き付けた、沢山の野良猫たちが、僕を手伝わせてくれとお願いに来たからだ。今では、国中の野良猫は僕に従って、金色の桑の実を探しに行き、集めてくれる。そんな大きな権力もを手に入れた。
始まりの金色の桑の木から集めた100個の金色の桑の実は、もうあとひとつしかないけれど、たくさんの猫が、国中から探し出して集めた金色の桑の実を、毎日のように僕の屋敷に届けに来る。そして、その実を、よりすぐりの精鋭猫達に売らせたので、お金は、貯まる一方だ。
いつの間にか、金色の桑の実を自分の手で売ることはなくなった。
僕は、大きな屋敷を建てたものの、ただ豪華な椅子に座っているだけじゃ満たされなかった。だから、今でも旅を続けている。どうしてもじっとしていられない。これだけお金と権力を手に入れても、まだ足りない。もっともっと必要だ。
沢山のお金を手に入れた僕は、猫の分際で服を着て歩き、お金を払って宿屋に泊まることにしていた。今日も、いつもと同じように宿屋で出発の準備を整えている。
「すみません、こんな早くに失礼なのですが」
こんなに朝早く、誰かが訪ねて来たらしい。宿屋の1階には誰も泊まっていないと聞いていた。てっきり宿屋の主人かと思ったが、ドアを開けると、年老いた白猫が座っていた。その、年老いた白猫は、ボロボロに疲れ果てて、今にも死にそうなほどに薄汚れていた。
「何か御用ですか?」
僕は努めて紳士的に挨拶した。
「実は、ぶしつけで失礼なのですが、私にも金色の桑の実を売らせて欲しいとお願いに参りました」
「ほう、宿屋の主人に聞いたのかい?」
「はい、私はこの宿屋で買われている猫でございます。見ての通り老いぼれて、後は死を待つのみの哀れな猫です」
確かに、ひどい毛艶をしている。残念ながら、とても金色の桑の実探しにいけるようには見受けられなかった。
僕は旅立ちの準備を再開し、手を休めることなく、年老いた猫に話しかけた。白猫と呼ぶのがはばかれるほどに汚れている。もしかしたら、本当にグレーなのかもしれない。ところどころ泥で汚れていて、ブチなのか、ただの汚れなのかも判別しにくいが、とりあえず白猫さんと呼ぶことにした。
「あんたね、白猫さん、金色の桑の実を手に入れるのにはすごい時間がかかるんだよ。体力も必要だ。あなたみたいな死にそうな年老いた猫には、到底無理だと思うがね」
「そうなんですか? でも、私はどうしても欲しいものがあって、どうしてもお金が必要なんです。どうか、あなたが持っている金色の桑の実を、ひとつだけ私に分けて頂けませんでしょうか」
欲しいものは僕にもあった。魔法の苺だ。僕はたくさんのお金を手に入れた。でも、魔法の苺を買うのには、100個の桑の実を自分の手で売り歩かなければならないと思っていた。それこそが、魔法の苺を手に入れるに値する対価だ。魔法の苺の値段は自分で決めなければいけない。その価値を、僕は100個の金色の桑の実を売って得たお金でなければならない気がしていたのだ。いつしか100個の金色の桑の実を売り切ることは僕にとって生きる意味に近くなっていた。
僕は99個の金色の桑の実を自分の手で売り歩き、今はひとつだけを持ち歩いている。ただ、それを簡単に売ってしまうのは、何かが違うとも感じていた。
もちろん、屋敷には沢山の金色の桑の実があるけれど、それも、ちゃんとお金を払って仕入れている商品だ、簡単に手放すわけにはいかない。
「大切なものだという事は分かっています。でも、実は、私には昔生き別れた子猫がいて、3匹の子猫の内、1匹を人間に連れて行かれてしまったんです。2匹の子猫が独り立ちしてから、私は、ずっと、もう1匹の子猫を探しています。そのためにどうしてもお金が必要なんです」
「そんなこと言われても困りますね、金色の桑の実はとっても貴重なものですよ。欲しがる人は後を絶たない……それに、たったひとつの金色の桑の実の分のお金があったからと言って、子猫が見つかるのかい?」
「はい、実は、何でも願い事が叶う、魔法の苺を売ってくれるという男がいまして」
僕は驚いた。僕はたくさんの野良猫の部下を使って、あの港町で、あの苺売りを探させていた。せっかく100個を売り終わっても、肝心のあの苺売りがいなければ、魔法の苺は手に入らないからだ。しかし、どれだけ人手とお金をかけても、未だ何の手掛かりもつかめていなかった。
僕は、苺売りが見つからないことも、しょうがないと半ばあきらめていた。金色の桑の実を売って儲けることが楽しくなるにつれ、魔法の苺を求める気持ちが薄らいでいくのを感じていた。しかし、見つかったとなれば話は別だ。僕が欲しいのは金色の桑の実ではなく、魔法の苺だったと改めて思いだした。
そう、魔法の苺は、どんな願いも叶えてくれるはずだ。それこそ、もっと沢山のお金を手に入れる事も、王様にだってなれるのかもしれない。僕は忘れていた魔法の苺を手に入れる欲望を思い出した。何としても手に入れてみせる。
「一体、その男はどこにいるんだね?」
「それは……男に口止めされています」
僕はイライラした。何十、何百の手下の猫が探して見つからない苺売りが、やっと見つかりそうだというのに、この汚い猫が僕の言う事を聞かずに居場所を教えないなんて事は受け入れられない。
「いいから、言いなさい」
「いえ、それは……」
「いいから言え!」
年老いた猫は黙ってしまった。僕は考えを改めた。これまで、沢山の猫を従えてきた。彼らには鰹節やお金を与えて言う事を聞かせてきた。今日もそうすればいいだけのことだ。
「わかった、じゃあ、ここに1個だけ金色の桑の実がある。これを君にあげよう。その代わり、男をここに連れて来てくれ」
屋敷に戻れば、うなるほどの金色の桑の実が待っている。今更、ひとつを手放したところで、どうという事はない。
「それは……」
年老いた猫は悩んではいるが、すぐに言う事を聞くだろう。これまで、僕に逆らって言う事を聞かない猫はいなかった。
「わかりました。実は、夕べからこの宿屋に泊まっています」
「この宿屋に……」
思った通り、欲しいものと引き換えになら、誰かとの約束なんか簡単に反故にされる――しかし、何という幸運だろう。僕は、金色の桑の実を年老いた猫に渡し、すぐにその男のところへ連れて行くように言いつけた。年老いた猫は僕を連れて、1階の食堂へ降りた。そこには小さなカゴをテーブルに置いて、男が一人、朝食をとっていた。
「おや? お久しぶりだな黄色い瞳の黒猫さん。ずいぶん立派になったねぇ、猫のくせに服なんか着ちゃって……見違えたよ。この町の町長でも敵わないだろうね」
「そうだ、僕は、金色の桑の実を手に入れる方法を見つけて、たくさんたくさん売り歩いているうちに猫の国と言ってもいいほど、大きな猫達の集団を従えるようになったんだ。そう、猫の王様だ。そして、今はたくさんの野良猫たちが僕のために金色の桑の実を運んでくる。僕の屋敷には、もう、1万個を超える金色の桑の実と、沢山のお金があるのだよ。僕はもう、願いを叶えることが出来るはずだ。さあ、早く魔法の苺を売ってくれ」
苺売りは黙ったままだ。そこへ、年老いた猫が口をはさんできた。
「あの……横からすみません、私も、魔法の苺が欲しいんです。すぐにこの金色の桑の実を、宿屋の主人に買い取ってもらって、お金を作ります。だから、お願いですから魔法の苺を私にも売って下さい」
年老いた猫は、すぐに宿屋の主人の所へ行き、金色の桑の実を1000リヴラで売った。宿屋の店主は知っていて言わないのだろうか。金色の桑の実が1000リヴラなんて安すぎる。価値を知らないってのは恐ろしいことだ。まるで僕が初めて金色の桑の実を売ったときと同じじゃないか。
あの男には安く買い叩かれたが、あの男がいなければ、僕は金色の桑の実で財を成すことはなかった。勉強ってのはこういう事だ。
「何だか面白いことになって来たね、実は、僕もあれから頑張ってね、100個の魔法の苺を配って回って、残ったのは、このひとつだけなんだよね」
そう言うと、かごを手に取り、僕に見せた。カゴの中には、言ったようにひとつだけ魔法の苺が転がっている。
「そうか、ひとつだけとは危なかった。さあ、僕にその魔法の苺を売ってくれ」
「そうだねぇ、先に頼んだのは君の方だしね」
「そんな……」
年老いた猫は口にくわえた1000リヴラを床に落として呟いた。申し訳ないが、魔法の苺は譲れない。ぼくはこれを手に入れるためにこれまで苦労してきたんだ。
「さあ、ここに、丁度99個分の金色の桑の実を売って作ったお金がある。屋敷に帰れば、この何十倍も用意できる。早く僕に、魔法の苺を渡すんだ」
「よし……あれ? おかしいな、魔法の苺が嫌だと言っているよ? 黄色い瞳の黒猫君、そのお金は、本当に願いを叶えるのと同じ価値があると思っているかい?」
「それは……確かに100個を自分の手で売り切ることを目標にはしていたが、それ以上のお金を渡すんだ、文句はないだろう?」
「それが、文句がありそうだよ。魔法の苺自身がダメと言っているんだからしょうがない。この魔法の苺はそちらの白猫さんにお譲りしよう」
「え? でも、それじゃ、こちらの方の苺が……」
「そうとも、おかしいじゃないか、お金は沢山あるんだ。そんな1000リヴラぽっちで手に入れられるなら、とうの昔に僕が手に入れている。ありえない! その苺は僕の物だ!」
僕は、苺売りから魔法の苺を奪い取ろうとした。しかし、ひらりと身をかわされた。
「チッチッチ、ダメダメ。言ったでしょう? 金額は重要じゃぁない、気持ちが大切なんだよ」
そう言うと、苺売りはポイっと魔法の苺を投げた。苺は緩やかに弧を描くと、白猫の口の中に、すうっと吸い込まれていった。
僕は、それをただ見ているしかできなかった。これまでの苦労が脳裏を駆け巡った。家を出て、高い山々を越えて、海さえも越えようとした。それからお金を稼ぐために、途方もない距離を歩いた。沢山の人に出会った。沢山の猫を従えた。何と言う事だ、信じられない。お金がなければ何もできないと絶望してから、一生懸命に頑張ってきた。猫の分際で、こんなにも沢山のお金と、沢山の部下を持ったこの僕が、なぜ魔法の苺を手に入れられないのか。なぜ、こんな汚い白猫が、たった1000リヴラぽっちで願いを叶えることが出来るのだ。ああ、もうだめだ、僕はこれから先、何を目指して生きて行けばいいのだろうか。
「納得できないようだね、魔法の苺はいくらでもいいんだ。大切なのは願い事を叶えたいという気持ちだ。金額もひとつの価値観でしかない。その白猫にとっては、初めて手にしたお金だ、その価値は、1リヴラでも100万リヴラでも同じなのさ、手に入れたひとつの『お金というもの』なんだよ。たったひとつの『お金というもの』で、たったひとつの『願い事』を叶える。等価だと魔法の苺は判断したようだよ」
魔法の苺を飲み込んだ白猫は、みるみる元気を取り戻し、毛艶がよくなった。今にも死にそうだった年老いた白猫は見る影もなく、凛とした佇まいからは気品すら感じる。
白猫は苺売りをじっと見つめ、軽く会釈をした。それから、ゆっくりと立ち上がり、僕の方へと歩いてきた。
僕は全く身動きが取れない。目の前で起こること全てを、ただ、見続ける事しかできないのだ。
白猫は、なぜだか僕の目の前で立ち止まり、まじまじと僕の目を覗き込んだ。一体何が目的なのか、僕にはわからなかった。願いを叶えることが出来なかった猫の顔を見て喜ぶような、卑しい猫なのだろうか。
「エスポワール……あなたの名前はエスポワールというの……黄色い瞳の黒い子猫さん」
言っている意味が解らない。何がどうなったというのだろう。魔法の苺には、何らかの不思議な力があるのはよくわかった。さっきまで死にそうだった年老いた白猫からは想像ができないような気品を漂わせて、白猫がこっちを見つめている。しかし、それが一体何だというのだ。
何もかもわからない――いや、見たことがある。この瞳、僕を見つめる黄色い瞳。黄色い瞳をした、美しい白猫を、僕は何故だか知っていた。
「エスポワール……」
僕は、何も考えられないまま、その名前を呟いた。すると、僕の頭の中でダムが決壊したように、たくさんの記憶が流れ出してきた。
子猫の頃、僕が育った、あの家にもらわれてきた時の事、人間の手によって、母と兄弟達から引き裂かれた時の事、離れ離れになった母親は、茶色い耳を持つ、美しい白猫だったこと。
そして、真っすぐに僕を見つめる、優しく温かい、黄色い瞳。
かつての記憶が、今、目の前にいる白猫のそれと重なる。
白猫は、更に僕に近づいてきて、僕の額をぺろりと舐めた。そのまま、硬直した僕の頬をなめ、首をなめた。
全身の毛が逆立っておさまりがつかない。そうだ、欲しかったのは、お金でも、金色の桑の実でも、魔法の苺でもなかった。ただ、母のぬくもりを思い出したかっただけだったんだ。忘れていた。辛い旅を続けてきたのは、この為だったんだ。なぜ忘れてしまったんだろう。僕はただ、思い出したいだけだった。本当の名前を、本当の名前を付けてくれた母の事を。
「おかあさん? 僕のお母さんなのかい?」
「そうよ、エスポワール。やっと会えたわね」
まさか、汚い年老いた白猫が僕のお母さんだったなんて、夢にも思わなかった。それどころか、邪険に扱ってしまった事が悔やまれて仕方ない。僕は何度も謝った。涙が流れて、子猫の様にニャーニャー泣いた。泣いて泣いて、これは現実だろうかと、疑わしくなった。しかし、何度見ても、白猫は黄色い瞳で優しく僕を見て、ほほ笑んでいた。
母親の愛情というものを初めて知った。初めてだけれど、よくわかった。
これが母の愛というものなんだと、僕の全身が叫んでやまなかった。
いや、初めてじゃない、やっと、思い出せたんだ。
空のように澄んだ青い目を潤ませた苺売りは、何も言わずに、ずっと、僕ら二人を眺めていた。思えば、初めて会ったときに感じた癒される様な感覚は、間違いではなかったのかもしれない。優しく、澄んだ青い目だった。
「なあ、青い目の苺売りさんよ、いや、最後の苺が売り切れたから、もう苺売りじゃないのかな? 魔法の苺を手に入れることはできなかったけれど、どうやら僕は幸せになれたようだよ……ありがとう」
苺売りは、ふふっと微笑むと、嬉しそうにこう言った。
「そりゃそうさ、僕は100個の魔法の苺をたった今売り切ったんだぜ。僕の願いも叶ったんだよ。忘れたかい? 僕の願いはみんなが幸せになる事だったろう?」
◇◆◇
長い長い夢を見ていたらしい。
目が覚めると、体が重かった。沢山の猫と、私の息子が体の上に乗って寝込んでいる。みんな、ご飯を待ちくたびれたまま寝てしまったんだろう。申し訳ない事をした。
お腹がすいているにしては、みんな安らかな寝顔をしている。きっと、いい夢を見ているんだろう。
私は、なんとなく、1匹の猫に向かって呟いた。
「エスポワール……」
膝の上で寝ている白猫が、茶色い耳をぴくっと動かした。
「まさかね」
エスポワールはフランス語で『望み』という意味だ。
うちの白猫さんは、夢の中で願い事を叶えられただろうか。
おしまい。
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