第5話 デイジーとルーシー

デイジーどこにいるの? 

デイジー、あなたはどこにいるの?


あなたはいつも私の傍にいてくれるわけではない、気まぐれに現れては、私を癒してくれるデイジー。私には、今、デイジーが必要なの、出てきてデイジー……。



ニューヨーカーはいつも忙しい。ルーシーは、毎日、目を皿のようにして活字を追い、つまらない商店街の揉め事のような取材を強いられても、仕事に関しては、なんの不満も持っていなかった。新聞記者の仕事を天職だと思っていた 。ミスをしたら即契約解除という緊張感も悪くはなかった。

戦争が終わり、これから新しい時代が押し寄せてくるような期待感と、鬱屈うっくつとした、どうにもならなさが入り混じり、この、東海岸を一気に塗り替えていく、そんな予感が、記者の筆を走らせた。


とは言え、順風満帆でここまで来たわけではない。純朴な田舎娘が、ニューヨークで暮らしていくには、生半可では無い逆風を受け、いつだったか、酒におぼれて、胸にはバラのタトゥを入れることになった。振り返れば、まだ15歳の時に好きになった男にひどく捨てられ、ニューヨークに来てからも、ろくな男に出会わなかった。


ルーシーは闘っていた。毎朝、鏡に映った胸の真っ赤なバラのタトゥを見るたびに、弱かった自分を戒めた。

「寒い……」

ルーシーは、真っ白な肌に映える、バラのタトゥをシャツで隠した。

秋のニューヨークは、厳しい寒さの訪れを予感させる。ルーシーは責任が増していく記者生活に重圧を感じながら、新調した厚いコートを羽織って外へ出た。この喧噪の街に記者として参加しているのは誇らしかった。ニュージャージーのスプリングフィールドからクイーンズへ移り住んで、もう8年になる。両親は、早くに他界してしまったが、なかなか地元から離れられず、しかし、一念発起して、ニューヨーカーに紛れて、スニーカーで通う毎日を選んだ。混沌を絵にかいたような、この町を象徴する地下鉄に乗り込み、毎朝ミッドタウンへ向かう。最悪な治安は徐々に改善してはいるが、まだまだ危険とは隣り合わせだ。


地下鉄を出ると、状況が悪くなるばかりの交通渋滞でクラクションが響き渡っていた。歩道を行く人は、耳栓でもしているのかと疑うほど、町の騒音に無頓着だ。

駅の出口にある売店で、ライバル紙とサンドウィッチを手に取り、陽気な店員と何でもない会話を交わす。エリーキャトルマンの荷馬車がイエローキャブの行く手を遮るのを眺めながら、ルーシーはだんだんと戦闘モードに切り替わっていく。


ただ、がむしゃらに働いてきた。若くて力のなかった、大切なものを守る力さえない、あの頃の自分に見せつけるように、一心不乱に働いた。そのひたむきさは、自分を失うためなのか、それとも、取り戻そうとしているのか、彼女にもわからなかった。


<NY市長選挙公示まで秒読み>

新聞の見出しは市長選の話題でもちきりだ。

「やぁ、おはようルーシー 、例の取材はうまくいってるかい?」

お金を払い、サンドウィッチにかぶりつこうとしていた時に、急に後ろから声をかけられた。

「おはようございます、リドレー編集長、もちろんですわ、もうすぐ仕上がりますよ」

「そうかよかった、あの記事は君にしか書けない。ニューヨーク市議選はもうすぐだ。他社を出し抜いて、この街を揺るがす記事にしてくれよ!」

リドレーはルーシーを記者にしてくれた恩人だ。この大きな街の大手新聞社と契約を結ぶには、正直、ルーシーの実績だけでは足りなかった。リドレーの大抜擢があってこその記者生活だ。

「任せてください編集長! 必ず期待に応えて見せますわ!」

ニューヨークでは数少ない同郷の知人だ。彼の文才はスプリングフィールドのハイスクールでも際立っていた。優しく響く低い声に、故郷が香るイントネーションが心地いい。

「それからルーシー……いや、市長選が終わるのを楽しみにしているよ」

木々や草花が、春になると一斉に花を咲かせる、そんな、のどかな街からニューヨークに出てくる人間には共通した何かを感じる。リドレーは、その何かを強く目に輝かせていた。


ルーシーは各社の記事に目を通し終えると、早々に取材に出かけた。

今、ルーシーが追いかけているのは、現職ニューヨーク市長であるヘンリー市長の収賄疑惑についてだ。ただ、これはあくまでも疑惑で、ルーシーの記事は、その疑惑を晴らし、ヘンリーに、もう一度市長の座を与える力を持つはずだ。


この取材は極秘裏に進められているが、センシティブな内容は、どうしてもどこからか漏れだし、対抗馬であるジェイリー候補陣営からの嫌がらせも枚挙に暇がない。ルーシーは毎日身を削りながら、身分や正体を隠し、影から影へ渡り歩くような取材の日々を続けていた。


今日は、その記事でも真偽の中核をなす人物、ラドルフとの勝負の日だ。ラドルフはニューヨーク市のユニオンを裏で牛耳っている。ユニオンはあらゆる業界の労働組合を取りまとめ、大がかりな組織的ストライキを起こして経済の流れを妨げるほどの力を持っている。ニューヨークの治安を改善して、観光客を増やそうと考えているヘンリー市長にとっては、敵に回しても味方に付けても、取扱注意のジャックナイフのような危険な男だ。


ルーシーにとってもここが山場だ。ヘンリー市長はラドルフとの間に湧き起った収賄疑惑を打ち消すために、直接対決することを決断した。直接ラドルフに会うことがどれほど危険な事なのかはヘンリー市長も重々承知だ。ともすれば逆に密接な関係を疑われてしまう。しかし、このままでは勝てないと踏んだヘンリーは一騎打ちを挑み、劣勢に立たされた市長選を一気に挽回する諸刃の剣を振るう事に決めたのだ。


そして、それをルーシーにリークした。


バックパッカーしか使わないようなチープなホテルのロビーに、ヘンリー市長が一人、革のカバンをぶら下げて立っている。ルーシーは物陰からそれを伺い、ラドルフが現れるのを待つ。

ルーシーは冷たい秋風の中で、一人、緊張に汗をぬぐった。その手が震えている事にも気が付いていない。


その時、ルーシーの目の前に、突然、小さな女の子が現れた。こぼれるほどの笑顔が可愛らしい、真っ白なワンピースの女の子は、左手に花かごを下げていた。

「ねえ、お姉さん、お花を買ってちょうだいな」

そう言って、この時期には珍しいひな菊を差し出した。

ルーシーは目線を彼女の高さまでおろし、にっこりと微笑んで、彼女に言った。

「私はね、お姉さんなんて歳じゃないのよ。でも、ありがとう。お花をいただくわ。そうね、どの花がいいかしら?」

「今日はね、このお花がとっても綺麗に咲いたのよ。ひな菊って言うの」

ひな菊……鼻先まで差し出されたひな菊の香りをかぐと、何故か突然、くらっとよろけて、思わず床に片手をついた。女の子は心配そうに、ルーシーを気遣い、声をかけた。

「大丈夫? お姉さん、疲れてるんじゃない? さあ、ベンチに座って」

そう言うと、膝をついたルーシーの手を引っ張って、ロビーの席に誘導した。

記憶がはっきりしているのはその辺りまでだった。

ルーシーの視界は、だんだんとぼやけていき、ルーシーを心配そうに見るヘンリー市長の姿が、遠く霞んでいった。



ルーシー? 大丈夫? あなた、疲れてるのよ。ちょっと休んだ方がいいわ。


デイジー、やっと出てきてくれたのね。私は一体、どうしたのかしら? ヘンリーは? そうだわ、ヘンリーとラドルフの取材をしなくちゃ……私は……。


ルーシー、少し話を聞きなさい。実は、私、そろそろ、あなたにお別れを言わないといけないの。


デイジー? どういうこと?


ルーシー、あなたも自分の人生を取り戻す時が来たのよ。私の役目はもう終わり。もうすぐ私はあなたに溶けて、あなたの人生を返してあげることになるわ。


デイジー、寂しいことを言わないで。私はあなたがいないとだめなのよ。私にとって、あなたは人生の希望の光のようなものなんだから。


ルーシー分かっているわ。あなたに罪なんか一つも無い。大丈夫、全てうまくいく。全て許せる。あなたは きっと、取り戻すわ。あなたを取り戻すのよ、ルーシー。



目を覚ますと病室のベッドの上だった。

毛布の上に、新聞が一部と、メモ髪が置かれている。

メモには

『ルーシー、今までありがとう。そして、さようなら ――編集長』

と書いてある。

一緒に置かれていた新聞の一面には、ヘンリーとラドルフが、小さな女の子から花を受け取る写真が掲載されている。見出しには、最悪の事態を告げる文字が踊っていた。


<ヘンリー市長、ラドルフと密会! 噂は本当だったのか>


失敗してしまった。私はあの時、ヘンリーを救うための記事を書こうとしていた。しかし、体調を崩して病院に運ばれてしまったらしい。そして、私に声をかけてきた少女は、私を見送った後、二人にお花を売ったのだろう。

フォトグラファーのクレジットはジョエル。ニューヨークで売り出し中の若い写真家の名前が書いてあった。彼が偶然見つけた都会の花と美しい光景にシャッターを切り、それを、雑誌に寄稿した。それが実は密会の現場を映している事がわかり、私は援護射撃もできず、逆に、 ヘンリーの足を引っ張ることになってしまった。

「なんてこと……」

私は力なく、手に取った新聞を毛布の上に置いた。


「ルーシーさん入りますよ」

声の主は聞き慣れた新聞社の顧問弁護士だ。

「テイラーありがとう、お見舞いに来てくれたの? もう、私を見舞う義理はないと思うけれど? それとも、逆に、私を訴えに来たのかしら?」

「ルーシーさんにはかなわないな、契約がなくなっても、お見舞いぐらいには伺いますよ……と、それから、リドレー編集長には個人的に依頼されていることがありましてね、お客さんを一人、お連れしましたよ」

テイラーの後から小さな女の子が入ってきた。

「あなたは……あの時のお花屋さん……」

ルーシーはなんとなく、その女の子の写真が掲載されている新聞を毛布で隠した。


「この子の名前はローズ。実は、若く生活能力のない女性から、里子支援サービスを通じて生花店に引き取られていたんですがね、その後、ご両親は離婚され、最近、一人で花屋を営んでいた、お母様もご病気で亡くなられましてね、施設に引き取られることが決まっているんですが……」

「お姉さんこんにちは、私はローズ。病気は大丈夫なの?」

「あなたは……本当にローズなのね?」

「え? お姉さん、私の事を知っているの?」

「もちろん、知っているわ、だって、私の名前はデイジー……デイジー・ルーシーが私の名前なんだから……今まで寂しい思いをさせてごめんね……あなたのことを一度たりとも忘れたことはないわ」

「じゃあ、あなたは私のもう一人のママなのね? お花屋のママがいつもお話してくれたのよ。あなたにはとっても素敵なママが、もう一人いるのよって」

ルーシーはローズの手を優しく握った。

「このお花の種を上手に育てられるようになったら、きっともう一人のママにも会えるって言われたの」

そう言うと、ローズは背中に隠していた花束を差し出した。

「この子達はね、種から育てた私の子どもたちなのよ。ひな菊は、私の一番のお気に入りの花なの」

ローズはをローズの膝の上に置いた。

ルーシーは、彼女と彼女の子供達を強く抱きしめた。



デイジー……私の仕事を奪ったのはどうやら彼女のようね。

でも、私を母親に戻してくれるのも、きっと彼女なんだわ。


ありがとう、今までありがとうデイジー。


あなたに預けていたもの、全部返してもらったわ。


私は戻るのね。15歳の時に、デイジーと一緒にフタをしてしまったあの頃に。


失ってしまった時間を取り戻して、大切なものを守ることもできなかった、あの日の私を許してあげられる。



「ローズ、私に、お花屋さんが務まるかしら?」


「そうね、お花屋さんになるのは、とっても大変なのよ。でも私がいれば大丈夫。ちゃんとお花屋のママに教え込んでもらったの。だから、今度は私が全部教えてあげるわ。頑張ってねデイジー・ルーシーママ」


***

ひな菊(英名デイジー)の花言葉は「希望」

光にかざすと花を開く性質に由来すると言われています。

***



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タイトル『デイジーとルーシー』


主人公『デイジー・ルーシー』


キーワード

 バラ

 酒

 わが子達

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