最終話 自由への挑戦

 翌日の天気は、曇りでした。空には分厚い雲が覆って……雨は降りませんでしたが、その日一日を暗い雰囲気にさせました。地面の上を歩いている蟻達も、何処か憂鬱そうに働いています。その顎に餌を運んで。表情こそは変わりませんが、自分の巣穴に「それ」をせっせと運んでしました。


 ダリアは暗い顔で、その流れを眺めていました。「はぁ」と、溜め息が出ます。溜め息は空気に溶けて、やがて聞こえなくなりました。その無音に胸を痛めます。

 本当は、そんな事など思いたくなかったのに。今の彼には、その静けさが鋭い棘のように感じられました。自由を得るのに必要な責任。その責任は決して、甘いものではありません。

 「いくら、領主の許しを得られた」と言っても。すべては、自分で何とかしなければならないのです。この町から出て行く事はもちろん、その自由都市とやらに行く方法だって。

 

 ダリアは、自分の自由に怖くなりました。「俺はやっぱり、甘チョンだ」と。今までの「アレ」は、思春期の子供が見せる反抗のようなモノでした。自分以外にも、悲しい思いをしている人はたくさんいるのに。


 彼は、自分の不幸に甘えていたのです。まるでお菓子が貰えない子供のように。周りの人々に見せていた「アレ」は、「自分の不幸を分かって欲しい」と叫ぶ、子どもの喚き声でした。子どもの喚き声に耳を傾ける人はいません。


 ましてや、分別の分かる大人なら。そんな声は、「聞く必要はない」と思うでしょう。彼等には彼等なりの苦労と、そして、経験があるのですから。未熟な人間の主張など聞くわけがありません。

 

 ダリアはその現実に腹を立てましたが、一方では「それは尤もだ」と思っていました。自分が所謂、ガキである以上。周りの連中は死ぬまで、自分の話を聞いてはくれない。彼等が耳を傾けるのは、彼等の尊敬する人間……つまりは、領主のような人間だけなのです。領主は、ここの農奴達に好かれている。


 おそらくは、その人柄に惹かれて。昨日話した時も……その内容に苛立ちはしましたが、言っている事は至極まともでした。人間が人間として生きる意味とは、何か? 領主はあの歳で(見かけ上は、ですが)、その意味を理解していたのです。「生きるのは、決して生やさしいモノではないのだ」と。その体験を通して、骨の芯から分かっていたのです。

 

 ダリアは、その事実に頭を痛めました。


「俺は、根性なしだ」の言葉が、心に突き刺さります。たった、『それ』だけの言葉で。彼の心は、粉々に砕けてしまいました。今まで積み上げてきたモノが全部。今の彼に残っているのは、自分に対する恥じらいと、「これからどうするか?」と言う迷いだけでした。

 

 自分の足下から視線を逸らし、封土の道をゆっくりと歩き出します。一歩、一歩、その地面を踏み締めるように。通りの角を曲がった時は、自分の後ろを振りかえり、ライ麦畑の方をもう一度見渡しました。


「父さん、母さん。俺」と、呟いた時です。彼の耳にある声が入ってきました。「すまないな」と。「お前の事を苦しめて。私達は、最低の親だ」


 ダリアは、その声にハッとしました。慌てて周りを見渡しますが、やはり彼等の姿は見つけられません。視界に入ってくるのは、いつも見慣れている風景だけです。彼は自分の頬を掻きましたが、その胸には今の言葉が残りつづけました。


「最低なんて、そんな。最低なのは、俺の方だよ。自分の事も満足にできないで。今の俺は、碌でもない」


(人間なら、どうすれば良いんだろう?)


「え?」


(自分の事をそう思うなら。お前には、それを何とかする……)


「方法があると思うのか?」


 見えない何かは、その質問に「うん」とうなずきました。


(お前には、その力がある)


 ダリアは、その言葉に胸を打たれました。



 彼が領主の館に行ったのは、それから数時間後の事でした。ダリアは館の門番に用件を言うと(何故か、すんなりと通してくれました)、その案内に従って、領主の部屋に行きました。部屋の中には、領主の姿がありました。


  椅子の上に座って、何やら書き物をしている彼の姿が。その姿に一瞬驚きましたが、すぐに気を取り直して、領主の前に歩み寄りました。「領主様」と、声が震えます。昨日の事があってか、若干緊張気味になってしまいました。

 

 領主はその声に笑い、彼の方に視線を移しました。


「やあ、いらっしゃい。来ると思っていたよ」


「え?」と驚くダリアでしたが、それもすぐに収まりました。「読んでいたのか?」


「まあね。私も転生前には、色んな人を見てきたから」


 領主は適当な椅子を指差し、そこに座るよう彼を促しました。


「覚悟が決まったのか?」


「あ、ああ。本当はまだ、不安だけど。俺は、自分の自由に責任を取りたいと思う」


 を聞いて、領主の目が潤みました。


「そうか」


 領主は机の棚からある書類を取り出し、その書類に必要な内容を書きはじめました。


「この書類は所謂、通行証でね。うちの門番に見えると良い」と言って、彼にその通行証を手渡します。「きっと、すぐに通してくれる筈だ。それと」


「ん?」


「これは、私からの餞別だ」


 渡されたのは、当分の生活に必要なお金でした。


「なっ、くっ、でも!」


 ダリアは、右手のお金に項垂れました。


「これは……その、受け取れない」


「どうして?」


「これを受け取ったら俺は、アンタに甘えた事になってしまうから」


「そんな事はないよ」


「ッ……」


「人の善意を受け取るのは、甘えた事にはならない」


「でも」と、ダリアはやはり納得しません。「それでも……」


「なら」


 領主は、部屋の窓まで足を進めました。


「それの分を働いてくれ」


「これの分を働く?」


「ああ。向こうに行ったら、それの分まで人を助けて欲しいんだ」


 ダリアは、彼の言葉に苦笑しました。


「アンタは、何処までも偽善者だな」


「ああ。でも、偽善がなければ」


「ん?」


「本当の善は、分からない。私は……生きる限りは、善人でありたいんだ。かつて私を救ってくれた人達がそうであるように」


「そうか。なら」


 ダリアの身体が震えます。


「その偽善に免じて、コイツは貰ってやるよ」


「……ああ」と笑った領主の顔は、晴れやかでした。「そうして貰えると助かる」


 二人は互いの顔を見合い、そしてまた、その視線を逸らし合いました。


「出発は、いつだい?」


「二日後の朝かな? 荷物って言っても、そんなにあるわけじゃないし。持って行くのは精々、着替えの服と食料くらいだ。武器は、家のナイフを持って行く」


「そうか」


 ダリアは「ニコッ」と笑い、自分の家に戻りました。自分の家に戻った後は、旅に必要な荷物をまとめて、その荷物を一つ一つ確かめました。


「よし」


 大丈夫だ。


「忘れ物は無い」


 あとは……。


「二日後の朝を待つだけだ」


 ダリアは真剣な顔で、鞄の中に衣服と食料を入れはじめました。



 二日後の朝は、快晴でした。空には雲一つ無く、見事なまでに晴れ渡っていました。地面の蟻達も(何となくですが)楽しげに働いています。それこそ、自分の仕事に誇りを持つように。せっせと働いていました。


 ダリアはその姿に感動しましたが、背中の鞄を背負い直すと、自分の正面に視線をやり、家の前からゆっくりと歩き出しました。どんどん遠ざかって行く家。その家には様々な思い出がありましたが、新しい世界に挑もうとする彼には、思い出以上の存在にはなりませんでした。

 

 過ぎ去った物は、もう二度と取り戻せない。彼の脳裏を過ぎったのは、天の国から響いてきた両親の言葉、「頑張れ」と言うエールでした。「お前なら絶対に幸せになれる」と。死んだ人間に出来る事は、この世にいる人間の幸せを祈る事だけでした。両親の言葉を胸に刻み、封土の門まで足を進めます。門の前まで行くと、門番達に例の通行証を見せました。

 

 門番達は、その通行証に驚きました。


「お、お前」


「何故コレを?」


 の質問にはもちろん、答えません。


「とにかく通してくれ」


 ダリアは、少年時代の夢を叶えました。


「ここが外の世界か」と。


 彼は外の空気を二、三度吸い、まだ見ぬ世界に胸を躍らせながら、その一歩をしっかりと踏み締めました。

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