第4話 ダリアの過去Ⅲ
翌日の天気は、晴れでした。その三日後も、四日後の天気は少し曇ってしまいましたが、五日後の天気は、朝から見事な晴天に恵まれました。
ダリアは暗い顔で、ライ麦畑の土を踏みました。父は今日も、母の前に座っています。彼女の手をギュッと握って。その姿は、本当に哀れでした。最愛の妻に「先立たれてしまうかも」と言う不安、その気持ちがハッキリと伝わってきます。
ダリアは、その気持ちが嫌いでした。不安なのは何も、父だけではありません。彼だって、母の事が心配でならないのです。「母が死んでしまったらどうしよう」と。だから、その事を必死に忘れようとしました。必要な作業はもちろん、どうでも良いような事に神経を集中させて。彼の抵抗は、夕方まで続きました。小屋の中に農具を片付けると、哀しい顔で自分の家に帰ります。
ダリアは、母の部屋に向かいました。母は今日も、ベッドの上で眠っています。安らかな表情を浮かべて。彼が父に視線を移した時も……父も「スヤスヤ」と眠っています。おそらくは、疲れが溜ったのでしょう。「椅子に座ったままで良く眠れるな」と思いましたが、夕食の事もあるので、ここは「優しく起してやろう」と思いました。
「父さん、起きて。そんな姿勢で寝ていると」
を聞いて、父の瞼が動きました。どうやら、少年の声に気づいたようです。彼は眠たげな顔で、その瞼をゆっくりと開けました。
「おお、ダリアか。おかえり」
「ただいま」と、応えるダリア。「晩飯、すぐに作るからさ。少し待っていてくれよ」
「ああ」
父は、椅子の上から立ち上がろうとしました。ですが、そうしようとした瞬間……激しい目眩に襲われたのです。視界の中がぼやけて見えて……気づいた時にはもう、床の上に倒れていました。「父さん!」と、彼の前に駈け寄ります。
ダリアは彼の頭を抱いて、その表情を見ました。とても苦しそうな表情です。頬や額にも汗が浮かんでいて、呼吸も何処か苦しそうでした。
「大丈夫か? どうかしって! すごい熱だ」
父の額に触ってからすぐ、別の部屋に彼を移そうとしましたが、体格差があるので、なかなか上手く行きません。部屋の扉まで進めようとしても、体勢の方がすぐに崩れてしまいます。その事に酷く苛立ってしまいました。
「くっ!」
ダリアは父の体勢を何とか戻して、別の部屋に父を運んで行きました。父はベッドの上に寝かされた後も、苦しげな顔で唸りつづけました。「大丈夫か? しっかりして」の声にも……彼の声はかなり大きかったのですが、その呼び掛けてもまったく応えてくれません。ただ、悪夢を見るように「う、ううう」と唸りつづけるだけです。
ダリアは、その光景に呆然としました。母の次は、父。彼はずっと、母の傍に座っていました。朝食の時はもちろん、夜に眠る時だって。彼は、母から病気を貰ってしまったのです。自分の知らない内に、母の病気が飛び移って。
ダリアは、床の上に座りました。頭を働かせたいのですが、思うように動いてくれません。ただ無限に、砂嵐が広がって行くだけです。「どうしよう? どうしよう? どうしよう?」と言う風に。ですがいくら考えても、良い考えは浮かびませんでした。自分の頭を抱えます。
「ちくしょう……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」
を聞いていたのか、父の瞼が動きました。
「ダリア」
「父さん」と、その声に驚きます。「大丈夫? 痛い所は無いか? 呼吸は?」
「大丈夫だ。息は、苦しくない。頭は少し、ぼうっとするが」
父は優しげな顔で、息子の頬に触れました。
「お前は、俺達の宝だ。その宝が苦しむ姿は……うっ、見たくない。お前はもう、俺達には近づくな」
「え? それって、どう言う」
「言葉通りの意味だよ。お前には、大事な未来がある。その未来を捨ててはいけない。だから、『俺達の命を見捨てろ』と言う事だ」
ダリアはその言葉に驚いて……いや、驚いただけではありません。「ハッ」と気づいた時にはもう、父の胸倉を掴んでいました。
「ふざけるな! 何が『俺達の命を見捨てろ』だよ? 俺は、絶対に見捨てない。父さん達の命は!」
「助けなくて良い」
「嫌だ!」
「言う事を聞け!」
父は、息子の手を解きました。
「自分の躰は、自分で何とかする。母さんの事も。お前は、お前の仕事をしなさい。教会に納める税金もあるんだ。お前が働いてくれないと、その義務が果たせなくなってしまう」
ダリアはその言葉に「義務なんか知らない」と叫びましたが、父の穏やかな目を見た瞬間、胸の怒りをそっと引っ込めてしまいました。
そのやりとりから三日後、母がこの世を去りました。
彼女はベッドの上で眠ったまま、とうとう目を覚ましませんでした。
ダリアは、彼女の部屋で泣きました。彼女の手をギュッと握り締めて。彼の涙は、朝まで停まりませんでした。その涙が少し乾くと、床の上から立ち上がりました。本当は仕事なんてちっともやりたくありませんでしたが、父との約束もあって、その日は無心で働きつづけました。彼の仕事は、夕方に終わりました。
ダリアは小屋の中に農具を放り投げると、急いで父の部屋に向かいました。父は、安らかな顔で眠っていました。呼吸もしっかり聞こえるので、命の方はまだ失っていません。「良かった」と安心し、父の方に歩み寄ろうとしました。けれどもそうしようとした瞬間、父が彼に向かって「来るな!」と怒鳴りました。彼は、起きていたのです。「スヤスヤ」と眠っていた顔は、息子に心配を掛けさせまいとする親心でした。
「俺の言う事を忘れたか?」
「うんう、忘れていないよ」
「そうか。なら」の声が震えます。「部屋の中から出て行きなさい。俺の晩飯も作らなくて良い。お前が食べたい分だけ」
「分かった。食べたい分だけ食べる」
ダリアは作り笑いを浮かべて、部屋の中から出て行きました。
その会話から三日後、父の呼吸が止まりました。躰の皮膚も冷たくなって、顔の筋肉もまったく動かなくなりました。ですが……少年の目からは、涙は溢れませんでした。あまりにも悲しすぎて、「涙」と言うモノを忘れてしまったからです。
ダリアは悲しげな顔で、父の姿を見下ろしました。父の死は(正確には母も)、封土の農奴達を驚かせました。「まさか、そんな」や、「二人が死んでしまうなんて」と言う風に。彼等は、一人息子の未来を憂いました。彼はまだ、十代そこらの少年です。多少の事は知っていると行っても、その心はまだ子供でした。
「落ち込むなよ」と、彼の事を励まします。「こういう言うのは」
「ああ、仕方ない事なんだよ。遅かれ早かれ、いつかは通る道なんだから」
ダリアは、彼等の励ましにうなずきました。
二人の葬儀は、翌日に行われました。
ダリアは教会の司教に埋葬許可税(封土の決まりで埋葬費を払う事になっています)を払って、墓地の中に遺体を埋めました。それが終わると、司祭が神に対して祈りを捧げました。
「安心しなさい。二人は、無事に旅立った。今頃は」
を聞いて、司教に頭を下げます。
「ありがとうございました」
「お礼は、要らないよ。私は、やるべき事をやった。君も君のやるべき事をやりなさい」
「はい!」
ダリアは気持ちを引き締めて、自分の仕事を真面目に頑張りました。自分に課せられた賦役を果たそうと。自分が不真面目になっては、天国の両親に申し訳ない。二人はもういないけれど、天国から自分の事を見ているのだ。「頑張れよ、ダリア」と見下ろして。彼等の存在は、文字通りの誇りでした。
ダリアは、額の汗を拭いました。
「父さん、母さん、俺」
額から溢れた汗が、ライ麦畑の上に落ちました。
「頑張るよ、二人の分まで。そうじゃなかったら」の声が途切れます。「悔しくて仕方ないからさ」
ダリアは「ニコッ」と笑って、両手の農具を振り下ろしました。
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