第3話 ダリアの過去Ⅱ
「へっ! そんな地味でつまらない仕事、やっていられるか!」
母は彼の後を追い掛けようとしましたが、彼に右手を伸ばしたところで、その気持ちを諦めてしまいました。「まったく」
ダリアは、何処までも走りました。「こら、ダリア! お前はまた」と怒鳴る老人を追い越し、「うわっ、ビックリした!」と驚く女性の前を横切って。ですが……ある門の前まで言った時です。彼の足が急に止まりました。視線の先には、門番が二人。彼等は鋭い眼で、少年の顔を睨みつけました。
「何だよ、小僧。またお前か?」と、左側の門番。
「何度来たって同じだぞ? ここは、絶対に通さない」と、右側の門番。
二人は、少年の方に剣を向けました。
ダリアはその武器に脅えましたが、顔には「それ」を見せませんでした。
「ふん、通さなくても良いよ。こう言うのは、自分で通った方が楽しい!」と言って、右側に身体を動かします。すると、門番達も「それ」に合わせて自分の躰を動かしました。
「その手は食わない、くっ! 今度は、左か!」
「違う! そう見せかけて、本当は右に動くつもりだ」
の言葉を聞き、少年の口元が笑います。
「へへん、のろま! そんな事で、農奴のみんなを守れるのかよ?」
門番達は彼の言葉に怒りましたが、少年が「それ」を食らう前に走り出してしまったので、自分の剣をとうとう振り下ろせないまま終わってしまいました。
「おのれぇ」と、彼等の米神に青筋が走ります。ですが、ダリアの方はそんな事などまったく気にしませんでした。
「あははは、おもしれぇ。アイツらはやっぱり、バカにしがいがあるわ!」
ダリアは楽しげな顔で、封土の中を走り回りました。周りの迷惑も考えず、自分の心に従って。彼の心は、自由でした。その足が走りつづける限り、どんな所にだって行けるのですから。怖いモノなどなりもありません。ましてや、封土の門番など……。
彼の表情が曇ったのは、それからすぐの事でした。本当は思い出したくないのに、封土の門を思い出したからです。封土の門は境界、つまりは「故郷とそれ以外を分ける扉」と言って良いでしょう。
扉は、封土の四方に設けられています。東西南北に一つずつ。門番達の役目は封土を守る事ですが、実際は封土から逃げだす奴隷がいないか見張ったり(奴隷達自身も互いの事を見張り合っているので、たとえ門が設けられていない場所から逃げだそうとしても、すぐに知らされてしまいます)、あるいはその奴隷達を捕まえたりしていました。
ダリアは、その現実に苛立ちました。たとえ自分の心が自由であっても、「世界」と言うモノが自分を自由にしてくれない。「自分は、何処までも不自由なのだ」と。彼の足が止まりました。体力はまだ残っていましたが、何故か走る気力を失ってしまったからです。
彼は暗い気持ちで、自分の家に帰りました。家に帰った後は、母からさっそく叱られ、父にも「明日からは、ちゃんと手伝いなさい」と言われました。
ダリアは、それらの言葉にうなずきました。
「はい、分かりました。ちゃんと手伝います」
の言葉から数年が経ちました。
彼は昔の声を忘れて、その右手に農具を持っていました。彼の農具は、新品です。農具の表面には、傷がまったく付いていません。それを使って、保有地のライ麦畑を耕しました。彼の父がそうしているように。彼も父の姿を倣って、自分の仕事を黙々とやりました。彼の仕事は、山の向こうに夕陽が沈むまでつづきました。
彼等は、自分の家に帰りました。家の中では、母が今日の夕食を作っています。今日の夕食は、薄味のスープと小さな黒パンでした。
三人は穏やかな顔で今夜の夕食を食べはじめましたが、ダリアが黒パンの端を千切った瞬間、母が突然苦しみはじめました。
ダリアはその様子に驚き、父も自分の椅子から立ち上がりました。
「大丈夫か!」
「ええ」と、返事が虚ろに聞こえました。「最近ちょっと、微熱続きで。咳も時々」
母はまた、「ゴホン、ゴホン」と咳き込みました。
「ごめんなさい。こんな風に出る感じ。たぶん、風邪だと思うんだけど」
「そうか」と、父の顔が沈みます。「あまり無理するなよ? これから、どんどん寒くなって行くんだから」
「ええ」
母は「ニコッ」と笑って、皿のスープをまた啜りはじめました。
ダリアはその様子を眺めていましたが、母が「大丈夫よ」と微笑むのを見て、不安ながらも彼女の顔から視線を逸らし、左手に持つ黒パンをまた千切りはじめました。ですが……。
母は、翌日も咳き込みました。その翌日も、そのまた翌日も。ダリアと父は、彼女の事を心配しました。空咳がこんなに続くなんて普通の事ではありません。「何か異常な、悪い病気に罹っているかもしれない」と思ったのです。
ダリアは母の身体を看ようとしましたが、父が「それ」を許しませんでした。
「お前は、まだ若い。俺や母さんに何かあった時は」
の続きは、聞かなくても分かっています。
「うん、分かったよ。俺が頑張る」
父は、彼の頭を撫でました。
「頼んだぞ?」
ダリアは彼の言葉に従いました、自分の両手に農具を持って。彼の仕事は、夕方まで続きました、空がすっかり暗くなると、小屋の中に農具を戻し、自分の家に帰りました。家の中は、静かでした。人の話し声はもちろん、何の音も聞こえてきません。
彼は不安な顔で、母の部屋に向かいました。母は、ベッドの上で眠っていました。父はその近くに座って、母の顔をじっと眺めています。その顔は、とても悲しそうでした。
「帰ったのか?」
「うん」と応えて、母の寝顔に視線を移します。「母さんの具合は、どう?」
「分からない、が。うん……まあ、心配するな。お前が心配したところで、母さんの病気が治るわけでもないし」
「……うん」
父は自分の両膝を叩いて、椅子の上から立ち上がりました。
「よし! 暗くなるのは、ここまでだ。晩飯を食べよう。今日の晩飯は、お前が作れ」
「えぇええ!」
「『えぇええ』じゃない。母さんはこんな状態だし、俺達が作るしかないだろう?」
「それは、そうだけど。でも、だからって」
「決定だ」
ダリアは、その言葉に項垂れました。内心では「父さんの顔を殴ってやりたい」と思っていたのですが、母の病状も考えて、今は「それ」を抑える事にしました。
「分かったよ。ただし、その味が不味くても文句を言うなよな?」
二人は、何処か諦めたように「クスクス」と笑い合いました。
「ねぇ、父さん」
「ん?」
「明日も俺、一人で作業すれば良いの?」
「ああうん、頼む。大変だろうが、しばらくは一人で頑張ってくれ」
「……うん」
ダリアの顔が暗くなりました。
「母さんの病気、良くなるかな? 今は、ぐっすり眠っているようだけど」
「ううん。まあ、焦っても仕方ない。母さんの病気は、俺達の力でじっくり治して行こう」
「うん」
二人は「うん」とうなずき合い、そして、「ニコッ」と笑い合いました。
ですが……。
「どうしてだ? どうして?」
現実は、それ程甘くはありませんでした。
「母さんの具合は、どう?」
「分からん。俺には、まったく分からない!」
「父さん!」
ダリアは彼の躰を押さえようとしましたが、その背中に触れた瞬間、彼に自分の身体を押し飛ばされてしまいました。「つぅ!」
「飯を作れ」
「なっ! くっ、でも、今日は」
「良いから作れ! 俺の言う事が聞けないのか?」
の声に思わず、脅えてしまいました。
「わ、分かったよ。今すぐ作るから」
「明日からずっと、お前が晩飯を作れ!」
「……うん」
父は息子の言葉を聞き、ようやく落ち着きました。
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