304枚目 「線を踏み越えて」


 祭壇へ続く道は揺らめく魔力板の向こうに閉ざされる。白き者エルフ二人を含め、六名が洞窟に踏み入った時点でレーテが結界術を発動させたのだ。


 挟撃を防ぐためであり、全てが上手く行かなかった場合の保険でもある。


 グリッタとクリザンテイムは閉ざされた入り口を前に振り返る。彼らの突入からそれほど間を置かず、目前の林から大弓が唸る音が聞こえた。


「門番まがいを任されるとは、腰を痛めた商人に与えていい仕事じゃあないと思うんだが」

「 (鼻をならす)」

「あー……なるべく邪魔にならんよう気を付けるから、そっちはそっちで好きに暴れてくれ。せっかく広くて平らな足場があることだしなぁ」


 愚痴の間にも音がする。砂利を蹴り、木の皮を抉る爪の音が。

 対岸に現れた黒い爪と甲殻の群れを前に、クリザンテイムは無言で武器を構えた。


 巨躯の踏み込みひとつで、土が抉れる。


 飛び散ったそれを手で払って、グリッタは双槌で砕き飛ばされる蟲の殻を目撃する。一匹、二匹、三匹四匹五匹六匹――遮蔽物がないとこれだけ身軽に動けるというのか。それともこれまでは隠密が主目的であったが故に本気が出せずにいたのか――ああ、それにしたって。


 凶器を手に両腕と身体をぐるぐる振り回すクリザンテイムを前に、グリッタはぼやく。


「これ、カフス売りの出番はそんなになさそうだな」


 一応、長剣を抜いたまま構えているが。復活しそうになった鎧蜘蛛アダンスの爪やら頭やらを水に落としたり蹴り飛ばしたりして時間を稼ぐぐらいしか役目が無さそうだった。


 カフス売りの商人は作戦会議前のやり取りを思い出す。

 彼の同行を渋った、少年少女の顔と態度を。


「…………謀ったなぁ?」







 視界を塗りつぶすように、手彫りの岩壁が続く。

 ほんの数日前に見た風景と同じく一本道には補強の為の木枠だけ、定期的に表れる。


 カンテラの灯りを頼りに進む六人の歩幅は、次第に小さくなっていく。


「グリッタさん、意図的に闘いから遠ざけたこと怒っているかしら」

「万が一があるからね。彼はこっちにいない方がいいだろうと思って」

「……気を取られかねない、ってこと?」

「そうだね」


 グリッタは某絵描きによって『代替者エアザッツの心臓・ハーツ』という呪いを受けている。作戦中にキーナに万が一があれば彼の身まで危ういが、一方でグリッタは自己犠牲を厭わない。大鎧蜘蛛がキーナを盾にした場合、何をしでかすか読めないと判断されたのだ。


 針鼠の表情は伺えないが、心配の他にも思うところがあるらしい。二日目にも話していた「グリッタの事情」に関わることなのだろう。


 殿しんがりを務めるジェムシは錆浅葱の三白眼を細め、長棒を持ち直した。


「ま、蟲を殺すっつうならともかく足止めが目的なら問題ないだろ。俺ら三人の中で代えが利くのは近接の前衛だけ。つまり俺がカフス売りと入れ替わるくらいで丁度いいってわけだ。過剰な心配は、するだけ損だぜ」

「……確かに。彼女と相対すると決め壁を破った時点で、逡巡の余裕はない」

「そうだ。我々は、やれることを全力でするだけだ」

『です!』


 着実に祭壇に近づいているというのに、場に流れる空気は重たくはない……これは、互いが互いを気遣い無理やり緊張を解そうとした結果だった。


 レーテとトカは身体の震えを隠すことなく、ジェムシも堪えてはいるようだが微かに義腕が軋む音がする。


 不安と対峙しているのだろうか。この場にいることを後悔しているのだろうか。


 怯えに似た感情の表出を、おおよそ恐れと呼ばれる彼らの反応を、ラエルは理解することができないまま歩を進める。理解できないなりに歩幅を抑え、逸る気持ちをほんの少し押さえつけた。


 右腕に巻きつけた短剣の鞘をなぞる。

 手袋の内側が酷く熱い。一歩進むごとに心臓を握られる錯覚をする。


 そうして。木枠ばかりが並んだ洞窟の終わりに、突き当りが見えた。祭壇はおろか広場も確認できない……初日には無かった、行き止まりである。


「罠だと思う?」

「ええ、十中八九」


 ラエルは眉間に皺を作りながら観察する。ほんの僅かではあるが、四方の壁にも魔術の痕跡が見える。存在を隠すつもりもない、凶悪な術式の羅列ばかりだ。


(そもそも壁自体にも、違和感が、あるような……)


 ラエルはもう少し目を凝らす。


 数秒して、それが何の集まりなのか理解して、肌を粟立たせた。喉から漏れかけた悲鳴を飲み込み腕を擦る。思わず隣に居たハーミットのコートを引っ掴んでしまった。


 ハーミットも気づいたのか、ラエルの手をコートから剥がすことなく苦笑する。


 襲ってくる敵としてならともかく、心の用意もなく観察していたものが蠢く蟲の塊だったなどと気づけば驚くに決まっている――嫌いな蟲なら猶更だ。


「幾つか魔術陣が敷かれているみたいだ。精査を頼みます、ツァツリーさん」

「はい」


 ツァツリーはラエルの隣に立つと、壁とは距離をとったまま視線を向ける。

 黒曜の瞳は、前方を塞ぐ蟲殻、左右の壁、天井、床の順に一通り眺めて伏せられた。


「『這い寄る油クリング』。『地掘竜タルパ・インの擂鉢シーディア』。『呪毒ユゥトゥの蝋涎・ワックス』。『棘綿雨レイニードル』。『それが剣シュヴェルトなら・フュ・わたしも剣をシュヴェルト』、『それが意思アプズィヒトなら・フュ・わたしも意思をアプズィヒト』……」

「なるほど? 殴りかかっても魔術を放っても反射カウンターされる上、陣を踏んだら油で滑って落とし穴で毒蝋攻め、追撃で棘の雨が降るってわけだな」

「術に嵌れば確実に死ねそうなあたり、手心はあるのかもしれないわね」


 二の腕を擦りながら、紫の目が「す」と細められる。苦しみ方の種類を脳内で並べてみての発言だろう。感情を抜きにさらっと口にするあたりは、やはり黒魔術士である。


 考えてみれば、大鎧蜘蛛と同化した彼女はラエルに黒魔術を教えた張本人だ。魔導王国に残っていた資料と証言を照らし合わせると白黒両方の素質があるということになる……ハーミットは思考を止めることなく、ツァツリーの声に顔を上げた。


「阻害が多すぎますね。ほどくなら数日はかかりそうです」

「それなら俺の出番だね」


 ハーミットは革手袋を開いた。

 指の間には親指ほどの小瓶が四つ――蚤の市でも使った「劇薬」である。


 魔術陣に投げつけられた瓶が砕け、鉄に似た匂いが立ち込める。魔術陣が破壊されると同時に壁を構成していたらしい蟲たちがばらけ、額を晒していた王冠頭を全てこちらに向けた。


 警戒音と共に吐き出された無数の糸束を前に、ハーミットは一歩だけ後退する。示し合わせたように隣に立ったツァツリーの詠唱で『翼甲の盾バスピス』が形成されるのと同時だった。


 盾ごと糸に塗りつぶされていく進路を前に、白魔術士は次の詠唱を口にする。


「『我が血肉となれブラッドライン』」


 白服の内側に吊るした魔法具が「ばちん」と妙な音を立て変形する。魔力トランス変換器デューサ――魔力吸収ドレイン式を使用する際に魔力中の不純物や濃度差を取り除く濾過器である――から前方に魔力塊の鞭が形成された。


 ツァツリーの手にとられ、鞭先はすぐさま糸の壁を突き破ると一面にひしめく王冠頭に次々直撃する。


 黒曜の眼が鞭の軌道を追う。器用にも全ての鎧蜘蛛アダンスの腹部を穿ったところで、相手の抵抗がなくなった。魔力を抜き取られた蟲殻は乾燥した枝葉の如く軽い音を立てて崩れていく。


 吸収した魔力の馴染みを確認して左のつま先を数回うちつけると、魔法具からまた「ばちん」と音がした。どうやら起動解除したらしい。


「怪我人は?」

「居ないよ。お見事でしたツァツリーさん」

「……いい練習台になったことは確かですね」


 褒めるハーミットから目を逸らし、ツァツリーは蟲壁の向こう側に目を向ける。


「おうおう、余裕ぶっこいて本番にヘマとかすんなよぉー?」

「貴方こそ。同じ敵を前に二度も得物を取り落とすなど許しませんよ」

「っは、言ってくれるじゃねぇの」


 ジェムシと軽口を交わしながらツァツリーは周囲を確認する。この辺りに限って、黒曜の眼に目立つ魔術陣や痕跡は残っていないようだ。


 周辺の魔力濃度の高さから認識できていない可能性もあるが、彼女以上の魔力可視を行える人員はこの場に居合わせていない。唯一の例外は索敵に長けた獣魔法を扱えるノワールだが、今は危機探知に神経を尖らせている最中だ。追加の仕事を振るのはよろしくない。


 致命的な罠を踏まないように避けたり解術したりを繰り返す内に、遂に目的の祭壇が見えた。見えてしまった。


 ひどく静かな道のりに、黒髪の少女は思わず足を止める。

 あと数歩で広場だというのに、鎧蜘蛛アダンスはおろか彼女・・が居る気配もしない。


「……おかしい」


 ラエルは通路を振り返る。


 見栄えの悪い蟲の壁。

 あんなにもあからさまな罠を仕掛ける理由。


 天井の形を、木枠を、蟲殻が散らばる遠い地面を、素早く流し見る。


 順調すぎる。できすぎている。


 空気の弛緩――緊張の緩み。


 足元の違和感。


「っ」


 踏み締めていた岩の灰色が、いつの間にか湿り気を含んだ黒に変わっている。


 ここは既に・・・・・祭壇の間・・・・鎧蜘蛛・・・の領域だ・・・・


 血相を変えたラエルを見て、ハーミットがレーテに指示を飛ばす。高い魔力濃度の中、索敵の為に神経を集中させていたノワールが同調リンクを放つまで数秒。


『上方から高魔力圧感知、来るです!!』

「へ――『半月のへミスフィア・ボーダー』!!」


 岩の天井が落ちて来たのが、次の瞬間だった。







 暗い。重い。灯りが消えた。


 持ち込んだ飛行カンテラが今の衝撃で壊れたらしい。岩と魔力壁の感触を頼りに安全を把握する。追撃はない。結界に何かを巻き込んだ感触はなかったはずだが、目視で確認するまでは気が抜けない。


 レーテは、暗闇の中で結界を編むことが、こんなにも難しいとは知らなかった。


「ぜっ、全員無事かね」

「な。なんとか」


 絞り出した言葉に、声が返って来たことに安堵する。

 結界を維持したまま腰のカンテラに手をかけ、慎重に光を灯す。ひとり、ふたり、さんにんと、少しずつ光源を増やしていく。


 飛行カンテラに比べて照らされる範囲は狭いが、魔力干渉で暴発が起きないように結界で覆った特別製だ。この闘いの間くらいは使い物になるだろう。


 ドーム状の魔力壁を、岩片と砂が滑り落ちる。


 罠だと気づかずに前進していたら後続に落石が直撃していたことだろう。ここまで来て、闘う前から脱落者が出ていたかもしれないという可能性にぞっとする。


(それに――ああ、話に聞いていたのとは、ずっと印象が違う)


 衣擦れひとつですら酷く響く。灯りを得ることで視界に入った祭壇に禍々しさは欠片もなく――だからこそ祈りの場に陣取った巨大な鎧蜘蛛アダンスの体躯と、頭上から下がる巨大な繭とがアンバランスで、異様だった。


 きちきちきち、と。ここに来るまで何度も聞いた蟲の音がする。


 静まり返った広場の中に響き渡るそれは一人分。

 王冠頭に並んだ八つ目が振り返り、背上に白い身体を起こす。


 魔術騎士が纏う魔導鎧にも似た禍々しい甲殻、錆びた剣を研いだような黒い爪。


(彼女が……骨守が犯した罪の、象徴……)


 骨と皮の稜線には肉的な美しさなど欠片もない。

 数多の子を束ねる母蜘蛛は身体に髪を這わせ、「ぎい」と顎を鳴らした。


 耳障りな音が、翻訳魔術トランスレータ―を介して人の言葉と置き換えられる。


『――ようこそ。歓迎するわ』


 言葉と共に、漆黒だった広場の壁からカンテラの光がこぼれる。わじゃわじゃと蠢く気配から、小さな方の鎧蜘蛛アダンスが灯りを隠していたのだと知る。


 大鎧蜘蛛は仰々しい動きで手指を組むと、腰元にある王冠頭の上に添える――「非敵対」の姿勢は、多脚をもつ彼女にとって意味を持たない。


 結界の維持に問題がないことを確認して、レーテはラエルの背に目を落とした。


 小さな手が、静かに拳を握るのが見えた。


「……やけに手の込んだ歓迎をしてくれたわね」

『あは、分かってくださる? 蟲の手で「モノを作る」だなんて難しいこと、指示だって面倒だったのよ?』

「ふざけないで。死ぬところだったわ」

『肉になったら美味しく食べてあげたに決まっているでしょう。何をそんなに怒る必要があるの』

「貴女、私以外・・を狙ったでしょう?」


 ラエルの声に女性は、非常に億劫な様子で瞳をこちらに向けた。


 白目の見えない、獣の目。


『……珍しい顔も居ることだし、捧げものが足りないことは大目に見ましょう。それにしても来るのが遅すぎて腐ってしまうところだったわ旦那様・・・。引継ぎの準備はできていることだし、かの伝道者を生贄に私を殺しに来てくれたのよね? ねえ?』


 母蜘蛛の言葉に反論しようとしたラエルだったが、トカの手によって制される。


 背に回した指で全員に「戦闘態勢」の指示を出す。

 

「この期に及んで時間稼ぎをするんだな、シャトー・・・・……敵対するなら、諱で呼ぶ方が礼儀だろうか」


 伏せられていた赤茶の視線が、逸らされることなく妻へと注がれる。


(……会話は、既に何度も試みた。しかし何も変わらなかった。全てが一時凌ぎだった)


 変質した直後ならともかく、今の彼女に「人としての意識が残っている」と判ずるのは難しい。ラエルやハーミットが立てた想定と、現状がかけ離れている可能性だってある。


 立場が、認識が、生き物としての常識の差が、言葉を打ち消す壁になる――両者が互いを知るのに、凌ぎを削る以外の方法がない。相手は、こちらの命を取りに来るのだから。


(目を逸らし続けてきたことを知る義務が、私には、ある)


 目に映るのは「そこに在って見えるもの」だけだ。


 人の記憶を得た蟲と、理性を失った人間との区別がつくはずもない。


シャトル・・・・ラングデュ・・・・・シャーデ・・・・レイシー・・・・――私は約束を破る為に来た。君の願いは叶わない」

「……私たちは、貴女を人として裁きにかけるためにここに来たわ。駄目元で聞くけれど、大人しく捕まってくれる気はない? シャトーさん?」


(ただひとつ。彼女と我々に共通点があるとすれば、それは分かり切っている)


『ん、ふふ。あは。そう、そうなの……あなたたちも、わたしを助けてくれないのね』


 蟲顎でひとしきり笑って、シャトルと呼ばれた大鎧蜘蛛はこちらを見た。


 食料ではなく、命を刈り取るべき外敵として、狙いを定めた。


『ええ、最期に会えて嬉しいわニートカ・・・・ラエル・・・。……嬉しくて、恨めしくって、壊れてしまいそう、だから――この場でなますにしてあげる!!』


 硝子玉に似た深淵には底が無い。


 たったひとつ「まだ死ねない」と、本能を孕んでいる。




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