305枚目 「静寂の口笛」
「これらは
白肌の腕が振り下ろされると同時、岩壁が崩落したかと錯覚するほど、洞窟の壁に見えていたものが
祈りの場は瞬く間に夥しい子蜘蛛の群れに満ち、祭壇に居座る
場に満ちるプレッシャーはそのまま、しかし指導者に死角が生まれたのを確認して、ハーミットが結界内に防音魔法具を起動した。
「レーテさん、退路確保の為に結界の維持を。ツァツリーさんはレーテさんの護衛を。結界の耐久度、高威力の黒魔術、蟲爪などの質量攻撃に注意。トカさんとジェムシさんは遊撃、俺はラエルを祭壇まで連れていきます」
針鼠が口を動かしながら距離を測る。蟲の歩幅がどれほどで
「あと三秒」
言葉を待たず、結界から黒髪の少女がひとりだけ抜け出た。圧倒的な質量をもって距離を瞬く間に詰める巨大な蜘蛛の群れを前に、たじろぐ気配もなく前に出る。
紫の目が、場に満ちる魔力の余波を受けて鮮やかに瞬く。
彼女には恐怖とそれに伴う感情が欠けている。
戸惑い、迷い、逡巡すれど、彼女に「恐れ」は微塵もない。
(さん)
ラエル・イゥルポテーは、そのために多くの枷を課されて生きて来た。
指導者の保身のために押し付けられたルール。指導者の身の安全のために叩き込まれたルール。
黒魔術士として生きていくために必要だと教え込まれた、心構え。
魔法具を使用しての魔術の禁止――撤回。
黒魔術を使用して他者を防衛することの禁止――無視。
ラエルは約束を守ることが苦手で仕方がない。
今だって、多くの約束を破っているに違いない。
そんな彼女にとって唯一、命中率六割という実力だけは「制限を守った結果」だ。
(に)
殺すと決めたもの、壊すと決めたもの以外に、黒魔術を向けてはいけない。
教えの通り、ラエルにとって黒魔術は「殺すと決めた生物」に向けるものだ。
その力は「狩り」の手段。
狩りとはすなわち、命を奪うこと。
今は、三日前と同じ。
(いち)
「『
――――左腕、黒手袋の指先から
空気を切り裂く瞬きの閃きと轟音が飛び散る。壁面を焦がす勢いで奔った橙の光色が蟲の腹を貫く。黒い甲殻を穿った雷撃は、ひるんだその背を通り抜け周囲の蜘蛛へ次々伝播していく――『
雷撃を受けた広範囲に渡って、鎧蜘蛛の動きがほんの少し鈍くなり、控えていた後がつっかえる。明らかに隊列が乱れたのを確認してトカとジェムシが前に飛び出した。
最前列に居た一匹が錆浅葱色の長棒で
トカが岩壁に向かって腕を振り広げる。この数秒で、どう糸を張ったのか分からないほど素早く岸壁に叩きつけられた甲殻は、おおよそ人の腕では再現できないだろう衝撃を無抵抗で受け砕け散った。
不意を突かれた鎧蜘蛛が、足を止めている個体から順番に壁へ叩きつけられていく。
いま、五匹目が視界から消えた。広場中に感電した『
(よ、かった。効いてる!)
「焼けば肉になるような体液なら、雷の熱だって通用するだろう」――三日前の会敵時にラエルが放った『
ラエルは、肌を裂くような雷の余波に身体を強張らせながら指の形ごと固まって動かなくなった左腕を無理やり下ろした。
体内の魔力が暴発したのではなく、発現した魔術が空気に誘爆しての帯電である。
物理的に魔力を食らいながら空気中を走る細かな余波が、肌に幾つも傷をつける。
動けなくなったラエルの前に、足音もなくハーミットが立つ。
「うん。上出来だよ」
頷きより、灰色の剣が振り抜かれる方が速い。
剣閃はラエルに一矢報いようと爪を向けた鎧蜘蛛を弾き受け流す。それでもあっという間に三匹に囲まれたが、彼は返す手で剣を持ち直し横並びした鎧蜘蛛をひっくり返すと露わになった脚の束、体節を横一文字にぶった切った。
破片を蹴り飛ばし、距離を詰めようとしていた二匹をトカの前に打ち上げ、一匹を斜め上から両断、遠心力を利用して振り回した剣で数匹同時に斬り飛ばす。
「
鎧蜘蛛の猛攻を捌き切って得たほんの数秒の間に、ハーミットはラエルの方へと振り向いた。
「よかった、暴発はしてないみたいだね」
(この状況で、何を和やかに!?)
百面相するラエルの反応を無視して、ハーミットは魔術の反動で軽口も叩けない少女の右腕を取る。
少年は鼠顔を上げると目の前にあった黒い前髪を除けて、晒された
「?」
同時に全身の魔力が消失する感覚があったので、血中毒や魔力由来の帯電を解除するために触れられたのだということだけ、理解する。
「よくできました」
声と共に手が放され超至近距離に金糸が舞い、屈託ない笑みが見えたかと思えば針山の背が視界を覆う。
浮遊感。
後方へ投げ飛ばされたのだと認識したのは、ラエルが背後の結界に控えていたツァツリーに受け止められた後のことだった。
(ほ、褒められた……褒められた……!?)
確かに、ハイネックの
戦闘の最中、装備を外す暇などあるわけがない。その一方、お互いの顔面はフリーである。
リスク管理。効率重視。
なるほど、理屈は分かった。
(でもだからってわざわざ前髪を上げないと見えないような場所に、普通――触るにしたって、頭突きでいいじゃないの!!)
ほんの一瞬だけ逸れたラエルの思考はしかし、ハーミットが振り向きざまに放った重撃と、薙ぎ払われた蟲の残骸を前に吹き飛んでいった。
無魔法で阻害された全身の魔力が回復するまで数秒。痺れていた左腕の感覚が戻って来る。
今のやり取りで緊張が適度に解れたのか、
まさかこのプロセスすら、少年の計算づくとは思いたくもないが……。
ラエルは腰元から二本目の
吸収効率と摂取効率を突き詰められた甘みと苦みが軽やかに胃に落ちた。緊急時に飲まされたものといい、いつ飲んでも不味い。
「足りますか」
「ええ、今回は一度しか使っていないから。これで十分」
……その後方で、結界術使いは錆色の目を伏せて所在なさげに唇を噛む。どうやら最初の衝撃で抜けた腰が戻らないらしい。結界は安定しているが、彼自身の体制はピクリとも動かなかった。
「……すまない。私は、肝心な時に力になれない」
乾いて割れた唇で、レーテはそんなことを言う。
黒魔術士と白魔術士は振り返ることなく口を開いた。
「私には結界を張り続けることなんてできないし、じっと待つことも苦手よ。それに、レーテさんの役割は『生きて真実を伝えること』でしょう」
「ラエルさんの言う通り適材適所です。荒事は私たちにお任せください」
「うぅ」
「そうですね。応援してくれたら。元気は出るかもしれませんが」
「……へ?」
突拍子もなくツァツリーが言って、レーテは口を半開きにした。
ツァツリーは自らとラエルを指し示し、レーテに催促する。
まさか、この緊迫した状況でそんなことを要求されようとは思わなかったのだろう。レーテは目を白黒させながら、必死になって言葉を選んだ。
「か、必ず。必ず、見届けると誓う――不死鳥の加護があらんことを!!」
……思ったことを口にしてみれば、存外大きい声が出た。息を大きく吐いたことで、新しい空気が肺に戻る。緊張で石のようだった身体が僅かに緩みを取り戻す。
ツァツリーはその言葉を聞き終えて、斧棍を手に「すくり」と立ち上がった。
いつの間にかレーテの方を振り返っていたラエルはニコリと笑って、握りっぱなしでいた手を開いた。
「それでは。生きて戻るとしましょうか」
「ええ、貴女も」
二人は殆ど同時に結界を出る。
ツァツリーは背後の結界を守るために足を止め、ラエルはその隣を追い越しハーミットへと駆け寄る。
鼠顔の四天王は背後に立ったラエルを一瞥することなく、次から次へと襲い来る
「遅かったねぇ、長話は済んだ!?」
「そう何秒も話していないわよ、待たせたわね!!」
ラエルは言いながら針鼠に背を向ける。斧棍で大蜘蛛を打ち飛ばしているツァツリーの姿が見えなくなり、あっという間に道を塞いだ
ラエルは振り下ろされた蟲爪を避けながら、蟲に隙を作ってハーミットに急所を刺してもらう。そもそもこの数を相手に、不慣れなナイフ術で抗うなど考えてもいない。
「――それで。どう、なの! あの人の様子は!?」
「音沙汰無し、だね! トカさんが予想した通り、時間を稼いでいるみたいだ」
「そう。やっぱり、物理的に距離を詰めるしかないわね」
狙うは多対一ではなく一対多の状況だ。更に言えば、魔術戦ではなく近距離下での物理戦に持ち込むことが望ましい。
大量の
距離を詰めなくとも、届くように。
(――ノワールちゃん、『静寂の口笛』をお願い!)
「『
蝙蝠一匹とひとり分――ごく狭い範囲で発現した獣魔法が、ラエルの詠唱を隠蔽する。
黒魔術士は
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