292枚目 「塗擦と電紋の根」


 トカが作った小屋は、そこまで広くない。

 共有リビングと倉庫が二つ、そしてラエルが使用していた仮部屋があるだけだ。


 倉庫のひとつは賊たちのスペース兼荷物置き場、もうひとつの倉庫は物で溢れかえっており座ることも難しい。よって、ツァツリーが治療場所に選択したスペースはリビングである。


 今朝食事をした憩いの場は、現在消毒液と薬の匂いに満たされていた。


「……いやぁ、暴れねぇとやってられねぇとは思っちゃいたが、勝手に拘束解いたからってコテンパンにすることないじゃんかよぉ……」

「武器を向けた時点で敵ですよ。戦場を舐めないでください」

「ここは戦場じゃねぇだろうが!! っつーか俺は最初から殺気とか出してなかったし!! あの針鼠ひとりでどうにかなっただろ!? なんで全員加勢してきやがるわけ!? 袋叩きは想定外だっつーの!!」

「貴方たちが嘘か真かも察せさせられない茶番を始めたせいですよ。自覚してください」

「っでぇ!? 打撲打撲!! そこ絶対痣になってるだろ!! 白魔術士名乗るなら患部をつねんじゃねぇだだだだだ!!」

「…………」


 ツァツリーは無言でジェムシの身体に魔力を流し込む。抓るも何も触れてすらいないのだが、彼が「痛い」と言うなら痛むのだろう、と。


(幻肢痛か古傷か、それとも別の何かが痛むのか)


 どれにせよ、彼が弱音を吐くということはいよいよ人見知りを辞めた証拠である。

 ガルバ・ツァツリーは白魔術士。治療者として成すべきことをするだけだった。


「……っつーかラエルさんに怪我させちまったぁ……なんて謝まりゃいいんだこれぇ……」

「貴方たち四人が悪いんですから四人で謝ったらどうですか」

「そりゃあそうなんだが、武具突きつけてたのは俺だからよぉ……」

「全員等しく悪いんですから」

「二度も言うなよ分かってるっつーの」


 ジェムシはむくれながらツァツリーの手を退ける。痛みに関しては本人も治療のしようがないと分かっているのか、魔力の無駄使いをさせたくないらしい。


 彼女は頭の天辺から見事に落雷を食らったトカの治療に始まり、屋根の上で痺れていたファレと、一時的に結界に閉じ込められていたクリザンテイムの診察をした後である。ジェムシは一番最後に順番を回されていたのだ。


 ツァツリーはジェムシに払われた手をあてがい直すと、何も言わず魔術発現を再開した。


 彼女が使用している魔術は白魔術に区分されるものだが「回復術」ではない。自然回復力を高めるために被術者の代謝を上げ、傷の治りをほんの少しだけ速める強化付与エンチャントだ――それでも、鼠印の薬や魔力補給瓶ポーションの効力と合わせれば、傷痕ひとつ残ることはない。


 床でごろごろとしているファレや、トカと話をしている商人たちを見る。クリザンテイムは未だ何も発しないが、フードの下で何を考えているのかまでは想像がつかない。


 ツァツリーは納得いくまで魔力を注ぎ込むと、薄くなっていく光色を名残惜しく思いながら口を開く。


 か細くとも目の前の青年には届く声量で、心からの疑問だった。


「いいんですか」

「何が」

「貴方たちは同胞を殺されている。私たちとは事情が違うでしょう」


 ツァツリーは目を伏せた。


 治療の邪魔にならないよう外された木製の義腕が、白魔術士の細腕に抱かれている。

 錆浅葱色の目を細め、ジェムシは独り言をする調子で言葉を返す。


「いいんだよ。俺たち全員の意思を確認して決めたことだ。今だって実際に目の前にしたらと思うと分からんが、まあいけるだろう」

「決め手は?」

「……そうだなぁ。ラエルさんに悩む心と意志がなければ、俺が背骨を砕いて終わりだったかも知れん。俺、感情と理性の制御は昔から苦手分野だし?」


 そうじゃなきゃ第三まで流れてねぇよ。と、ジェムシは義肢を受け取りながらぼやく。


 責めも案じもしない黒曜の視線に、青年の口元から歯が軋む音が零れた。


「それでも、俺たちはここで死んでられねぇ」

「……」

「例え後先が無くても、俺たちはこの村から出なきゃならない。そのためならプライドも憤怒も必要ない。俺は、これ以上失うわけにはいかない……だから、そう決めた」


 噛みしめるように、感情を押し殺した言葉だった。


 ツァツリーは何も言わず片づけを始める。


 彼女には青年の言葉を否定することができず、また青年の行動を肯定することもできなかった。ジェムシの感情を近い意味で理解できる彼女には、こういう時にかけられる言葉が見つけられない。


 だからせめて。意思表示を。


「……もし次があれば。その時の私は貴方の敵ですからね」


 私はあの娘・・・味方です。


 ここまで中立を保っていた白魔術士は、はっきりと黒魔術士の側につくと明言した。


 周囲に付与していた強化術式を解術して立ち上がる。異論があればかかってこいと言いたげな態度を見て、ジェムシは口の端を歪めた。


「いちいちおっかねぇのは白魔術士になった程度じゃあ変わんねぇかぁ」

「人は簡単に変われませんよ。あわよくば変わらないままで幸せになりたいんです」

「うわぁ欲深ぁ」


 口元を抑えたジェムシに対し、ツァツリーは無言でジェムシの頬に指を突き刺す。


 ひと目で痣だと分かる紫色を狙った。


「っだぁっ!?」

「痛覚はあるようで宜しいことです」

「良かねぇよ痛えのは変わらねぇんだから!」


 頬に響く鈍痛に歯ぎしりを酷くしながら、ジェムシはわざとらしく顔を抑えようとしたが瞼を瞬かせる。つつかれた痛みは幻肢痛にも疑問にも勝てず、上体を起こした彼の手はすぐに顎の下に添えられた。


「そういやぁ、すげぇ形相の針鼠がラエルさん引きずってったけど。あれはよかったのか?」


 ツァツリーはその言葉にどこか遠い目をして、苦笑をひとつ返した。







 崩れた屋根の破片が落ちぬよう張られた臨時の結界が、時折美しい魔術陣の文様を表す。

 星空が降るように天井含め半壊した某部屋はあらかた片付けが済んでおり、木っ端になった棚やベッドの破片が部屋の隅に寄せられていることを除けば、まあ綺麗なものだった。


 その、お世辞にも部屋の体をなしていない部屋にて。厚手の布が被せられた野営用の天幕がひとつある。内側から零れた橙はカンテラの灯だ。


 防音魔術の内側。橙がぼんやりと照らす床にはシーツが敷かれ、その上で黒髪の少女は上半身を晒し、脱いだ服を胸元に寄せて縮こまっていた。


 少女の背後に座る少年は神妙な顔つきをして手袋を外すと、消毒液を塗りたくった指で少女に触れる。


 冷たさを感じたのか、少女の肩が僅かに震えた。


「ねぇラエル」

「は、はい」

「説明を事前に聞いていたっていうなら、彼の武器が螺鈿武具ミスリアルムであることも高導魔性以前に金属の塊だってことも理解してたはずだよね?」

「え、ええ。そうね」

「突きつけられてる状態で範囲魔術なんて使ったら爆散しかねないし被弾の可能性も高いってことは分かってたはずだよね? なぜ使った」

「あ、あははは、はは……っぁあ痛いいい」

「そりゃあ痛いに決まってる。皮膚の浅い層とはいえ、血管が破裂してるんだから」


 言って、金髪少年は少女の背をなぞる。


 それは半裸の背姿とだけ言うには余りにも痛々しい光景である。

 ラエルの背には夥しく枝分かれした無数の稲妻が赤々と刻まれていた。


(……手首の傷の時も思ったけど、この規模の電紋を見るのは初めてだな)


 水膨れと火傷の上を滑った武骨な指は、摩擦によって痛みを与える。


 しかしラエルは悶え苦しみながら服を抱きしめるしかない。というのも、彼女は現在上半身を晒している。ふりむけば鼠顔をパージしたハーミットが薬箱を開いているので下手に抵抗できないのだ。


 ハーミットは診察以上に傷をいたぶるつもりは全くなかったようで、ラエルの反応に苦い顔をしながら手を拭くと薬を選び始めた。


「流石に今回は肝が冷えたよ。マツカサ工房製の防具じゃなかったら背骨が死んでたと思うから、次からは本当に気を付けてください」

「ちょ、敬語、敬語が」

「これだけ驚くと敬語が混ざるらしい。俺も久しぶりだ」

「つ。次は、気をつけるわ!」

「……明らかに反省してないような……」


 きゅぽん、と蓋を開けるような音が響く。


 魔法瓶に似たその音にラエルは身体をぎくりと固めると、必死に背中を丸めた。

 丸めたついでに背中の傷が連動して開いたので、結果として更に悶えることになったが。


「っ、うううう」

「……その体制、痛くないか? 身体起こしてよ」

「っ今、縛りあげて置いて行く算段立ててるでしょう!? そんなことされても意地で着いていくわよ私!!」

「置いて行かないよ。それより、君の特性をどう活かしたものか考えてるんだ。さ、薬を塗るぞ。専ら君を辱める意図はない。ほら、服が落ちる。しっかり持って」


 「いま開けたのは魔法瓶じゃなくて軟膏だよ」とハーミットは布をかけた口で説明する。


 熱傷や傷口の修復を速める素材がうんぬん、と専門用語交じりの文字の羅列はラエルの耳には入らなかったようで、少女はひとり唇を噛みしめながら丸めていた背を元の角度に戻した。


 ハーミットにしてみれば目の前に居るラエルは傷だらけの少女でしかないのだが、半裸に近しい状態で成人男性に背中を晒している当人はそれどころではない。


 リビングの面々にはハーミットが行くまで部屋から一歩も出ないよう言ってあるし、天幕の外に影が漏れないよう布を足し防音魔法具まで使用する徹底ぶりである。覗きや盗聴をされる心配こそないが……。


「なんだか、年頃の乙女にする扱いにしては雑な気がするの」

「へぇー、君が隅々まで塗り込んで欲しいって言うならそうするけどー?」


 灰が主原料かと見紛うほど灰色をした軟膏を指に取りながら言った金髪少年に対し、ラエルは全力で首を横に振った。

 肩から背中にかけて痛みが走るがそれどころではない。この木の根に似た熱傷は背中から身体の前面の一部まで覆っているのだ。


 流石に、流石にハーミットにそこまでしてもらうわけにはいかないとラエルは思う。少女の理性は強固で、恐怖以外の感情は豊かだった。現状ですら申し訳なさと恥ずかしさで心の底から降参だった。


 顔が燃えるほど熱い状態で振り向くこともできず、まさか頭から湯気がたっているなんて思っても居ないラエルは消え入りそうな声で拒絶する。


 ハーミットは琥珀の眼をぱちくりとして、無垢な子どもの如く首を傾げた。


「怪我人が遠慮とか、しなくていいのに」

「するわよ!!」


 つい数ヵ月前までボロ着でサバイバルしていたとは思えない羞恥心の発露であった。


 とはいえハーミットも「はいそうですか」と引き下がれるわけがないので、ラエルの言葉を半分無視して軟膏を塗りたくる。少女が望むように早く終わらせるには両手で作業した方が効率はいいだろうが、そんなことをすると肘鉄を食らいそうなので時間効率を諦めた。


 ちまちまと、地道に右手一本で塗り進める。水膨れも熱傷も裂傷もどれも痛々しい。

 薬を塗り込む痛みが少しでも軽ければいいのだが、実際どうなのかはハーミットの知るところではなかった。


 ハーミットの指が優しすぎてくすぐったいのか、ラエルが視線を後ろにやる。


「……軟膏くらい自分で塗れるわ」

「ふぅん。それは凄いな、君は背中に目がついてるの? きちんと塗れば数時間で治るものを引き延ばすつもりなのかぁ。三か月前みたいに痕を残したいって? へぇえそうなんだぁぁへぇぇぇ」

「うぐう」

「諦めなさい」


 言って、琥珀の眼は少女の右腕へと滑る。

 二の腕に刻まれた赤紫の痣は、今も爛々と輝きを放つ。


 どうやら暴走の気配はない。


「……ツァツリーさんにも任せられないからね。黙って俺に塗られててくれ」


 力を籠めないように、警戒を悟られないように、ハーミットは丁寧に薬を摺り込んでいく。

 ラエルは途中で抵抗を諦め、服と膝を抱き寄せると顔を突っ伏した。


「……」

「……」


 ハーミットは傷のない首筋に指を這わせる。

 ラエルからは抵抗も、反応もない。


 金髪少年は指を離すと、次の軟膏を手に取った。


「これに懲りたら、次は無いようにしてくれよ」

「善処するわ」

「懲りてくれ」


 珍しいことに喉から引きつった声が出る。

 軟膏を摺り込む指が、一瞬だけ容赦を忘れそうになった。


 ……辛抱強く丁寧に、水膨れと火傷に軟膏を塗りつけること半刻。


 雷が根を張ったような背を前にハーミットは雑念を抱かぬよう黙々としていたのだが、ついに考えていることが口から零れた。


「しかし、上手いことやられたな」

「?」

「君を育てた人は、随分と計算高いなぁ、っていう話」


 言いながら、新しい軟膏を指に取る金髪少年。

 思考は既に、現状の検討と傷口を癒すことに傾いているらしい。


 ラエルは首を傾げようとして、なぞられた痛みに顔を歪めながら服を胸元に引き寄せる。ハーミットは苦笑しながら、柔肌を這う雷状の水膨れに軟膏をのせた。


(なし崩し的ではあるけど、これでラエルを敵視する人間は殆どいなくなった)


 事情がある賊の三人に責任転嫁をさせて鬱憤を発散させ、こちらの実力が十分であることも見せつけた。

 決めかねていた商人と結界術使い、中立だった白魔術士は良心からラエルたちの味方をした――結果的に、ラエルが有利になるようにことが運んでいる。


 立場が逆であれば、これはハーミットの役目だった。


(例え対立しようと、この先ラエルの意見は通りやすくなるだろう。後は、エヴァンたちにもこのことを報告して、作戦を練るだけだ)


 既に、育てている植物類にすら高魔力地帯化が影響し始めている。

 目標に対し問題は山積みだが、余裕はあまりない。


「……背中から見える分は塗ったから、残りは君に任せるよ。こっちで指を消毒して、こっちが軟膏だ。どっちも予備はあるから足りなかったら言ってくれ」

「あ、ありがとう。というか、もう痛み引いてきたんだけど」


 敢えて控えめに称してみたが、実のところ軟膏を摺り込まれた部分の痛みは既にない。ラエルでも異様だと分かる速度で傷の再生が行われているのか、麻酔系の薬草を混ぜてあるのか。


 ハーミットは「鼠印だからね」と言うだけで、先の説明を繰り返すことはしなかった。手袋を嵌め直し、黄土色のコートを羽織り直す。


「この程度の傷なら一時間くらいで塞がると思うよ。ええと、君の準備ができたら一度リビングで集合。その後は外で夕食にしようかと思うけど……」

「分かったわ。着替えたら行く」

「うん。急がなくていいからね」


 のそのそと、ハーミットが簡易天幕の外に出る。

 ラエルは去った影に手を振って、それから軟膏と消毒液を手に取った。


 脇腹、胸の横、腰回り、太もも。


 残った傷に軟膏を摺り込んでいく。自らの手でやってみると案外痛いもので、先ほど少年が言ったように遠慮しないほうが良かったかもしれないと、気持ちが一瞬揺らぐほどだった。


(はぁ。自分のことだけど嫌になっちゃうわね)


 ラエルは容赦せず、肌を押す。先ほどまで背後に居た少年がどれだけ手加減してくれていたのかを思い知りながら、根のような傷に指を這わせる。


 ここで対処せずに傷痕が残ろうものなら周囲から小言を言われることになるのだと、ラエルはすっかり学習している。だから比較的真面目に薬を塗ったし、たっぷり使った軟膏はぎりぎり足りた。

 底が見えるようになった器には、薬の名前と使用素材、使用期限、保管場所などが記載されている。……価格は、削られていて読めなかった。用意周到な針鼠である。


(薬の名称だけでも、メモして置こう)


 使い切っていいと本人が言っていたので気にせずともいいのだろうが、薬効を考えると並みのものではないだろう。ラエルは下着やインナーに袖を通した後で手帳に手を伸ばす。開いたそれは、先ほどトカの手から返却された個人用の手帳だった。


 『霹靂フルミネート』で痺れていたトカに謝られたばかりだが、ラエル本人はトカにとった態度ほど気にしていない。機密漏洩の相手が一人から二人に増えてしまったことで針鼠の胃が心配になったくらいだ。


(立場を除けば、個人的に読まれて困ることは書いていないはずなのよね)


 ラエルはそう呑気に考えながらぱらぱら捲る。そうして、日ごろ日課にしている頁を開く。身体に染み付いた動作が、僅かな違和感と共に止まった。


「……………………」


 ラエルは、何度か流し読むと目を閉じた。


 八重咲の緋一華アニムスに、少女の影と衣擦れの音が染み込む。

 天幕が畳まれるまで、半刻もかからなかった。




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